不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第101話 海道一の弓取りと呼ばれた漢

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 信長による今川義元本陣への奇襲攻撃が行われた頃。他の今川軍の部隊でも動きがあった。

 岩室長門守重休の矢を受けて落馬した岡部甲斐守長定が亡くなり、朝比奈丹波守が鉄炮疵を受けて後方へ下がった前衛部隊は未だに暴れまわる不死身の岩室長門守を仕留められずにいた。

「くそっ、久野殿!一体いつまで敵をのさばらせるご所存か!」

「藤枝殿、お気を鎮めなされ。ここは戦場にございまするぞ。短気は損気と申すが、その短気が命取りとなる場であることをお忘れなきよう」

「お主のような若造に説教されんでも分かっておるわ!」

 思うように織田兵の殲滅がならず、戦場において口論を始める久野元宗と藤枝伊賀守氏秋。そんな両名の背後を十名ばかりのならず者が急襲する。

「何事か!」

「久野様!牢人と見受けられる薄汚い身なりの者らが襲撃して参り、応戦しておりまする!」

「なっ、なんじゃと!」

 久野元宗が目を細めて兵の指さす方を見れば、確かに織田兵とも思われぬ蛮族が味方を斬り殺して、大笑いしている。だが、解せぬのは賊のようにみぐるみをはいでいくわけではないこと。

 だとすれば、まことに兵士が訴えるように牢人なのであろうか。

「よし、たかが十名ばかりの小勢じゃ。討ち取ってしまえ!」

「ははっ!」

 そう指示を飛ばした久野元宗は藤枝伊賀守に向き直り、背後のことは気にせず、目の前の織田兵を倒すことに専念するよう説得。両名は喧嘩を水に流したわけではないものの、これまで通りの共同戦線を張ったのである。

 そこへ、織田の旗指物をつけた若者たちが数十名ほど岩室長門守と合流したのであった。

「岩室長門守殿!苦戦しているとお見受けいたす!」

「なっ、湯浅甚介ではないか!殿より出陣はならぬと言われておったお主ら小姓どもが何しに来たぞ!これは立派な軍令違反じゃ!」

「何しに来たとは心外な。軍令違反も承知の上で、武功を挙げに参ったのだ!」

 得意げに鼻を鳴らし、自慢げな少年――湯浅甚介直宗をはじめとする信長の小姓たち。ここまで来てしまっては、今すぐ帰らせようが合戦に加わろうが立派な軍令違反に他ならない。となれば、加勢してもらう方がよいと岩室長門守は思案した。

「よし、こうなれば是非もなし。共に今川の奴らを蹴散らすぞ!」

「おう!その言葉、待っておった!」

 こうして信長から出陣を禁じられていた小姓らを加えた織田軍は正面の朝比奈勢へと向かっていく。

 その側面を衝くべく、隊を前進させようとした久野元宗と藤枝伊賀守の背後から、断末魔が幾重にも重なって聞こえてきたのである。

「何っ!」

 真っ先に振り返った藤枝伊賀守は驚愕した。自分たちの手勢がたった十名の牢人衆に血祭りに上げられ、弄ばれるように死を与えられていたのである。

「おっ、てめぇが一手の大将か!」

 藤枝伊賀守の前に一足飛びにやって来たのは、細身で端正な顔立ちをした二十歳そこらの若武者。

 自分の家人を雑草でも刈り払うように突き伏せる輩はどんないかめしい豪傑かと思えば、とんだ若造であった。その事実に、藤枝伊賀守は不意に笑みがこぼれる。

「いかにも!某は藤枝伊賀守氏秋じゃ!家人どもの仇め、くたばれっ!」

 一突きで仕留めんと繰り出した藤枝伊賀守の槍先を犬のように身軽な身のこなしで左へと逃れた若武者。

「へっ、やっと兜首一つ目じゃ!」

 次の瞬間には若武者が目にも止まらぬ速さで繰り出した槍先が、藤枝伊賀守の右脇腹から左肩までを貫いていた。

「なっ、何っ!何という槍捌きじゃ……」

 若武者が槍を引き抜くなり馬から転がり落ちた藤枝伊賀守はすでに事切れていた。若武者は喜び勇んでその首を獲ると、槍を肩に担いで今川兵らと命のやり取りを開始していく。

 藤枝伊賀守氏秋が牢人の一人に討たれたことを聞いた久野元宗は朝比奈勢にぶつかる岩室長門守らへの側面攻撃どころではなく、方向転換して牢人共の殲滅を優先せざるを得なかった。

