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豪宴客船編

夕食会その1

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「ほえ~……」
 夕食時、レストランスペースに赴いた結城ゆうきは、先のロイヤルプロムナードの時と同様に唖然とした。
 客船のレストランというよりは、古い映画で出てくるお屋敷のパーティー会場ではないかと思えてしまったからだ。
 乗客たちが社交ダンスでも踊れそうな広さの床には、赤いカーペットが敷かれ、純白のクロスをかけられたテーブルの数々には、食材にも意匠にもこだわった様々な料理が整然と並べられている。
 それを会場中央に据えられた巨大なシャンデリアがきらびやかに照らし出しているのだから、殊更ことさら眩しく映ってしまっている。
 さらには三層吹き抜け構造になっており、二階三階にも美食美酒が用意されているとなれば、結城はそろそろ目の前のことが映画の中の出来事なのではと疑いたくなっていた。
「ゆうき、なんで『あ~ん』してるの?」
「ユウキ、毅然となさい」
 茫然自失になりかかっていた結城の顎を、アテナがそっと手を当てて戻した。
「あうっ」
「今のあなたは私たちを従えている貴族なのですよ? それらしい態度を見せなければ怪しまれます」
「は、はい」
「では食事へと向かいましょう。まずは飲み物を」
「わ、分かりました」
 アテナの耳打ちで促され、結城は飲み物のトレーを持ったウェイトレスの元へ歩を進めた。
 途中で近付いてくる結城に気付いたのか、ウェイトレスの方も結城に歩み寄った。
「お飲み物は何になさいますか?」
「ん……あ~、そうだな……」
 結城がトレーに並ぶグラスに目移りしていると、
(左からシャンパン、ワイン、カクテルです)
 アテナがこっそりと耳打ちした。
「ではシャンパンを。それからこちらにはワイン、この二人にはジュースを」
「かしこまりました」
「マ……ゴホン、き、君たちも何か飲むかい?」
「Piña Colada,Please」
「ラム、ストレート」
「かしこまりました。ではお先にシャンパンとワインを。残りは少々お待ち下さい」
 結城とアテナにグラスを渡すと、ウェイトレスは注文の品を取りに一旦下がった。
「ふぅ~、飲み物一つもらうのだけでもすごい緊張する」
 シャンパングラスを受け取った結城は、誰にも気付かれない程度に肩を撫で下ろした。
「まだ乗船したばかりです。これで参っていては先がちませんよ、ユウキ。それに本来なら宴の最中に従者へ飲食を振舞うのもいただけません」
 結城に注意を促しつつ、アテナは赤ワインを一口含んだ。
「うっ、すみません、つい……それにしてもアテナ様は分かるけど、媛寿えんじゅも特に物怖じしてないよね。何で?」
「えんじゅ、『ろくめいかん』の『やかい』にいったことある」
「え? 『ろくめいかん』? 『やかい』って?」
 あまり聞き慣れていない『鹿鳴館』、『夜会』という言葉に結城が首を傾げていると、ウェイトレスが戻ってきて、それぞれの飲み物を手渡して回った。
「ゆうき、ゆうき。えんじゅ、『でざーとこーなー』いきたい。いい?」
「あ、うん。いいよ。人とぶつからないようにね」
「やったー! くろらん、いこ!」
「っ!」
 クロランの手を引いた媛寿は、小走りで会場を突っ切っていった。すっかりクロランの姉貴分となっている媛寿に、結城は少しほっこりした気持ちになっていた。
