不屈の葵

ヌマサン

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第2章 水沫泡焔の章

第23話 槿花露命

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 怒涛の天文十九年正月も瞬く間に過ぎていく。二月、三月と乱世とは別の世界を生きているように平和な駿府での日々に、竹千代は適応しつつあった。

 ちなみに、三月六日は竹千代の父・松平広忠の一周忌。先代の死からはや一年。その事実に、松平家の人々は胸が苦しくなる思いであった。竹千代を織田の手から取り戻し、安城領から織田の勢力を駆逐することに成功している。

 しかし、竹千代の身柄は岡崎ではなく駿府。だが、幼い主君が無事だったことだけは喜ばしい。そう思う家臣も多かった。

「殿、今お読みになっておられるのはなんでござりまするか」

 仮寓の書斎にて仰向けに寝転び書を読み漁る竹千代に声をかけたのは阿部徳千代。その隣には平岩七之助・善十郎兄弟の姿もあった。

「うむ、源氏物語を読んでおる」

「源氏物語……」

 竹千代の言葉に、阿部徳千代は思い当たる節があった。正月の訪問から数日後、関口刑部少輔の娘・瀬名姫が本を持ってきていたことに。

「して、その書物は面白きものなのでござりまするか?」

「う~む、興有りといえば興有りじゃ。されど、竹千代は論語の方が好きじゃ」

「さ、さようで」

 難しい本のことを言われても、十歳の阿部徳千代には何のことやらサッパリであった。しかし、自分より一つ年下の少年が読めている書物が自分には読めないことがもどかしくもある。

「殿、剣術の稽古をいたしましょう。本日はこの天野又五郎がお相手仕ります!」

「むぅ、剣術か。今しばらく書を読みたいのじゃが、剣術の稽古も大事ゆえな」

 渋々といった様子で『源氏物語』を横へ置き、平岩七之助から木刀を受け取る竹千代。縁側から降り、中庭で天野又五郎と対峙するのであった。

「さぁ、殿!かかってきてくだされ!」

「いや、主君は斬りかかるものではない。主君が身につけるべき剣術は相手の剣から身を守ること。敵を斬るのは家臣の務め。ゆえ、かかってくるのは又五郎の方であろう」

 かかっていくのは竹千代でなく、天野又五郎の方だ。そう言われ、十四歳の天野又五郎は木刀を大きく振りかぶり、力いっぱい振り下ろす。

「てやぁっ!」

「むむむ……!」

 さすがに五ツも年が離れていては力勝負では天野又五郎に軍配が上がる。されど、剣術というのは真正面から武器をぶつけ合うだけではない。一度、木刀の軌道を横へそらし、竹千代は間合いを取り直す動きを取った。

 その後も角度を変え、斬りかかっていく天野又五郎であったが、それをすんでのところで受け流し、かわしていく。受け身の姿勢と聞けば悪い印象を受けるが、身を守っていると言い換えれば実に竹千代の剣裁きは見事なものであった。

「さ、さすがは殿……!」

「又五郎も見事であった。これからも励めよ」

「はいっ!」

 竹千代の稽古であったはずが、いつの間にか立場は逆転。天野又五郎の稽古になってしまっていた。しかし、当の天野又五郎はそのことに気づいていない様子。

 また、阿部徳千代と平岩七之助・善十郎の兄弟も思わず二人の稽古に見入ってしまっていた。そして、その場にいた人たちが今に意識を引き戻すと、竹千代はもう本を読んでいる。

 こうして駿府にて竹千代が与えられた屋敷では穏やかな時が流れていた。そんな駿府での日々も戦乱とは程遠いものであったが、人々を恐怖のどん底に陥れるのは戦だけではない。

 この年の閏五月から六月にかけて、流行病が駿府を襲った。幸いにも竹千代の周囲では目立つ犠牲者はなし。されど、今川治部太輔義元にとってはこの上なく忌々しい記憶となった。

 閏五月二十六日には娘の隆福院殿が死去。その数日後、六月二日には正室である定恵院までもが三十二歳という若さでこの世を去った。

 娘と妻を立て続けに失うという凶事に見舞われ、さしもの今川義元も精神的に参ってしまっていた。さらに、正室である定恵院は無人斎道有こと武田信虎の長女であり、嫡子・氏真の生母。

 そんな彼女が死去したことはすなわち、今川家と武田家の婚姻関係が絶えたことを意味する。相模の北条家とは第二次河東一乱以降、目立った合戦は起きていないが、同盟を結んでいるわけではない。

