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閑話

格の違う女  杉野視点

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 それなりに裕福な家に生まれ、それなりに恵まれた容姿だった俺は、苦労らしい苦労をすることもなく成長した。
 唯一の挫折は、医学部の受験に失敗したことくらいだろうか。
 だけど、その失敗も半分は計画的なものだったので、ダメージは全くなかった。
 両親も二人の兄も医者で、家が総合病院を経営しているからと、当たり前のように医者になることを求められるのが嫌で、医学部の受験はしたけれど、本命の大学は別だった。
 両親は薄々それを感じていたようだけど、いまだ健在で口うるさい祖父を黙らせるためには、一応医学部を受験しましたという実績が必要だったので、咎められることはなかった。
 兄達とは少し年の離れた末っ子なので、昔から両親も兄達も俺に甘い。
 だから、俺が医学部とはまったく縁のない大学に進学しても、大学を休学して海外に行くときも、形ばかりの苦言を呈するだけで許してくれた。
 2年もの間、海外を遊学するのは、いくら節約生活をしていてもそれなりに金がかかる。
 もちろん、バイトで貯めた金も使ったけれど、実家からもかなり支援してもらっていた。

 そんな風に温い環境で育った俺は、恋愛に関しても真剣になることはなくて、告白されれば誰とでも付き合った。
 二股をかけたり、浮気をしたりこそしなかったものの、来る者は拒まず去る者は追わずといった状態だったので、周囲には軽い男だと思われていたかもしれない。
 でも、恋愛なんてそんなものだと思っていた。
 そのうちに特別に相性のいい人と出逢って、タイミングがよかったら、結婚することもあるのかもしれないと漠然と考えていたけれど、現実感はあまりなかった。
 地に足のついた、医者として社会に貢献しながら日々を過ごしている兄達を見ると、自分のいい加減さが嫌になることもあったけれど、だからといって自分を変えようとはしなかった。
 周囲に合わせて就職活動をして、口うるさい祖父を適度に満足させられる規模の会社に内定をもらえたから就職した。
 俺の人生は、こんな感じでずっと続いていくのだろうと思っていた。


 入社式の日、出社して新入社員が集められたホールに入ると、そこに周囲の視線を集めている女がいた。
 誰もが遠巻きに見て、近寄ろうともしないその女は、極上の宝石みたいなきらきらとしたオーラを放っていて、一目見た瞬間から目が離せなくなってしまった。
 波打つ長い黒髪は艶があって、まるで華奢な体に纏わりつくかのようで、肌の白さを引き立てていた。
 目も濡れたような艶のある黒で、泣きぼくろが色っぽく、視線を向けられるだけで胸が高鳴った。
 女性にしては高めの背も、手足が長くバランスのとれたスタイルも日本人離れしていて、きっとオーダーに違いないスーツに包まれた体は、完璧といっていいほどに美しかった。
 何より、声が俺にとっては最高だった。
 見た目の印象を裏切る少し高めの声は、甘く優しい響きを帯びていて、あの声で名前を呼ばれたらと、想像しただけでうっとりとしてしまった。
 瀬永優美花は、俺の知っている女たちとは格が違った。
 他の奴らも多かれ少なかれそれを感じ取っているから、彼女を遠巻きにしてしまうのだろう。
 今日知り合ったばかりとは思えないほどに親しげに、社長の娘という女と話をしている最中、何か面白いことでも言われたのか、彼女が笑みを零した。
 艶やかという言葉が一番似合うと思っていたのに、それとは真逆の可憐な笑顔で最初の印象は覆されて、苦しいほどに胸が高鳴った。
 すっかり心を奪われてしまったのだと気づいたのは、入社式の後、初めて言葉を交わした時に、緊張で声が出なくなるという初めての経験をしてからだった。