「あまりはしゃぎすぎなければ良いのですが」
「……そういうアテナ様だって早速チーズケーキを取ってきてるじゃないですか」
 アテナはアテナで少し見なかった間に、どこからかチーズケーキの皿を取ってきていた。
「さすがです。素材も作りも一流の職人のものですね。ただ惜しむらくは……」
 租借したチーズケーキを飲み込んだアテナは、なぜか好物を食べたはずが浮かない顔をしている。
「少し血の味がするところでしょうか」
「え? 血の味、ですか?」
 結城はアテナの持つ皿に鼻を近づけて匂いを確かめようとした。
「そのような意味ではありません。ユウキ、周りをご覧なさい」
 アテナに言われて結城は改めて会場を見回した。広さと造りに圧倒されて見逃していたが、パーティーに参加している乗客を注意深く見ると気付くことがあった。
(あっ、あの人、前に国会中継で見た。あっ、あっちはニュース番組でよくゲストに来てる。えっ、あの人たしか自動車会社の社長さんじゃ)
 美酒美食に舌鼓を打ち、談笑している乗客たちは、大概がテレビで見かける著名人ばかりだった。
「ここには不浄の想念と、裏に潜む流血の匂いが溢れています。それがせっかくのチーズケーキの味を落としてしまっているのです」
 アテナは近くのテーブルにチーズケーキの皿を置くと、代わりに置いていたワイングラスを取り、一口煽った。
「ワインも然り。良い醸造ですが、このような場で飲んでは本来の味に余分な苦味が出てしまいます」
 アテナは飲み干したワイングラスを少し残念そうに見つめていた。
「それと比べれば、古屋敷ふるやしきみなとともに飲んだワインの方が、たとえ安物であっても美味に思えます」
 グラスを軽く掲げながら語るアテナは、結城に対してほのかな微笑を送った。
 ドレス姿でいつもの凛々しさと違うせいか、結城はその笑みに心臓が大きく高鳴った。
 以前アテナが、全盛期のパルテノン神殿では、アテナに憧れる男たちが参拝に後を立たなかったと言っていたが、結城もその男たちの気持ちが分かる気がした。
「失礼、楽しんでおられますかな?」
 アテナに見惚れていた結城は、不意に声をかけられ、内心驚きながらもゆっくりと声のした方を向いた。
 仕立てのいいスーツに口髭を蓄えた小太りの男が、グラスを片手に立っていた。
「これまでの航海でお見かけしたことがありませんが、初めての乗船ですかな?」
「え~、あ~」
(ユウキ、落ち着きなさい)
「え、ええ。知人からこの船のことを教えていただきまして」
「そうでしたか。まぁ、場所が場所ですからな。お互いあまり素性の詮索は無しということで」
 小太りの男は愉快そうに言うが、結城には男の顔に見覚えがあった。テレビのワイドショーなどでよく招かれている評論家か何かだったはずだ。
 名前まではあまり憶えていないが、他人を小馬鹿にしたような物言いが気に入らなかったのは印象に残っている。
「ところで、そちらの女性は?」
 男は結城の隣でチーズケーキをつまみにワインを飲んでいるアテナを指した。
「あ、ああ、彼女は―――」
「ミネルヴァ・カピトリーノと申します。こちらの林結之丞はやしゆいのじょう様に秘書として仕えております」
 テーブルにワイングラスを置いたアテナは、そう名乗りつつ恭しく礼をした。
 表には出さなかったが、結城はアテナが偽の設定をさらっと口にしたことも、他人に頭を下げたことにも驚いていた。もはや声すら出ないほどに。
(ミネルヴァ? え? 結之丞? え? え~!?)