 そこへ、これまで同盟関係にあった甲斐の武田家との婚姻同盟が消滅。西三河から織田を駆逐したと思えば、東にも目を向けなければならない状況。この世のことは思うがままに操れるものではないことを、海道一の弓取りは思い知らされていた。

「太守様、この度は突然の訃報に接し――」

「刑部少輔、妻と娘のことはよい。予としてはこのまま出家したいほどであるが、そうも言ってはおれぬことは誰よりも予自身が理解しておる」

「はっ、ははっ!」

 ある日、今川義元より呼び出しを受けた関口刑部少輔氏純は傷心中の主君にどう接すれば良いか分からず、戸惑ったまま登城してきた。

 気遣う言葉を発そうにも途中で遮られ、その後もぎこちないやり取りが続いていく。だが、突如として今川義元の方から本題に入っていくのであった。

「近頃、尾張の虎めはすっかり大人しくしておるそうな」

「はっ、織田弾正は昨年、美濃の斎藤家とは婚姻同盟を結び、北からの脅威を払拭。されど、当家との西三河をめぐる争いに敗れたことで、尾張国内での権威は失墜しており、危機的な状況に陥っているとか」

「加えて、織田弾正信秀自身も病を患い、満足に活動できておらぬそうではないか」

「左様にございます。なんでも、那古野にいる嫡男の信長を政務に携わらせているとのこと」

 竹千代を今川に引き渡した後の織田弾正忠家は、かつての勢いを失いつつあった。当主・信秀の病により、嫡男・信長も政務に参加しているが、依然として権威回復には至らず。

 尾張国内の統制にすら暗雲が立ち込める織田家に対し、緒川・苅谷の水野氏は不安を覚え、不穏な動きを取り始めている――

「そこでじゃ、刑部少輔。ここらで尾張侵攻を試みようと考えておる。そなたの意見はいかが思うぞ」

 尾張国知多郡の国衆の心が揺れ動いている今こそ、今川氏の軍事力によって西三河から尾張へと勢力を拡大するべきではないか。今川家の当主はそのように考えているのだ。

「まさしく、太守様のおっしゃる通り。今こそ、好機にございましょう。知多郡へ勢力を食いこませれば、尾張制圧も視野に入ってまいります」

「であろう。三河と尾張国境の勢力を安定させるためにも、尾張侵攻は良き手であろう」

「されど、太守様自らが出陣することはなりませぬ。今は亡くなられたお二方の喪に服していただき、大将は別の者を派遣されるべきです」

 関口刑部少輔の言うことはごもっともであった。娘と妻の喪が明けぬうちから戦とは、良からぬ風聞が流れても致し方ない。となれば、当主自らの侵攻という手は打てなかった。

 かくして、その年の八月より今川軍による尾張侵攻が開始。この事態に織田方も黙ってはおらず、十二月には今川軍も撤退へ追い込まれることとなる。

 織田家はこれまでの外交成果を駆使して朝廷や室町幕府十三代将軍・足利義輝に停戦を働きかけたことも見事と言えよう。

 さらに、愛知郡国衆・鳴海山口氏を中人――仲裁者として和睦交渉を進めるなど、抜かりなく今川家の尾張侵攻へ対処。

 どうして織田と今川の仲立ちを山口氏が行ったのか。それは山口氏の所領に秘密があった。山口氏の支配していた尾張国鳴海領は今川と織田の勢力の境界に位置する。

 境界に位置する、つまりは今回の今川氏の尾張侵攻において最前線になってしまったことを意味しているのだ。自らの領地が最前線であることを望む領主など存在しない。鳴海山口氏――山口左馬助さまのすけ教継《のりつぐ》もその一人であった。

「父上、お疲れのようにございまするな」

「ははは、疲れぬはずがなかろう。織田弾正殿と今川治部太輔様の和睦交渉を取り持つのじゃ。一歩間違えれば、当家の所領は火の海となろうぞ」

 尾張国南東部の守りの要である鳴海城。そこには、織田・今川の和睦の仲立ちに奔走する山口左馬助と、その子・九郎次郎教吉のりよしの姿があった。

「先日、今川勢は尾張から退いたとのこと。やはり病んでおるとはいえ、織田殿はお強い。じゃが、嫡子・信長も一枚かんでおるとかおらぬとか」

「ふっ、これは父上らしくもない。あのうつけ殿に今川軍を退けるような智慧などあるものか。此度の今川勢の迎撃は織田弾正殿の采配によるものに相違ございませぬ」

 二人とも織田信秀の実力を認め、称賛している。されど、嫡男である信長の見方において意見が大きく分かれていた。それは対立はしていないにせよ、相違があることは紛れもない。

