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第3章 流転輪廻の章
第55話 行く春と、初めての偏諱と、初の文書発給
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――あの今川と織田が和睦した。
四月に成立した今川と織田の和睦。それは春の風とともに翌月初旬、駿府にいる元信の耳にも入った。
「織田と和睦している間に三河支配を盤石なものとする。太守様が判断はお見事というほかない」
屋敷から見える、緑の色合いが夏に向けて強くなりつつある風景を眺めながらぽつりとつぶやく元信。そんな彼のもとに、平岩七之助親吉が落ち着いた様子で取り次いできた。
「殿、三河より内藤弥次右衛門清長どのが参りました」
「さようか。して、用件は?」
「殿に直に申し上げたいとのこと。面会の折も人払いをしてほしいとのことにございました」
「人払いを、と……?」
わざわざ三河より駿府へやって来て、人払いをしてまで伝えたいこととは何か。その疑問が元信の思考を捉えて離さなかった。ともあれ、外で待たせては悪いゆえ、早く中へ通すよう平岩七之助に申し付け、元信も身支度を整えて広間へと向かった。
元信が入室すると、すでに白い鬢髪の老人が元服前の少年と見覚えのある若武者を伴って、待機していた。彼らは元信が広間に入るのを視界にとらえるなり、深々と一礼してみせる。
「内藤弥次右衛門、はるばる三河より何用であるか」
「はっ、殿に面会させたき者がおりまするゆえ、駿府へ伺候いたしました」
「それがそなたの左隣におる者である、と」
「はっ、左様にございまする」
元信はそこで一度内藤弥次右衛門との話を切り、彼の左後方に控えている見覚えのある少年に声をかけた。
「そなた、渡辺半蔵であろう。大樹寺で会うた時のこと、よく覚えておる」
「はっ、渡辺半蔵守綱にございまする!此度は内藤殿の護衛として岡崎より供して参った次第!」
「渡辺半蔵守綱、良き名ではないか。その名にある通り、しかと松平の家を守ってくれよ」
「はっ!得意の槍にて、いかなる敵も突き伏せてご覧に入れまする!」
そんな渡辺半蔵の挨拶を聞きながら、元信は大樹寺で会った折に彼の父・源五左衛門高綱が来年仕官させるつもりだと申していたことを想起していた。
「うむ、ここまでご苦労であった。内藤弥次右衛門が人払いをと申すゆえ、そなたは平岩七之助とともに隣の間にて控えておるがよい」
「はっ、委細承知!では、平岩七之助どの、案内をお頼みいたす」
「ご案内仕る。さっ、こちらへ」
ともに齢十六の平岩七之助親吉と渡辺半蔵守綱は連れ立って隣の間へ。そのほかの者も元信が人払いを命じたため、順次退出していく。そうして元信を含む三名のみが広間に残る状況になると、内藤弥次右衛門はついに口を開いた。
「殿、人払いをお願いいたしましたは、この子。三左衛門の素性に関わることゆえにございます」
「ほう、その三左衛門がいかがしたというのじゃ。さては、織田や水野あたりの間者ではあるまいな」
「いえ!滅相もございませぬ!」
「ならば、いかなる素性の者か。そなたが申してくれねば、わしには分からぬ」
口を開いたものの、なかなか本題に入らないことに少々苛立ちを覚えながら質問する元信。その声を聞きし後に一度の深呼吸を挟み、傍らの少年の素性を話し始めた。
「三左衛門はそれがしの外孫にて、養子といたした者にございます」
「すでに金一郎という嫡男がおりながら、養子を取ったと申すか」
「いえ、この者は金一郎が生まれる一年前に養子とした者にございます」
弓の腕前に優れた立派な嫡男が生まれる前に迎えた養子。さては家督相続の面で厄介なことになっているのではあるまいか。元信はそう勘繰り始めた。しかし、事実は元信が考える斜め上をいっていた。
「この三左衛門にございまするが、実父は先代の広忠殿にございます」
「……は?い、今一度申せ。わしの聞き間違いかもしれぬゆえ」
「然らば、再度言上仕ります。ここにおります、内藤三左衛門が父は先代広忠殿にございます」
やはり、元信の聞き間違いではなかった。目の前にいる内藤三左衛門という健康的に日焼けした十三歳の少年は内藤弥次右衛門清長の外孫であり、元信にとって異母弟にあたるというのである。
その突拍子もない事実に、さすがの元信とて動揺を隠しきれなかった。
詳しく説明を求めてみれば、内藤三左衛門が生まれたのは天文十四年五月五日。
