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三者三様のコンプレックス

周囲の女子社員達

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「おはよう。昨日はご馳走様」


 朝、いつになくドキドキとしながら、杉野に声をかけると、眩しいほどの笑顔が返ってくる。
 機嫌がいいというのが一目でわかるほどに、威力のある笑顔だ。


「おはよう。また誘うから、付き合ってよ。……後で、メールする」


 顔を近づけて内緒話のように最後の一言を付け加える杉野に、頷きを返すのが精いっぱいだった。
 会社だと思うと恥ずかしくて、ろくに返事もできない。
 いつもと私達の雰囲気が違うことに気づかれたのか、ちらちらと見られている気がする。
 急いで机に戻って、パソコンを立ち上げた。

 営業事務の仕事内容は多岐にわたっていて、20人以上いる二課の社員のフォローを二人でしないといけないので、かなり忙しい。
 営業一課の事務は5人もいるけれど、その代わり、一課に所属する社員の数の方が多いし、支社に移動させられることもあるので、一概にどちらがいいとも言えない。
 転勤できない事情がある人は、二課に配属されることが多いそうだ。
 天堂課長が語学堪能なのに海外との取引が多い一課でなく二課の課長なのは、転勤を断ったからだという噂を聞いたことがある。
 噂なんてあてにならないと、身をもって知っているので、噂はあくまでも噂と割り切って聞いているけれど。
 
 まだ始業には時間があるけれど、頼まれていた資料を作り始めた。
 始業前だと電話が鳴らないので、作業がとても捗る。
 基本的に二課にかかってくる電話は、私か潮田さんが取ることになっているけれど、私が電話中とか離席しているときでないと、潮田さんは電話を取らない。
 会社が営業社員に持たせている携帯に直接連絡が入ることも多いので、一日に何度も電話を取らないといけない訳じゃないけれど、内線は結構かかってくるので、もう少し電話を取ってくれるといいのになと思っている。
 前任の早紀先輩がとてもできる人だったので、それと比べるのがいけないのかもしれないけど、潮田さんは早紀先輩の半分も仕事をしていない。
 その分は私が働くしかなく、そのせいで残業が増えている。
 潮田さんは真面目そうな外見だけど、あまり仕事熱心ではない。
 来客へお茶を出すときだけは、率先して働いてくれるけれど、資料を作ったり、出張費用や交通費などの社内提出用の書類を作ったりといった地味なことは、あまり好きじゃないみたいだ。
 昔は交通費などの申請書は、個人で経理部に提出していたらしいけれど、あまりにも提出忘れや不備が多かったので、漏れがないように、半月に一度、こちらで集めてから経理部に提出するようになっていた。
 申請書類に漏れがないか、領収書は揃っているか、きちんと確認しなければならないので、かなり手間のかかる作業だ。
 忙しいと、どうしてもこういったことは後回しにしてしまうので、社員一人一人の性格なども考えて、事前に声を掛けたりもしている。
 営業部以外の部署では、今も個人で交通費の申請などをしているそうなので、潮田さんに仕事内容を説明したときには、営業部の社員を甘やかしすぎだとぶつぶつと文句を言っていた。
 
 私達の状態に気づいているようで、最近は課長が直接潮田さんに仕事を割り振るようになった。
 忙しい課長の仕事を更に増やしてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだけれど、私が仕事を割り振るよりも、課長に直接頼まれた方が潮田さんも働きやすいみたいなので、課長に甘えさせてもらっている。
 気づかないうちに、いつもさり気なくフォローしてくれる課長のおかげで、ストレスを感じても、あまり深刻になることはないのかもしれない。
 入社早々に、神経性胃炎で体を壊しかけた時も、今思えば随分気遣ってもらった。
 目立たないようにさり気なくフォローする形で、仕事に慣れない私を助けてくれた。
 今まで、人間関係では苦労をすることが多かったけれど、この会社では上司や友人に恵まれてもいる。
 相変わらず嫌なこともあるけれど、でも、悪いことばかりではないんだなと気づいた。



 忙しく働いていると、すぐに時間が過ぎてしまう。
 お昼休みも電話番をしないといけないので、私と潮田さんとで交互に残ることにしている。
 たまに凛に誘われて外に出ることもあるけれど、社員食堂にはあまり行きたくないし、以前の私は、電話番でない日も自分の席でお弁当を食べることが多かった。
 営業部のフロアには専用の休憩室もあるけれど、営業部という場所柄、どうしても男性社員が多いので落ち着いて食事ができないのだ。
 潮田さんと交互に電話番をするようになってからは、潮田さんが残る日に自分の席にいると、電話番を押し付けられてしまうので、結局はお弁当を持って外へ出るようになった。
 電話番くらい引き受けてもいいけれど、自分に好意的でない相手にいいように利用されるのは気分が悪い。
 そこまでいい人にはなれない。
 今日は私が電話番の日なので、机でお弁当を広げていると、近所にあるお弁当屋の袋を手に課長が戻ってきた。


「おかえりなさい。こちらで食事ですか? お茶をいれましょうか?」


 自分の机でお弁当を広げ始めた課長に声をかける。
 出先で食事をしてくるか、お弁当を食べるにしても休憩室に行くことが多い課長が戻ってきたのは、仕事が立て込んでいるからかもしれない。
 