 そんな山口氏であるが、当主である山口左馬助が奔走した甲斐もあり、翌天文二十年の二月には水野、織田、今川の三者の境界に位置する蔵福寺にて織田・今川両氏の和睦が成立。

 駿府にいる今川義元の元へは、織田信秀からの要請が届けられていた。そんな彼は尾張侵攻中の十一月十七日には三河国新神戸郷神明社の社殿を造営。

 同月十九日には松平家の直轄地にある大浜の上宮神主・長田喜八郎に対し、織田氏との対立の際に松平広忠への務めを怠慢して一度は没収された神田を一年前に忠節によって与えられた経緯を踏まえたうえで、引き続き神田の所有を保証。

 こういった政務に励みつつ、尾張侵攻の行方を駿府から見守っていたのである。そんな義元であるが、書見台に書状を広げながら、傍らの太原崇孚と語らっていた。

「ふふふ、崇孚。お許が申す通り、織田弾正からは苅谷水野氏の件で要請があったの」

「はい。そして、その書面にはかように記されていたのではありますまいか。苅谷水野を赦免していただきたい、と」

「うむ。此度の尾張侵攻で当家の攻撃を受けた苅谷水野を両属させる旨を了承するよう要請してきておる」

 織田信秀からの書状の内容。これは今川の軍師・太原崇孚には見通されていた。そのため、書状を読みながら義元は笑い声を漏らしていたほどである。

「して、織田への返答はいかがなされるおつもりですかな」

「決まっておろう。苅谷水野氏を織田と今川の双方に従属させる旨、受諾することと致す」

 織田からの要請に今川が了承する。表面上は対等な和睦であったが、事実上は今川優位の交渉であった。

 なぜなら、牛田城、池鯉鮒城が今川軍に攻め落とされるなど、三河国碧海郡やその周辺における織田方の勢力は総崩れの様相を呈し、碧海郡では尾張国境にほど近い重原城を辛くも維持するに留まったためである。

 もはや、織田信秀の三河領国化の野望は潰えたに等しく、これ以上の尾張侵攻を阻止するためには今川との和睦は何に替えても成し遂げなければならなかった。

「当家としましても、このあたりで織田との戦を終わらせることも悪くはございませぬ」

「そうであろう。当家としても、甲斐や相模の動きにも目が離せぬゆえな。ひとまず、織田と争うて共倒れになるようなことだけは避けたい」

 東が静かなうちに西を攻める。さりとて、むやみに戦線を拡大することはせず、程よく有利な情勢に持ち込んだうえで和睦に応じる。欲を出しすぎることなく、戦を切り上げる。

 最も高度な判断力が求められる、引き際というものを今川義元も太原崇孚もよくよく心得ていた。

 そんなある日。織田・今川に両属することとなった苅谷水野の当主・水野藤九郎信近は兄・水野下野守信元に詰め寄っていた。

「兄者、両属など藤九郎は断じて認めませぬ!織田殿も織田殿じゃ!和睦を結ぶため、苅谷水野を切り捨てるようなやり方は承服いたしかねる!」

「これ、藤九郎。落ち着かぬか」

「いいえ!落ち着いてなどおれるものか!兄者は悔しゅうないのか、自分の所領が好き勝手に……!」

「やむを得ぬわ。我ら国衆など、時には強き大名の所有物かのように扱われるものじゃ。今はこらえよ」

 知多半島の覇者ともいえる立場となった緒川水野の当主・水野下野。されど、弟の処遇について、織田にも今川にも意見できる立場ではないことを、重々承知していた。

 この乱世は階級社会。いかに弱体化しようとも織田には抗えず、さりとて屋形号を有する今川家と対等に話し合おうなど分不相応にも程があるというもの。

「ならば、藤九郎。そこまで嫌なら、あの今川軍に抗うがよい。わしはどうなろうとも援軍を送るようなことはせぬ。どこまでも苅谷水野の問題ゆえな」

「くっ……!」

 最悪の場合、緒川水野を守るためならば弟でも切り捨てる。藤九郎にはそう聞こえてならない兄の言葉。もはや、彼の腹は決まっていた――
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