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三者三様のコンプレックス

臆病同士

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「杉野、行かないの? みんな先に行ったわよ?」


 まだ残っている杉野に、思い切って声をかけた。
 課長には、杉野を連れていくと伝えてある。


「……自分の馬鹿さ加減に落ち込んで、酒を飲む気分じゃない」


 俯いたまま、酷く落ち込んでいる杉野の頭を、髪を乱すみたいに撫でる。
 ぐりぐりと手荒く撫でられてもされるがままになっていた杉野は、しばらくして私の手首を掴んだ。


「あの時、俺が電話したときさ、瀬永は何してたの?」


 顔を上げようとしないまま問われて、立ったまま杉野を見下ろす。


「次の日に着ていく服を広げてたわ。どれにしようって、クローゼットからいっぱい引っ張り出して、迷ってた。張り切ってお弁当の下ごしらえをしてたから、メールにも気づかなかったの」


 そんなに昔のことじゃないのに、随分前のことのように感じる。
 あの時のドキドキわくわくとした高揚感は、確かに杉野を想って感じたもので、あの時、私はとても幸せだった。


「そっか……。俺、聞けばよかったんだな。大澄さんとマンションに入っていったのは、どうしてなんだ?って。本当に大澄さんと一緒にいるのかって。……馬鹿なことをした。仲良く夕飯の買い物をして、瀬永のマンションに入っていったって聞いて、その証拠写真を撮った人の思惑とか、考えもしなかった。『仁さんは真剣なのに、酷い』って、俺のことがかわいそうだって泣く陽菜ちゃんを見て、裏切られたって気持ちが強くなった。俺も、一緒に出掛けるのを楽しみにしていたから、その分、ショックが大きくて、自棄になってた」


 あの日、和成さんが電車で通勤したのは本当に偶然で、それがなければ荷物を持ってもらうこともなかった。
 私と和成さんを見かけたのが、偶然なのか狙っていたのかはわからないけど、もしかしたら、以前から私と和成さんが同じマンションに出入りしているのは知られていたのかもしれない。
 3年以上住んでいるのだから、その可能性はあるだろう。


「俺、瀬永との距離が近くなっても、それでも不安だった。ずっと好きだったのに、振られるのが怖くて、仕事仲間として接するしかできなかった。仕事以外でも接点が欲しくて、同期の奴らを誘って、みんなで出かけたりしてたけど、お前はどこに行っても目立つし、俺とは格が違うって雰囲気の男と親し気にしてたりするし、恋人になりたいって、言えなかった」


 好きという杉野の言葉を聞いたのに、どこか他人事みたいにしか受け取れなかった。
 それは多分、私と杉野の気持ちが既にすれ違っているからなのだろう。
 約束をキャンセルされたあの日から、たいして時間は経っていないのに、こんなにもすれ違っていることが悲しい。
 まるでボタンを掛け違えたみたいにすれ違って、もうどうにもならない。
 私は、例え自棄になっていたとはいえ、田辺さんと夜を過ごした杉野と付き合うことは考えられないし、杉野もそんな自分を許せないんだと思う。
 杉野の声には諦めが混ざっていた。


「馬鹿ね。私の親しい男性なんて、杉野の他は、ほとんど家族だけよ。前に食事に行ったときに一緒にいたのも、血の繋がった実の父だし、他に見かけたのも、私の義兄達じゃないかな。二人とも親の再婚で家族になったから、顔は似ていないし、歳も随分離れているの」


 追い打ちを掛けるかもしれないと思ったけれど、真相を話しておいた。
 義兄達とは、たまに出張のお土産を受け取るついでに一緒に食事をしたりするので、それを見かけた人に変な噂を流されることもあった。
 特に上の楓義兄さんは昔から私に甘くて、外でも気にせず甘やかすし、結婚しているからマリッジリングをしているので、余計に変な憶測をされやすかった。


「家族、だったのか……。そういえば、瀬永の家族の話、聞いたことがなかったな」


 ぽとりと落ちた雫が、杉野のスラックスに染みを作る。
 呟くような杉野の声には、後悔が混ざっているように感じた。


「私が生まれてすぐに両親は離婚してるし、いろいろ複雑だから、あまり話したことはないの。でも、杉野に聞かれたら、話すつもりだった。話したいことがたくさんあったから、ドライブを選んだんだもの」


「そうか」と、一言呟いたきり、それ以上は声にならないといった様子で、杉野が両手で目元を覆う。
 痛々しい姿を見て、胸がひどく痛んだ。
 もういいよって、許して甘やかしてしまいたくなる。
 ずっと好きだったから、まだ完全に消えてはいない恋心が、許して受け入れてしまえと私を唆す。
 今、私が好きだといえば、ずっと一緒にいたいといえば、杉野は受け入れてくれるかもしれない。
 でも、私を信じ切れなかったという負い目を、杉野はずっと抱えるだろう。
 私の素を知って、性格や考えていることや生い立ちを知れば知るほどに、杉野は傷ついてしまう、そんな気がする。


「ごめん……信じられなくて、ごめんな……。でも、好きだった。一目惚れだった。ずっとお前だけ見てた」


 涙声で切々と訴える杉野を抱きしめた。
 私がもっと早く勇気を出していたら、また違った未来もあったのかもしれないと思うと、とても切なかった。


「もういいよ。謝らなくていい。隠し事をしてた私も悪かったんだし、私達、どっちも臆病過ぎた。欲しいものに手を伸ばす勇気を持ってなかった」


 ふと、チャンスは一瞬だと言っていた、奏楽さんを思い出した。
 私達はずっとそばにいたのに、お互いにチャンスを掴めなかったんだと思った。


「……チャンスの神様には前髪しかないって言うもんな。ヘタレすぎて、神様に逃げられたのかもな。この3年の間に、俺の前を何度も神様は横切ってたはずだから」


 ぐいっと目元を拭いて、何かを吹っ切るように勢いよく顔を上げた杉野が、不意に悪戯っ子のように笑う。


「瀬永、胸、でかいな。柔らかくて顔を上げるのが惜しかった」


 立ったまま頭を抱き寄せていたから胸が当たっていたのだと、杉野の言葉で気づいて、慌てて体を離した。


「馬鹿っ! セクハラ杉野!」


 胸元を腕で隠すようにしながら睨むと、泣いたのが嘘みたいに杉野がにやける。
 私の胸の感触とか、さっさと忘れてほしい。


「冗談はこれくらいにして、課長様にたかりに行くか。瀬永も行くぞ。あの人、今頃ヒヤヒヤしながら待ってるだろうから」


 先に歩き出した杉野に急かされて、後をついて行くけれど、意味深な発言に驚いてしまう。
 杉野、もしかして課長の気持ちに気づいているの?
 真相を問うと墓穴を掘りそうで、落ち着かない気持ちのまま杉野を追いかけた。
 半歩後ろから見上げると、さっきまでと違って杉野の表情はすっきりとしていて、いつもの杉野に戻っていた。


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