 しかし、これまた牢人衆は手ごわく、主を失った藤枝勢が四散したこともあり、久野勢だけで討ち取れる手合いの輩でなく、久野元宗の前にも別な牢人が立ちはだかった。

「お主、まだ若いな。だが、わしには分かる。そなた、なかなかの槍の使い手と見える」

「ふん、御託はいい。それよりも槍合わせ願おう!」

「受けて立つ!久野元宗がお相手いたそう!行くぞ!」

「おう!」

 狼と虎が咆哮し、噛みつき合う――

 そんな風な雄たけびと共に両名は槍を繰り出し、熾烈な一騎打ちを繰り広げる。だが、軍配は牢人風の青年に上がった。

「み、見事だ……」

 腹部を青年の槍に貫かれた久野元宗は槍を引き抜かれるなり、大雨を降らせる元凶を睨みながら一生を終えた。

「お見事にござった。ささっ、次なる合戦場へ向かいまするぞ」

「おう、そういたそう。次は岩室長門守殿へ加勢せねばじゃな」

 藤枝伊賀守氏秋や久野元宗を討った若武者たちよりも少々年長者と見受けられる男性を先頭に、十名ばかりの牢人風の集団は次なる敵、朝比奈勢へと狙いを定めて突撃していくのであった。

 そんな朝比奈勢は向かってくる岩室長門守や湯浅甚介ら織田勢を容易くあしらうどころか、むしろ手こずっている風であった。

「ちっ、織田の奴らめ……!」

 数で勝る今川軍に対し、粘り強く奮戦する織田軍。その様子に、先陣の侍大将を務める朝比奈主計助秀詮は爪を噛みながら舌打ちする。

 そもそも、織田の小勢相手にここまで勝敗がつかず、混戦状態となっているのだ。この戦況を総大将である義元が聞けば、叱責されてしまう。

 ――そうなる前にかたを付けなければならない。

 そんな使命感とともに戦場に立っている朝比奈主計助はついに自ら太刀を抜き、前線へと躍り出る。

「ええい!忌々しい織田の奴らめ!」

 そう言って、槍を繰り出してくる織田兵の首元に太刀をねじ込み、力を籠めて斬り伏せる朝比奈主計助。侍大将となっただけあって、なかなか育ちの良い太刀筋である。

「おうっ、そなたが一手の大将か!」

「いかにも!某、この先陣の侍大将を務めておる朝比奈主計助秀詮と申す!そう言うお主は何者か!」

「これは失礼いたした!織田家の赤母衣衆が一人、岩室長門守重休と申す者!いざ、尋常に勝負!」

 互いに名乗り終えると、互いが引っ提げている太刀を用いての一騎打ちが開始される。両者ともに腕に覚えのある武者ということもあり、そう易々と決着がつくものではなかった。

 太刀打ちする限りにおいては、朝比奈主計助優位であったが、力比べにおいては岩室長門守に軍配が上がる。すなわち、組み伏せられた状況においては、逆転して岩室長門守が力業で勝利を勝ち取ることとなった。

「敵将、朝比奈主計助秀詮!この岩室長門守が討ち取ったり!」

 前衛の正面を担っていた朝比奈主計助が討たれたことにより、彼の手勢は仇討ちとばかりに織田兵に挑んでいく者、大将の死に動揺し慌てふためく者、隊を抜けだす者と散々であった。

「岩室長門守殿!さては敵将の首級を挙げられたか!」

「いかにも!朝比奈主計助なる豪の者を討ち取った!これならば、殿もお褒めくださることであろう!」

「ちっ、先を越されたか」

 そのように吐き捨てると、手柄を求めて戦場を再び疾駆する湯浅甚介は、少々深入りした地点で偉そうに采配を執る人物と巡り合った。

「わしは織田家小姓衆の湯浅甚介直宗!そなたは何者じゃ!」

「某は朝比奈丹波守親徳が家臣!江尻民部少輔親良と申す者!」

「なんじゃ、陪臣ではないか」

「その言葉、聞き捨てならず!」

 激高して手にした槍を問答無用とばかりに繰り出す江尻民部少輔であったが、頭に血が昇ったままの状態で勝負を仕掛けることは、命を捨てるに等しい行為であった。

「よし、江尻民部少輔とやら、この湯浅甚介が討ち取った!この調子で首級を取り、殿にお褒めの言葉をいただくんじゃ!」

 まだ十六歳の少年・湯浅甚介直宗であったが、あっさりと激高した江尻民部少輔を討ち取り、そのままの勢いで敵陣深くへ斬り込んでいく。

 その頃には、藤枝伊賀守氏秋や久野元宗を討った十名ばかりの集団も合流し、前衛部隊は崩れに崩れ、まともに一戦交えられるような状態ではなかった。

 だが、前衛部隊が崩れ立った頃には、本陣などそれどころではなく、総大将である今川義元も数多の腹心を失い、胸白の鎧に赤地錦の陣羽織という出で立ちで自ら太刀を振るい、織田兵と対峙していた。