内藤弥次右衛門の娘が松平広忠の寵愛を受けて身籠り、嶋田景信に嫁して三月後に出産。その事情を娘から聞かされた内藤弥次右衛門がこれを養子として育てたというのだ。
「よし、内藤弥次右衛門。そなたには知らず知らずのうちに父が迷惑をかけておったようじゃ。この場でわしが代わりに詫びよう」
「そんな!滅相もございませぬ!」
「何より、これまで我が弟をよく守り、育ててくれた。そのこと、深く礼を申すぞ」
元信からの謝罪に次ぐ、感謝の言葉に内藤弥次右衛門の瞳から幾つもの雫がこぼれ落ちていく。老人の涙は長いことを岡崎で嫌というほど経験した元信は、傍らで大人しく正座している内藤三左衛門に話しかけていく。
「そなた、わしの弟であったか」
「はい。ですが、おじじ様よりも言い含められておりまする。拙者が殿の異母弟であると公言いたせば、殿の下で結束している松平宗家がまたもや二分されることにもなりかねぬ。ゆえに、そのことは胸の内に秘しておくように、とのこと」
「いかにも。内藤弥次右衛門が申す通りのことになりかねぬ。内藤三左衛門には相済まぬが、我らが兄弟であることは互いの心のうちにとどめておくこととしようぞ」
「はいっ!殿!」
かくして松平広忠の諸子・内藤三左衛門と対面した元信。兄弟であることを公言しないよう申し含めるだけでは不憫と思い、あることを提案した。
「三左衛門。そなたを弟として扱えぬ代わり……といってはなんじゃが、一つ提案がある」
「その提案とは、一体何のことにございましょうや?」
「うむ、わしの諱より『信』の一字を与えようと思う。そうじゃな、ともに松平を育て上げるという意味を込め、『信成』とするはいかがであろうか」
「信成……!良き名を賜り、恐悦至極に存じます!ありがたく拝領いたしまする!」
元信の思い付きで定められた諱。何より、異母兄で主君でもある元信から偏諱を受けたことに感動してしまっていた。
元信はこれより先、多くの人物に偏諱を与えていくことになるが、元信の『信』の一字を与えたのは、後にも先にも内藤三左衛門信成だけなのである。
「この内藤三左衛門信成、必ずや殿の御為、身命を賭して戦いまする!」
「うむ、わしもそなたのような強者が新たに家臣となったこと、心底より嬉しく思うぞ」
内藤三左衛門に偏諱が与えられたころ、ようやく涙が止まった内藤弥次右衛門であったが、内藤三左衛門に元信の『信』の一字が与えられたことを聞き、またしても涙を流し始めてしまうのであった。
「この様子ではおじじ様は殿と話すことも叶いませぬ。ゆえ、今日のところはお暇いたしまする」
「左様か。されど、今から出発したのでは、懸川へ着く前に夜となろう。今日はこのまま屋敷に宿泊していくがよい。しかと旅の疲れも癒していくがよかろう」
元信は内藤弥次右衛門清長と内藤三左衛門信成、渡辺半蔵守綱の三名に屋敷で一泊していくよう命じ、平岩七之助に案内を命じた。
「さて、したためねばならぬ文書の続きを書かねばならぬな」
内藤弥次右衛門らが訪問に対応するためやってきた広間を出た元信は書院へと移動。片づけずに置かれたままの文机に料紙を広げる。
元信が記しているのは三河高隆寺へ寺領の保証をした書状であった。岡崎城より東へ一里半の距離にある三河高隆寺。内容はその寺領を保証し、竹木伐採行為の取り締まり、諸税免除の特権を認めるといったものであった。
「内容はこれで良かろう。あとは、花押を書き記すのみじゃな」
いかなる花押にするか、しばし迷った後、書状の上に筆を走らせる。記された花押は父・広忠が用いていた花押に近似した松平家伝来型の花押。
この花押は後に改められ、今川義元に倣った花押へと変化していくのだが、ここで松平家伝来型の花押を使用したのには、元信の中で松平家当主としての政治活動の開始をお披露目する意味合いも多分に含まれていた。
「よし、こんな花押で良かろう。あとは高隆寺へ判物を届けさせればしまいじゃな」
したため終えた書状に五月三日の日付も記し、ちょうど明日三河へ帰る内藤・渡辺らに託すこととした。
「善九郎!善九郎はおるか!」
「ははっ、これに!」
「この書状を岡崎へ持ち帰るよう、内藤弥次右衛門らに渡しておいてはくれまいか」
「承知仕った!ただちに届けて参りまする!」
阿部善九郎正勝に三河高隆寺宛の書状を内藤弥次右衛門らに渡すよう命じ、ようやく元信は本日中に仕上げねばならぬ仕事を終え、床にゴロリと寝転がる。
「殿、お疲れ様にございます」
「おお、瀬名。それへおったのか」
「はい。殿が難しい顔で書状を記しておられましたゆえ、入室を控えてお待ちしておりました」
