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竜の恩讐編

プロローグ

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 しとしとと降り出した雨の中、結城ゆうきは胸の苦しみからひざをついた。
「ぐ……ぶはっ!」
 食道をのぼってきた血が、口から地面にき散らされる。
「げほっ! がほっ!」
 血の匂いが喉と鼻腔を満たし、激しくむせび返す結城。涙でにじんだ視界の先には、短剣のようなものを握り締めた手がかろうじて映った。
 それは今しがた、結城の胸を貫いた凶器だった。
「……が味わった痛みだ。思い知れ」
 雨足が強くなり、大粒の雨が降り注ぐ音とともに告げられた言葉を、結城は確かに聞いた。
 その言葉は結城に、胸を刃で貫かれたこと以上の衝撃を与えるものだった。

 私立皆本みなもと学園。創立から七十年以上の歴史を持つ高等学校であり、これまで数え切れないほどの名士を輩出している名門校でもある。
 生徒たちは学力はもちろんのこと、様々な分野に才能をいかんなく発揮し、個性を伸ばし、また精神面においても洗練された、国の一線級を担うであろう子息、息女たち。
 この学園を卒業する者は、まず間違いなく世に名を轟かせ、海外にも通ずる大人物へと上るであろうと評されるほどの、歴史と実績を兼ね備えた一流校だった。
 入校にあたっての条件は、出自を問わず、力を見せること。
 実力、能力が認められたならば、事情をかんがみて学費の免除、あるいは生活の援助さえも保障するという、他に類を見ない体勢も名が知られる一因となっていた。
 その学び舎の廊下をいま、学級日誌を持った女生徒が一人行く。
「皆本会長ー」
「あら、副会長。どうかなさいました?」
 つややかな黒髪を優雅になびかせ、その女生徒は振り向いた。
「ボクシング部と弓道部の部長が、次の大会に向けての強化合宿を検討しているのですが、今年度の予算をオーバーしてしまうのでどうにかできないか、と」
「どちらの部にも今年から期待の新人が入ってきていましたね。う~ん……少し理事長にかけあってみます。大会での優秀な成績が見込めるなら、特別予算を捻出ねんしゅつしてくれるかもしれません」
「ありがとうございます。では両部長にこのことを伝えに――――」
「いえ、決定が下るまでは待った方がいいでしょう。それに、サプライズの方が喜ばれそうです」
「そ、そうですね。うけたまわりました。さすが皆本会長です」
「そんなことありませんよ」
 皆本は少し照れくさそうにしながらはにかんだ。
「いえいえ。やはり次期皆本光四みつよを継ぐ方は違います。あっ、会長はもう本日はお帰りですか?」
「ええ。職員室に学級日誌これを届けたら。今夜はちょっと用事がありまして」
「そうでしたか。呼び止めてしまって申し訳ありませんでした」
「お気になさらず。このくらいは大丈夫ですよ」
 副会長に笑顔で手を振り、皆本はきびすを返して職員室へと歩いていった。

 沈みかかった夕陽のだいだい色が染め上げる電車内を、男は目だけを動かして乗客たちを物色していた。
 狙うは女。それも恐怖にさらされれば声を上げることすらできなくなるような、気の弱そうなタイプ。できるだけ若い方がいい。
 帰宅ラッシュで込み合う車内を、男は注意深く、しかし怪しまれないように目で探っていく。
(!)
 男はようやく獲物を見つけ、心臓を高鳴らせた。
 ドアの前に立って景色を眺めている、艶やかな黒髪を持つ少女。
 仕立てのいいブレザーの制服が、名門校に通っていることを言わずとも知らしめている。
 手入れの行き届いた長い髪や、鞄の持ち方などの細かな仕草を取ってみても、育ちの良い令嬢であることがうかがえる。
 整った純朴な顔立ちは世間の暗部を知らず、線の細い体は暴力に何の抵抗もできないと踏み、男は気配を殺して少女に近付いた。
 真後ろに立った時点でも、少女は男に気付くことなく、流れていく風景と赤く染まった太陽に見惚みとれていた。
 男は口元をにやけさせた。上玉の獲物が手に入った、と。
 欲望のままに、男は少女の腰に手を回す。
「っ!」
 吐息程度の声が少女から漏れる。そこで初めて男が真後ろに立っていると気付いたようだった。
 男はさらに手を動かし、少女の太腿をさすった。
「っ!? っ!?」
 節くれだった手で体を触られる感覚に、少女は断続的に息を漏らす。
 男は歯をいて微笑わらった。思った通りだった、と。
 少女は抵抗せず、声をあげることもできず、男にされるがままとなった。
 男の手は太腿より下へと動き、スカートの裾へと滑り込んでいった。
「っ!?」
 スカートの中へと侵入した手が、怪しく少女の体をかき回す。その度に少女は小刻みに震え、嗚咽おえつのような声を出すも、電車の走行音にあっさり消し去られた。
 男の手がより奥へと潜り込む、少女はびくりと体を跳ねさせた。
 男の陰になっているせいで、少女の様子は周りの乗客たちには一切分からない。
 少女の反応を存分にたのしみながら、男は上唇をめ上げた。さらなる少女の反応を引き出そうとした矢先、
(!?)
 男の手は少女に掴まれた。
 バレたと思い逃げようとしたが、男は逃げることを忘れてしまった。
 振り返った少女の目が、『行かないで』と訴えていたからだ。
「こんなところじゃなくて、もっと落ち着けるところに行きましょう」
 他の乗客には聞こえない、男にだけ聞こえる声で、少女はささやいた。
 快楽にうるんだ目と、上気した頬、甘い吐息を見せられては、男に断る理由はなかった。