「そして後ろに控えているのが執事のイェーガンと、メイドのジルバです。お見知りおきを」
「ほほぅ、これはご丁寧に。ところで、あ~……林さん?」
「はっ……はい?」
「つかぬことをお伺いするが、彼女はいくらほどで借りられますかな?」
「はい!?」
 結城は一瞬、男の言っていることが理解できずに素っ頓狂な声を上げたが、すぐに意図を察することになった。男はアテナの体を品定めするように眺めながら、明らかに好色な表情を見せていたからだ。
「どうですかな、一晩で五十万出しましょう」
 男は乗船時に配られた黒いカードをひらひらと振っている。クレジットカードの機能も兼ねているという話だったが、いまの結城はそのことを思い出している余裕はなかった。
「え、いや、その……」
「おや、少ないですか? まぁ確かにこれだけの美女だ。従者とはいえ他の男に好き放題されるのは心穏やかではありませんか」
 男がそう言ったので、結城はてっきり諦めてくれたかと思い、ほっと息をきそうになったが、
「それならなおのこと愉しみになってきましたな~。他人が持っている美しいものを、とことん汚して辱める。私にとってはそれが一番の娯楽でしてねぇ」
 そうはならなかった。男の顔にはますますどす黒い欲望が滲み出ていた。
「倍額で百万! どうですか?」
「え、あ……」
「ではさらに倍額で二百万! これなら?」
「あ、その……」
「まだですか……では二百五十万!」
「……」
 男の異様な迫力に圧倒され、結城はいよいよ圧し負けそうになっていた。
「何やってんだよ、兄貴。まだ『オークション』には早すぎるぜ」
 結城と男の遣り取りに気付いたのか、もう一人、スーツ姿の客がやって来た。
 よく見ると口髭こそ無いが、男によく似ている。
「おぉ、お前か。なに、本番前の余興だよ。こちらの方の従者を一晩買おうと思ってな」
 男がそう説明すると、おそらく男の弟であろう人物は、同じようにアテナの体を舐めるようにじっくりと見た。
 そして同じく好色な目で口角を上げると、
「兄貴、今いくらまで出した?」
 と、男に聞いた。
「二百五十万だ」
「じゃあ俺も二百五十万出すから、半分の時間はこの女、俺の好きにさせてくれよ。後半でいいからよ」
「ん~……いいだろう。お前が先だと大概使い物にならなくされているからな」
「てなわけでよ、あんちゃん。五百万でこの女、好きにさせてもらうぜ」
「あ、あの、ま、待って―――」
「ああっ!?」
 結城が言いよどんでいると、弟は顔を歪めて結城に詰め寄った。
「五百万だぞ! 合わせて五百万! 高級娼婦だって一晩五百万なんか取らねぇぞ! どうせてめぇだって、この女どっかから買ったクチなんだろ? だったら五百万で貸すくらいわけねぇだろ!」
 手を上げることこそしなかったが、弟はドスのきいた声で結城を攻め立て、結城も雰囲気に呑まれてしまい、反論する余裕も持てなかった。
「てなわけで、この女は一晩俺たちが好きにするぜ。じゃ、早速」
 弟は下卑た笑みを浮かべると、アテナの手を取って強引に連れて行こうとした。が、
「ん? あれ?」
 手を取るまではできたが、アテナの腕をいくら引いても、アテナはわずかばかりも動かなかった。
「おいおい。何をやっている?」
「いや……何でだ? 動かねぇ。兄貴も手伝え」
「? 仕方がないな―――」
 男が手を貸そうとしたその時、アテナの左人差し指が空を切り、弟の額で止まった。
「は? え? あれ……おぉあああ!? はいってる! ハイッテル! 指入ってる~!?」
 気付いた時には、アテナの指は第一関節と第二関節の中間辺りまで、弟の額にめり込んでいた。結城は何が起きたのか分からず、その光景をぽかんと眺めていた。
「この指を抜いたら三分以内に医務室に駆け込みなさい。さもなくば……」
「さ、サ、さモなクば?」
「お楽しみです」
「あっ! ちょっ! ちょチョちょ―――」
 弟は制止を呼びかけようとしたが、無情にもアテナの細い指は弟の額からあっさりと抜かれてしまった。
「では、1、2、3」
「ひっ! ひぇあああ~!」
 弟は半狂乱になりながら、他の乗客たちにぶつかるのも構わず、レストランスペースを慌てて出て行った。