「ただいま、瀬永さん。電話番、ご苦労様。申し訳ないけれど、お茶をお願いできるかな? 給湯室に行く間くらい、電話は引き受けるから、ゆっくりでいいよ」


 お茶をいれるため、一度お弁当箱に蓋をして、席を立った。
 私はスープジャーにスープを持ってきているから、お茶は必要ないけれど、課長は何も飲み物を持っていないようだから急ごう。
 休憩室には自動販売機があるから、飲み物を買い忘れたのかもしれない。
 給湯室で手早くお茶をいれて、零さない程度に急いで戻る。
 お昼はみんな出払っていることが多いので、今は課長しかいない。


「どうぞ。お昼の時間を惜しむほど忙しいですか?」


 課長の仕事を増やしている自覚があるので、申し訳なく思いながら尋ねると、柔らかな笑みが返ってきた。
 銀縁の眼鏡越しに見える目はとても優しくて、私の考えていることなんて全部伝わってしまっている気がする。


「休憩室は騒々しいから、ここなら静かだろうと思ったんだ。最近、他のフロアの女子社員もこのフロアの休憩室を使っているようで、落ち着いて食事もできなくてね。社食の席が足りないわけでもないから、お弁当を持ち込むにしても、あちらを使ってくれるといいんだが……」


 ため息混じりの課長の言葉に、休憩室の現状を知らなかったので驚いてしまった。
 自分の所属する部署のあるフロアの休憩室を利用するというのは、社則ではないけれど、暗黙の了解としてみんなに受け入れられていることで、それを守れない人がいるなんて思わなかった。
 一度や二度ならともかく、課長の口ぶりでは頻繁にあることのようだ。


「最近、休憩室を使っていないので知りませんでした。電話番じゃない日は、公園で食べたりしてるんですけど、雨が降るようになったら、食事の場所に困って、外食が増えそうです」


 梅雨時で、これから雨が増えるのに休憩室が使えないとなると、外食するしかない。
 節約しているわけじゃないし、凛とランチを食べ歩くのも悪くないと思うけど、雨の中を出かけると考えるだけで憂鬱だ。


「雨が降らなくても、もう少ししたら、暑くて外では食欲が失せるかもしれないよ? 夏場の営業は暑くて、毎年体重が落ちるんだ。本当は汗だくで暑くてたまらないけど、涼しい顔をしているうちに、女優さんみたいに、顔だけ汗をかきづらくなっていたよ」


 軽く冗談めかした課長の言葉につられるように、つい笑ってしまう。
 目の前の涼し気な容貌の課長が、汗だくになっているのが想像できない。


「課長は暑苦しさとは無縁に見えます。でも、そうですね。夏になる前に、落ち着いて食事できる場所を見つけたいです」


 こうなると、場所を探さないでいいという意味では、電話番もありがたいかもしれない。
 休憩室が正しく使われるようになれば、本当はそれが一番だけれど。


「瀬永さんは、会社の近くに『sky』という紅茶専門店があるんだけど知ってる? 外食するのなら、ランチもやってるから、行ってみるといいよ。一人でも入りやすい店だから」


 知らない店だったので場所を聞いてみると、手元の紙に地図を書いて、課長が詳しく説明してくれた。
 オフィス街にあるので土日はお休みということなので、早く帰れそうなら今日の帰りにでも行ってみようかな。
 紅茶の葉も売っていると聞いて、興味を引かれてしまった。


 
 電話が鳴ったのを機に自分の席に戻って、急いでお弁当を食べ始めた。
 昼休みは1時間あるけれど、食べ終わった後に軽くお弁当箱を洗いたいし、歯磨きもしたいから、あまりゆっくりはできない。
 最近、営業フロアの女子トイレに、何でか他の部署の人がいると思っていたけれど、休憩室を使ってそのまま流れてきていたようだ。
 営業部には、課長と杉野以外にも、一課の課長や主任、その他にも社内で人気のある男性社員が揃っているので、休憩室に行けば誰かしらと遭遇するはずだ。
 彼ら目当てに他のフロアの女子社員が集まっているのだとしたら、かなり面倒だなと思う。


 食後、化粧室に歯磨きに行くと、予想通り他のフロアの女子社員がいて、我が物顔で洗面台の前を占領していた。
 会社の建物は比較的新しくて、水回りも綺麗に整えられている。
 来客用の応接室もあるこのフロアの化粧室は、取引先の社員が利用することも想定してなのか、広めに作ってあって、化粧直しをするためのスペースも別に作ってあった。
 おしゃべりしながら化粧を直すだけなら、水道は使わせてほしいと、少しイラっとしながら先に個室に入る。
 携帯を確認すると、杉野からメールが届いていて、荒んでいた気持ちが和んだ。
 3時に帰社予定となっていたけれど、その後、片づけないといけない仕事が多くて、残業は確定らしい。
 もし、一緒に帰れそうなら、また付き合ってほしいと書いてあって、連日の誘いが嬉しくて胸が弾んだ。
 私も多分残業になることと、同じタイミングで帰れそうならと、誘いを受ける返事を返してから個室を出る。
 まだ他のフロアの社員がいたけれど、時間がないので洗面台の前を開けてもらって、歯磨きをした後、軽く化粧を直した。
 用事を済ませて化粧室を出ると、背後の話し声が何やら姦しくなったけれど、興味はないのでさっさと自分の机に戻った。



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