「それは相済まぬ。ささ、こちらへ参るがよい」
元信の招きに応じ、駿河御前は書斎へ遠慮がちに入室。十六になった元信と十九の駿河御前。結婚してより一年を経た二人は、相変わらず仲睦まじい様子。
この分では子供ができるのも、そう遠くはないと侍女らの間でもちきりであった。その侍女らの話を聞いた酒井雅楽助政家が涙したのは、元信らは知らぬ話である。
「近頃は梅雨にございますゆえ、あまり外出もできず、窮屈であろう」
「はい。ですが、梅雨もまた風情がございますゆえ、悪い気分はしませぬ。落ち着いて本も読めますゆえ、窮屈などということはございませぬ」
「左様であったか。わしも久しく読書ができておらぬゆえ、今より共に読書をするのはどうであろうか」
「それはようございます。私は『源氏物語』や『古今和歌集』を読むつもりにございます。殿は何をお読みになられますか」
「わしか。わしは『貞観政要』を読み直そうと思うておる。じゃが、『古今和歌集』も読みたいのう」
「では、私が『源氏物語』を読む間、殿が『古今和歌集』をお読みになるというのはいかがでしょう?」
「おお、それはよい。では、そうさせてもらおうかの」
駿河御前より『古今和歌集』を受け取り、早々に読書を開始する元信。その傍らで『源氏物語』を読み始める駿河御前。
夫婦そろっての読書。外の雨音がそのほかの音をかき消し、強制的に読書に集中できる空間が形成されていく。そうした空間での読書は捗るもので、黙々と活字を追い、頁《ページ》をめくる手が止まらない元信と駿河御前。
読書好きという共通点のある夫婦は、夕方まで読書に没頭。二人がふと視線を本から話すと、侍女や近侍らが屋敷に灯りをともす頃合いになっていた。
「殿、早くも灯点し頃となっていたようです」
「早いものよ。さて、文机を片付け、本を書棚へ戻しに参るとしようぞ」
「ええ。そういたしましょう」
本を大事そうに抱える夫婦は仲良さげに話しながら文机を部屋の隅へ移動させ、自室の書棚へと本を戻しに向かったのである。
そんな駿府では穏やかなひと時が流れている間にも、外では乱世の風が吹き荒れている。世界のどこかが平和でも、必ずどこかでは争いが起こっている。これはもはや摂理といえるのかもしれない。
そうして皐月も過ぎ、水無月へと突入。弘治三年も夏の足音が近づきつつある。そんな六月二十八日。
石川安芸守忠成の父・石川左近大夫忠輔が死去。松平親忠、松平長親、松平信忠、松平清康の四代にわたって仕えた松平家の功臣。そんな人物が阿部大蔵定吉に続き、一人また一人と亡くなっていく。
「左様か。石川安芸が父もこの世を去ったか」
「はい。この与七郎も曽祖父とはあまり面識はございませぬが、松平のために奔走してきた御仁であったと父や祖父から聞かされております」
「うむ、今よりそなたの祖父たちに一筆したためるといたそう。遠く駿府におるわしにできる精いっぱいの手向けじゃ」
「ありがとう存じます。祖父たちも泣いて喜びましょうぞ」
二十五歳となった石川与七郎数正から、石川左近大夫の死を聞かされた元信は弔意を表する旨の文書をしたため、岡崎の石川安芸守忠成へ届けるよう命じた。
「与七郎。そなたも曽祖父の葬儀には間に合わぬであろうが、墓参だけでも済ませて参るか」
「お気遣いいただきありがとうございます。されど、その儀はお断りいたしまする。殿のお傍にて奉公する役を放って岡崎へ帰っては、かえってあの世の曽祖父より叱られてしまいまする」
「……左様か」
忠義者の三河武士。ありがたいような、悲しいような。そのような想いを抱く元信なのであった。
四月に成立した今川と織田の和睦。それは春の風とともに翌月初旬、駿府にいる元信の耳にも入った。
「織田と和睦している間に三河支配を盤石なものとする。太守様が判断はお見事というほかない」
屋敷から見える、緑の色合いが夏に向けて強くなりつつある風景を眺めながらぽつりとつぶやく元信。そんな彼のもとに、平岩七之助親吉が落ち着いた様子で取り次いできた。
「殿、三河より内藤弥次右衛門清長どのが参りました」
「さようか。して、用件は?」
「殿に直に申し上げたいとのこと。面会の折も人払いをしてほしいとのことにございました」
「人払いを、と……?」
わざわざ三河より駿府へやって来て、人払いをしてまで伝えたいこととは何か。その疑問が元信の思考を捉えて離さなかった。ともあれ、外で待たせては悪いゆえ、早く中へ通すよう平岩七之助に申し付け、元信も身支度を整えて広間へと向かった。