 ほぼ一か月の間、新入社員を集めて研修が行われる。
 配属先の希望を研修期間に取られ、その希望と、本人の持つ能力や適正などを考慮して、5月の連休後に配属先が決まるという流れになっていた。
 研修が始まっても、瀬永は遠巻きにされていることが多かったけれど、俺は持ち前の人懐っこさを発揮して、他の同期よりも親しくなることに成功した。
 研修中はグループで行動することも多かったので、瀬永と社長の娘の凛、それから口は悪いけど面倒見がよくて付き合いやすい中村と俺の4人で組むようになった。
 6人単位での研修だったので、その時々で二人のメンバーは入れ替わっていたが、その理由は主に俺と凛にあった。
 社長の娘で見た目は優しげな美人の凛や、一人だけ別格の瀬永、そして同期では一番顔のいい男と評価されている俺を目当てにやってくる奴らとグループを組んでも、研修が二の次になってしまう。
 真面目に取り組んでいる凛は特にそれが許せないらしく、研修内容よりも親しくなることや口説くことを優先した奴らは、バッサリと切っていったし、俺もそういう女とは二度と組まなかった。
 瀬永を敵視して研修の邪魔をしたり、嫌味を言ったりする女もいたけれど、瀬永は慣れたことのように受け流していて、凛の方が余程怒りを露わにしていた。
 瀬永は入社したばかりだというのに、総務部にいる女子社員から何故か敵視されていた。
 情報通の中村が調べたところによると、総務部にいるリーダー格の女子社員が、瀬永の高校と大学時代の先輩らしく、過剰なくらいに瀬永を嫌っているらしい。
 入社してすぐに出回った瀬永の悪い噂の情報源はその先輩らしくて、当初、総務部に配属を希望していた瀬永は、配属先の希望を他に変えることになった。
 あんな人がいる部署では、まともに仕事ができると思えないし、ストレスもたまるだろう。
 凛は最初から秘書課に配属が決まっているようで、瀬永のこともしきりに秘書課に誘っていたけれど、そういった目立つ部署は嫌だといって、営業部か経理部にと、配属先の希望を変えていた。
 俺も営業部が第一希望だから、同じ部署に配属になるといいと願っていたので、瀬永と同じ営業部の二課に配属されたときは、飛び上がるほどに嬉しかった。
 おかげでやる気が漲った。

 
 就職すれば、いつまでも学生気分でいられないから、恋愛沙汰は減るものだと思っていた。
 だけど、研修中も研修が終わって配属された後も、食事やデートの誘いが尽きなくてうんざりとしてしまった。
 瀬永と出逢う前の俺なら、適当な相手と適当に付き合ってただろうけど、瀬永しか目に入らない今は、とてもそんな気になれない。
 食事だけでもといわれても、興味を持てない相手と飯を食うことに意味を見いだせない。
 ずっと適当に、ちゃらんぽらんに生きてきた。
 けれど瀬永に出逢って、初めて人を真剣に想うようになってから、せめてもう少しまともな男になりたいと考えるようになった。
 配属された二課に目標となる上司がいたことも、俺に大きな影響を与えていた。
 仕事を面白いと感じ始め、課長という目標もできて、日々が充実していた。
 その一方で、瀬永に対しては思いっきりヘタレてしまって、仕事仲間以上の関係に発展することはなかった。
 凛や中村が協力してくれて、みんなで遠出したり旅行に行ったりもしたけれど、瀬永を前にすると緊張してしまって、告白することができなかった。
 そんなヘタレた俺に周囲の奴らは呆れていたようだけど、瀬永は俺にとって極上の女過ぎて、二人きりになると緊張するし、自分が瀬永には不釣り合いだと感じてしまうのだ。
 

 入社して4年目に転機はやってきた。
 4年目に入ってきた新入社員の田辺陽菜が、断っても断っても俺に纏わりついてきて、それに俺が根負けしてしまったのだ。
 俺がイライラする前に引いてくれることと、保護欲を掻き立てるような容姿が、いつもと違い徹底的に拒絶できなかった理由だ。
 女としては見れないけれど、妹のような後輩と思えば可愛く感じた。
 心のどこかに、瀬永が妬いてくれないだろうかという気持ちもあったかもしれない。
 でも、俺がそんな態度だったせいで、田辺陽菜と付き合っているという噂が出てしまった。
 二人きりで食事に行くのは諦めるから、代わりに名前で呼んでほしいと言われて、それくらいならと了承してしまったのがまずかったらしい。
 凛には馬鹿だと罵られ、中村にはいつもの暴言さえもらえなかった。
 さすがにこのままではまずいと思って、腹を括って、初めて個人的に瀬永を誘った。







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本日から一話ずつ、杉野視点の閑話を投稿します。
あまり長くはならないと思います。
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