 残された男は一部始終を見て冷や汗を流していたが、黙ってその場を立ち去ろうと、アテナに伸ばそうとしていた手をそっと引っ込めようとしていた。
 しかし、アテナは男の方も見逃すつもりはなかった。今度は右掌が恐るべき速度で伸び、男の頭部を鷲掴みにした。
「ま、待って! 待って待って! ただの冗談! 冗談ですから! だからその、許し―――あだだだだ!」
 許しを乞おうとした男の頭蓋が、万力で締め上げられるように圧迫され始めた。離れていてもミシミシという何かが軋むような音が、苦悶の声に混じって聞こえてくる。
「あげぎゃぎゃぎゃ! 割れる割れる割れる割れる割れ―――」
 声が途切れると同時に、重い陶器が強く擦れたような音が鳴った。そしてアテナは男からゆっくりと手を離した。
「? ? ?」
 男はどうなったのか状況が飲み込めず、目だけを四方八方に動かした。
サリガリかたつむりよりも遅い足取りで医務室に向かいなさい。そうすれば……」
「そ、そうすれば?」
「『零れず』に済みます」
「あ、あ、あああああ~!」
 恐慌の声を上げながらも、男は間抜けなくらい遅い動作でレストランスペースを去ろうとする。
「はっ!」
 二人の姿が視界から消えたところで、ようやく結城は我に返った。
「ちょっ! ちょっとアテ―――んんっ! ミネルヴァ! あ、あれ、大丈夫なんですか!?」
「案ずることはありません。忠告したことを守れば命に危険はありません」
 パニック寸前の結城とは対照的に、アテナは涼しい顔でワイングラスを傾けている。
「で、でも! ゆ、指が頭に!」
「秘孔を突いただけです。特に怪我はしていません」
「ひ、秘孔? 本当に? ま、まさか頭が爆発したりなんてことは……」
「そんなむごたらしいことにはなりませんよ。ただ―――」
 アテナが続けようとした時、レストランスペースの外から悲鳴が上がった。その後、喧騒の中からは「誰か海に飛び込んだぞ!」、「すごい速さのクロールで泳いでいくぞ」などの声が混じって聞こえてくる。
「どうやら間に合わなかったようですね」
 悲鳴が上がった方向に目をやりながら、アテナはフォークの先でチーズケーキを一欠けすくって口に運んだ。
「な、何が……」
「三分を過ぎれば海に飛び込んで陸まで泳いでいく秘孔を突いていました」
「へ?」
 アテナが言った意味を理解するのに五秒ほどかかった結城だったが、すぐさままたパニック状態でアテナに詰め寄った。
「だ、大丈夫なんですか!? それって大丈夫なんですか!?」
「案ずることはありません。どんなに疲弊しても筋肉が動いて必ず陸に辿り着きます」
 結城はそれを大丈夫と言っていいのか、あるいはいっそ一思いに楽にしてあげた方が良かったのではないかと考える前に、頭の中が真っ白になってしまった。
 が、すぐにもう一人の男のことを思い出したので、放心状態になるのは免れた。
「も、もう一人の方は!? もう一人の方には一体何を!?」
「単純に頭蓋骨の縫合を全て外しただけです」
「……」
 結城はそろそろ言葉が出なくなりつつたった。
「案ずることはありません、ユウキ。誰かと勢い良く衝突するようなことさえなければ―――」
 アテナが続けようとした時、またもレストランスペースの外から悲鳴が上がった。今度は「ぶつかられた奴が倒れたぞ!」、「口から泡吹いてるぞ!」などと聞こえてきている。
「天運には恵まれていなかったようですね」
 悲鳴に耳を傾けながら、アテナは氷のように冷たい眼でグラスのワインを見つめていた。
 場の空気のせいで冷静さを欠いてしまった結城だったが、いつもならばすぐに思い出せていたはずだった。アテナは下衆な男がこの世で一番嫌いだったということを。
 とはいえ、今となっては後の祭りだった。アテナが二人の乗客に恐るべきお仕置きをしたせいで、レストランスペースは騒然となっていた。アテナは特に気にすることなく、チーズケーキをツマミにワインを煽っているのだが。
(ど、どうしよう……)
 結城が微妙に居心地の悪い空気にさらされていると、
「失礼いたします、お客様」
 落ち着いた口調で声をかけてくる者がいた。
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