元信が入室すると、すでに白い鬢髪の老人が元服前の少年と見覚えのある若武者を伴って、待機していた。彼らは元信が広間に入るのを視界にとらえるなり、深々と一礼してみせる。
「内藤弥次右衛門、はるばる三河より何用であるか」
「はっ、殿に面会させたき者がおりまするゆえ、駿府へ伺候いたしました」
「それがそなたの左隣におる者である、と」
「はっ、左様にございまする」
元信はそこで一度内藤弥次右衛門との話を切り、彼の左後方に控えている見覚えのある少年に声をかけた。
「そなた、渡辺半蔵であろう。大樹寺で会うた時のこと、よく覚えておる」
「はっ、渡辺半蔵守綱にございまする!此度は内藤殿の護衛として岡崎より供して参った次第!」
「渡辺半蔵守綱、良き名ではないか。その名にある通り、しかと松平の家を守ってくれよ」
「はっ!得意の槍にて、いかなる敵も突き伏せてご覧に入れまする!」
そんな渡辺半蔵の挨拶を聞きながら、元信は大樹寺で会った折に彼の父・源五左衛門高綱が来年仕官させるつもりだと申していたことを想起していた。
「うむ、ここまでご苦労であった。内藤弥次右衛門が人払いをと申すゆえ、そなたは平岩七之助とともに隣の間にて控えておるがよい」
「はっ、委細承知!では、平岩七之助どの、案内をお頼みいたす」
「ご案内仕る。さっ、こちらへ」
ともに齢十六の平岩七之助親吉と渡辺半蔵守綱は連れ立って隣の間へ。そのほかの者も元信が人払いを命じたため、順次退出していく。そうして元信を含む三名のみが広間に残る状況になると、内藤弥次右衛門はついに口を開いた。
「殿、人払いをお願いいたしましたは、この子。三左衛門の素性に関わることゆえにございます」
「ほう、その三左衛門がいかがしたというのじゃ。さては、織田や水野あたりの間者ではあるまいな」
「いえ!滅相もございませぬ!」
「ならば、いかなる素性の者か。そなたが申してくれねば、わしには分からぬ」
口を開いたものの、なかなか本題に入らないことに少々苛立ちを覚えながら質問する元信。その声を聞きし後に一度の深呼吸を挟み、傍らの少年の素性を話し始めた。
「三左衛門はそれがしの外孫にて、養子といたした者にございます」
「すでに金一郎という嫡男がおりながら、養子を取ったと申すか」
「いえ、この者は金一郎が生まれる一年前に養子とした者にございます」
弓の腕前に優れた立派な嫡男が生まれる前に迎えた養子。さては家督相続の面で厄介なことになっているのではあるまいか。元信はそう勘繰り始めた。しかし、事実は元信が考える斜め上をいっていた。
「この三左衛門にございまするが、実父は先代の広忠殿にございます」
「……は?い、今一度申せ。わしの聞き間違いかもしれぬゆえ」
「然らば、再度言上仕ります。ここにおります、内藤三左衛門が父は先代広忠殿にございます」
やはり、元信の聞き間違いではなかった。目の前にいる内藤三左衛門という健康的に日焼けした十三歳の少年は内藤弥次右衛門清長の外孫であり、元信にとって異母弟にあたるというのである。
その突拍子もない事実に、さすがの元信とて動揺を隠しきれなかった。
詳しく説明を求めてみれば、内藤三左衛門が生まれたのは天文十四年五月五日。
内藤弥次右衛門の娘が松平広忠の寵愛を受けて身籠り、嶋田景信に嫁して三月後に出産。その事情を娘から聞かされた内藤弥次右衛門がこれを養子として育てたというのだ。
「よし、内藤弥次右衛門。そなたには知らず知らずのうちに父が迷惑をかけておったようじゃ。この場でわしが代わりに詫びよう」
「そんな!滅相もございませぬ!」
「何より、これまで我が弟をよく守り、育ててくれた。そのこと、深く礼を申すぞ」
元信からの謝罪に次ぐ、感謝の言葉に内藤弥次右衛門の瞳から幾つもの雫がこぼれ落ちていく。老人の涙は長いことを岡崎で嫌というほど経験した元信は、傍らで大人しく正座している内藤三左衛門に話しかけていく。
「そなた、わしの弟であったか」
「はい。ですが、おじじ様よりも言い含められておりまする。拙者が殿の異母弟であると公言いたせば、殿の下で結束している松平宗家がまたもや二分されることにもなりかねぬ。ゆえに、そのことは胸の内に秘しておくように、とのこと」
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「その提案とは、一体何のことにございましょうや?」
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元信はこれより先、多くの人物に偏諱を与えていくことになるが、元信の『信』の一字を与えたのは、後にも先にも内藤三左衛門信成だけなのである。