「ぎぇぎゃあああ! ぐぉぎゃあああ!」
 ベッドから転げ落ちた男は、味わったことのない痛みに混乱した。
 ほんの一瞬前までは、極上の快感を堪能していたはずだった。
 それが一転して地獄の苦しみにさいなまれている事実に、男の理解はまるで追いつけないでいた。
 ベッドの上では一糸纏いっしまとわぬ少女が、男の様子など一顧いっこだにすることなく座っていた。顔から胸にかけてが返り血に紅く染まり、口内で何かを租借そしゃくしながら。
「んぐ……むぐ……べっ!」
 少女は租借していたモノを、床でのたうっている男の前に吐き出した。
「マッズい。糞便ふんべんで飼育された家畜でもこんな味しないわ」
 涼しい顔で味の感想を述べる少女。
「ああああ! オレの! オレのがぁ! あああああ!」
 対して男は、目の前に吐き出された自らの体の一部が、すでにき肉になってしまったことに絶望の声を上げる。
「今まで何人を痴漢してきたか知らないけど、あたしに手を出したのが運の尽きだったと思って、まっ、あきらめてね」
 咽び泣く男にあっさり告げると、少女はベッド脇に備え付けられた電話を取った。
「もしもし、ルーシー? 部屋まで来てくれる? そう、さっきの下衆野郎……そう、運び出しちゃって」
 受話器を置いた少女は、愉快そうに目を細めて男を見た。
「オニごっこしよっか」
 そう言われ、男は悔しさとも怒りともつかない顔を少女に向けた。
「いまからあのドアが開かれるまでに廊下に出て、オニに見つからずに外まで逃げられたら、これ以上何もせずに見逃してあげる。でも捕まったら……今度はソレだけじゃ済まないかもね」
 少女が目線を移動させた先には、いましがた吐き出された肉塊にくかいがあった。
 男は氷原に放り出されたような寒気をおぼえた。これだけでも最悪な状況なのに、これよりもっと酷い目にわされるかもしれない可能性に打ち震えた。
 冗談ではない。人間が根源的に持つ、苦痛に対する恐怖と拒絶感が、男を感情や思考を超えて動かした。
「ヒィ……ヒィ……」
 床に血の跡を引きながら、男は死に物狂いでドアまでいずっていく。さながら身体の端を切り落とされた芋蟲いもむしのように。
「ハッ……ハヒィ……」
 恐怖と痛みと出血と混乱に責め苛まれながら、男はようやくドアまで手を伸ばせば届くところまで来た。
 これで逃げられる――――――――――と思ったのも束の間、ドアは男の希望を何もむことなく開かれた。
「あ……」
 男は頭の中が真っ白になった。開かれたドアの向こうからは、男が流した血よりも紅いひとみが冷酷に見下ろしていた。
 バスローブに身を包んだ肢体は、人の体温を感じられないほどに白くき通るようだった。
 それなのに腰まで届く赤みの入った茶髪は、瞳の色と合わせて強い生命感を放っている。
 肌の白さに裏打ちされたような美女の冷血な表情を向けられ、男は今まさに踏み潰される蟲の心持ちを思い知らされていた。
「こんな下衆のために呼び出されるなんて。せっかくイイを見つけたからお愉しみしてたのに」
 美女は男を見定めると、さもつまらなそうに溜め息を吐いた。
「また家出した女の子拾ったの? ルーシーも年々節操なくなってるわね」
「あなたに言われたくないわ、千春ちはる。それより下衆コレ、ヴィクトリアのところでいいの?」
「そっ。私はらないから。ルーシーは要る?」
わたしも要らない」
「じゃあ決まり。良かったわね。たぶん命だけは助かるわよ。『せめて殺してくれ』ってなるかもしれないけど」
「っ!?」
 その言葉に、男はいよいよ狂乱に達しそうになった。
「はいはい、余計な抵抗しない。大丈夫。ヴィクトリアだったらどれだけ死ぬような目に遭わされても死ぬことはないから。むしろ死ねないから」
 何としてでも逃げようとした男の髪を、ルーシーはあっさり掴んで持ち上げた。頭髪がブチブチと音を立てながら、男は捕獲されたうさぎのようにルーシーの手にぶら下がる。
「じゃあ、わたしはコレ持っていったら、ヴィクトリアと一緒に合流地点に向かうから」
「うん、そうして。私も千秋ちあきを連れてくから。あっ、その前にシャワーシャワー」
「……やるのはいいけど、せめてベッドの上だけにして。床を汚されるのが一番始末が面倒だから」
「ごめんごめん。み千切ったら転げ落ちちゃって」
「ソッチじゃなくて、吐き出したモノの方」
「あ~、ごめん」
「もう……」
 少し苦々しい顔をしながら、ルーシーは男を引きずって部屋を後にした。
 千春もまたベッドから降りると、軽く背伸びをしてバスルームに歩いていく。
「さ~て、さっぱりしたらお仕事お仕事♪」
 およそ部屋であったことが何でもなかったかのように、千春は鼻歌混じりにシャワーを浴び始めた。
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