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第一部

第十七話 幸せな偽善者(9)いちゃこらタイム

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 翌朝。

 馬車は緩やかに旅立った。

 まだ風は冷たく、ルナは幌の中で身を縮こまらせている。

「もう一枚欲しいぐらいだね」

 ルナは言った。

「贅沢言うな」

「んなこと言っちゃって、次の街できちんと買ってくれたりするのが君なんだから」

 ルナは笑った。

「お前の金でな」

 行動が見透かされた恥ずかしさを、ズデンカはごまかした。

「ふふふ」

 ルナは笑った。

――小憎たらしい。

 ズデンカは手綱を握り続けた。

 馬たちは、寒さにも負けずひたすら前進し続けている。道は凍っていないので、蹄鉄が傷付く心配はなさそうだ。

「わたしにもあんな毛皮があったらなあ」

 ルナは笑った。

「毛だらけのお前を想像したら笑えてくるぜ」

「可愛らしいじゃないか」

「自分のことを可愛いとかいうやつがいるか」

「わたしは可愛いんだよ」

「アホか」

 ズデンカは苦笑した。

「この冬はいつ終わるんだろうね?」

 二人の会話は途切れ途切れで、なかなか繋がっていかない。

「春になったら終わるだろ。あと一ヶ月ちょいか」

 ズデンカは話の尾っぽを必死に掴む覚悟だ。

「春先はまだまだ寒いからね」

「わがまま言うな。あたしにとっちゃほんの一瞬だ」

 これにはちょっぴり嘘があった。ルナと出会ってからズデンカは一年を長めに感じ始めているのだ。

「君なら幾らでも季節を楽しめるからな。羨ましいよ」

「寒さすら感じないからな。ただ単調なだけだぞ」

「寒さを感じないって素晴らしいじゃないか」

「お前が感じなかったらいつの間にか凍死だぞ」

「それも一興だね」

「馬鹿言え、誰よりも臆病なくせに」

 ルナの返事がしばし途絶えた。

「おうおう、言い返せなくなったのかよ」

 ズデンカは煽った。

「べつにー」

 暢気そうな声が馬車から聞こえてズデンカは一安心した。

「臆病なんだろ、言っちまえよ」

 普段なら引き下がって黙るところを、珍しくズデンカは攻めた。

「まあそうかもね。前、泣いちゃったし」

 ルナはやけにしおらしかった。

「泣くのはいいんだよ」

 ルナから詳しく話を聞いて、なんで泣いたのか知っているズデンカは戸惑った。

「……」

 ルナは黙った。

――沈黙の効果を知ってやがる。

 ズデンカも黙ることにした。

「あれ、どうしたのー?」

「……」

「わたしが傷付いたとでも思ったの?」

「いや」

「図星だ!」

 ルナは鼻で笑った。

「別にそうじゃないならよかったけどよ」

「うん、わたしは傷付いてないよ。単に臆病なんだって自覚しただけ」

「あたしも強くはねえがよ」

「君が強くない? 嘘!」

 ルナはびっくりしたようだった。

「そこまで驚かなくても」

「君は何をしても甦ってくるじゃないか。十分強いよ」

「身体は強いが心はそうでもねえ。繊細だ」

「詩を書くからね」

 ルナはからかった。

「うっせえ」

「まあ、自分で自分のことを繊細って言う人は、繊細じゃないって相場が決まってるから安心しなよ」

 慰めのような貶しのような言い方にズデンカはイラッとした。

「また、君の詩を読みたいんだけど」

「お前の世話で忙しくて書く暇なんかねえよ」

「いずれ書いたら見せてくれよ」

「ああ」

 と言いながら、ズデンカは後ろへ続く轍の跡へちらりと視線を送った。
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