「この内藤三左衛門信成、必ずや殿の御為、身命を賭して戦いまする!」
「うむ、わしもそなたのような強者が新たに家臣となったこと、心底より嬉しく思うぞ」
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「この様子ではおじじ様は殿と話すことも叶いませぬ。ゆえ、今日のところはお暇いたしまする」
「左様か。されど、今から出発したのでは、懸川へ着く前に夜となろう。今日はこのまま屋敷に宿泊していくがよい。しかと旅の疲れも癒していくがよかろう」
元信は内藤弥次右衛門清長と内藤三左衛門信成、渡辺半蔵守綱の三名に屋敷で一泊していくよう命じ、平岩七之助に案内を命じた。
「さて、したためねばならぬ文書の続きを書かねばならぬな」
内藤弥次右衛門らが訪問に対応するためやってきた広間を出た元信は書院へと移動。片づけずに置かれたままの文机に料紙を広げる。
元信が記しているのは三河高隆寺へ寺領の保証をした書状であった。岡崎城より東へ一里半の距離にある三河高隆寺。内容はその寺領を保証し、竹木伐採行為の取り締まり、諸税免除の特権を認めるといったものであった。
「内容はこれで良かろう。あとは、花押を書き記すのみじゃな」
いかなる花押にするか、しばし迷った後、書状の上に筆を走らせる。記された花押は父・広忠が用いていた花押に近似した松平家伝来型の花押。
この花押は後に改められ、今川義元に倣った花押へと変化していくのだが、ここで松平家伝来型の花押を使用したのには、元信の中で松平家当主としての政治活動の開始をお披露目する意味合いも多分に含まれていた。
「よし、こんな花押で良かろう。あとは高隆寺へ判物を届けさせればしまいじゃな」
したため終えた書状に五月三日の日付も記し、ちょうど明日三河へ帰る内藤・渡辺らに託すこととした。
「善九郎!善九郎はおるか!」
「ははっ、これに!」
「この書状を岡崎へ持ち帰るよう、内藤弥次右衛門らに渡しておいてはくれまいか」
「承知仕った!ただちに届けて参りまする!」
阿部善九郎正勝に三河高隆寺宛の書状を内藤弥次右衛門らに渡すよう命じ、ようやく元信は本日中に仕上げねばならぬ仕事を終え、床にゴロリと寝転がる。
「殿、お疲れ様にございます」
「おお、瀬名。それへおったのか」
「はい。殿が難しい顔で書状を記しておられましたゆえ、入室を控えてお待ちしておりました」
「それは相済まぬ。ささ、こちらへ参るがよい」
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「近頃は梅雨にございますゆえ、あまり外出もできず、窮屈であろう」
「はい。ですが、梅雨もまた風情がございますゆえ、悪い気分はしませぬ。落ち着いて本も読めますゆえ、窮屈などということはございませぬ」
「左様であったか。わしも久しく読書ができておらぬゆえ、今より共に読書をするのはどうであろうか」
「それはようございます。私は『源氏物語』や『古今和歌集』を読むつもりにございます。殿は何をお読みになられますか」
「わしか。わしは『貞観政要』を読み直そうと思うておる。じゃが、『古今和歌集』も読みたいのう」
「では、私が『源氏物語』を読む間、殿が『古今和歌集』をお読みになるというのはいかがでしょう?」
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駿河御前より『古今和歌集』を受け取り、早々に読書を開始する元信。その傍らで『源氏物語』を読み始める駿河御前。
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「ええ。そういたしましょう」
本を大事そうに抱える夫婦は仲良さげに話しながら文机を部屋の隅へ移動させ、自室の書棚へと本を戻しに向かったのである。
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「ありがとう存じます。祖父たちも泣いて喜びましょうぞ」
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影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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