「太守様!」

「松井左衛門佐、よくぞ加勢に参った。じゃが、これより井伊信濃守の陣まで逃げおおせるであろうか」

「そ、それは……」

 すでに息の上がっている目の前の主君が、その首を狙う織田兵の執拗な追撃を振り切って逃げきれる可能性は十中八九なかった。

 すでに救援に駆け付けた松井左衛門佐宗信が二百兵のうち、半数近くがすでに屍と化し、周囲の大地に転がっているのである。到底、今の兵数では主君・義元を守り切ることはできない。それが分かっているだけに、口にするのが憚られた。

「あれが今川義元じゃ!逃がすな!」

「太守様、ここは松井左衛門佐が引き受けまする!ここは一刻も早く井伊信濃守の陣へ――」

 義理堅い豪傑・松井左衛門佐は打ち込まれた加藤弥三郎と山口飛騨守が太刀を豪快に受け止め、二人を弾き飛ばしながらあくまでも主君を逃がそうとする。

 されど、いかに松井左衛門佐とて、一人の人間。あちこちから義元を狙う敵の全てから守り通すことなど、到底不可能であった。

「服部子平太!今川義元殿に見参!」

 言い終えるなり、さっと槍を繰り出す服部小平太であったが、次の瞬間には穂先は豪雨の中、どこか遠くへ斬り飛ばされてしまっていた。

 そう、義元とて武芸に心得がないわけではないのだ。一人の戦国を生きた武士がいとも簡単に討ち取られようはずもない。

「くっ、お覚悟!」

 ――今度こそ!

 そんな気迫と共に腰の太刀で斬りかかった服部小平太であったが、その太刀筋を見切られ――

「ふんっ!」

「しまった!?」

 焦る服部小平太の隙だらけの膝は、義元渾身の横薙ぎの一閃によって切り割られていた。真っ先に槍を付けてきた織田家臣には、膝に重傷を負わせた今川義元。

 だが、そこで動けなくなった服部小平太にトドメを刺すようなことはせず、あくまでも逃れようとするのだが、次なる討ち手がそうはさせなかった。

「今川義元殿、今度は毛利新介がお相手いたす!お覚悟めされい!」

「さあ、来い!」

 この毛利新介を倒さねば逃げることも叶わぬらしい。そう悟った義元は反転して毛利新介と切り結ぶ。

 信長の黒母衣衆にも選ばれた精鋭である毛利新介をもってしても、義元をすぐに仕留められるわけではなく、数合やり合ってなお、義元も余裕綽々であった。

「えいっ!」

「どうした、その程度か!」

 毛利新介の太刀を押し返し、返す刀で彼の小指近くを斬りつける義元。その繊細な剣術に舌を巻きながらも、毛利新介は懸命に打ち込んでいく。

「うっ!」

 最後に勝敗を決したのは剣術の力量ではなく、体力。まだ若く体力の有り余っている毛利新介に対し、ここまで慣れない騎馬や徒歩で逃れてきた四十を超えた義元とでは、すでに残存している体力に差があったのだ。

 加えて、義元は駿府を出てより背負う総大将という重責、絶えず敵の情報を入手しながら戦略を見直すなどの、陣中において多忙であった。そうした状況が重なって蓄積した疲労が睡眠で解消されていなかったことも災いした。

 毛利新介の太刀を受けた時に、視界が地震でも起こっているかのようにぐらつき、膝をついてしまったのである。

「隙あり!」

「ぬぅっ!」

 若者が圧倒的な優位性を有する体力と筋力に、老境に差し掛かった義元では抗い切れず、組み伏せられてしまう。

「太守様っ!太守様っ!」

 山口飛騨守と加藤弥三郎を同時に相手取りながら後方の義元が討たれんとするさまを見て泣き叫ぶ松井左衛門佐。しかし、そんな彼が助けに入ることを、相対する者たちが許すはずもなく。

「今川義元殿!悪あがきをなされるか!」

 ――悪あがき?

 そう思い、義元は意識を目の前の状況に引き戻すと、首を掻こうとする毛利新介の拳と小刀の刃の部分を力いっぱい左右の手で握りしめ、首にあてさすまいと抵抗していたのである。

「そうか、予は死にたくないのだ――」

 まだ死ねない。そんなことは頭以上に、己の体が理解していた。されど、限界を超えて首筋に何か鋭いものが当たる感覚がした。

 ――五郎。蔵人佐。後は頼む。

 二人の姿が脳裏に浮かんだ直後、これまで感じたことのない激痛に身を裂かれ、海道一の弓取り、今川義元は絶命した。享年四十二。戒名は天沢寺殿四品前礼部侍郎秀峰哲公大居士。
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