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第一部

第二十四話 氷の海のガレオン(10)

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「なんか怖いなあ。で、この船沈めちゃうんですよね。まさかぼくらも一緒に……?」

 オドラデクはまたあからさまに怯えてみせた。

「我と共に来るなら沈むことはないぞ」

 ファキイルに僅かに浮かんだかと思われた表情は消えていた。

「共にって、どこへぃ? ぼくらに何かするつもりですかぁ」

 オドラデクは貞操が汚されるような大袈裟な身振りをして言った。

「汝らの望むところへ連れていってやる」

 ファキイルは疑わしいほどに寛大だった。

「杉の柩の在処《ありか》、へでもか?」

「ふむ。それはなんだ?」

 ファキイルは相変わらず表情を変えなかった。だが、そこには何か興味を引かれたらしい様子が感じられた。

「フランツさん……」

 ビックリした様子のオドラデクが口を挟もうとしたが、

「旧スワスティカ特殊部隊『火葬人』席次五ビビッシェ・ベーハイムが葬られたとする柩だ」

 とフランツは遮った。

「スワスティカとはなんだ」

「千年以上生きる存在が、あれだけ世を騒がせた連中を知らないのか」

 フランツは馬鹿にするかのように言った。

――神話の頃だから、少なくとも千年は生きてるだろう。

 適当だったがファキイルはそこは無視して、

「世間のことは疎くてな。我は何も知らぬ。汝らに教えて欲しいほどだ。とまれ、何方《いずかた》なりと連れていってやろう」

「……」

 フランツは何も言い返せなくなって黙った。

「まあいいや。この氷の海を元に戻してください」

 オドラデクは言った。

「わかった。なら、我が服の裾を握れ」

 ファキイルは告げた。

 オドラデクはさっさと言う通りにした。

  フランツはしばらく躊躇《たゆた》った。

「フランツさん。落っこちちゃいますよ。この船はもうじき海へ沈むんです」

 フランツはいやいやながら藍の裳裾を強く握った。

 ふわり。

 いや、フランツにとってはふわりどころではなかった。急激に身体が浮き上がったのだから。

 それは馬に跨がるときのような感覚にも似ていた。

 ファキイルは小さな身体ながら二人を中へと引っ張り上げ、空を翔け昇った。

 途端に、轟音がした。

 海表一面を蔽う、氷が砕けたのだ。

 一気に、亀裂すら留めず、千々に砕けた。そのかたちはあっという間に見えなくなった。

 ガレオンは中程で真っ二つになり、材木が弾け、先ほどまだ二人がいた場所は、瞬く間に海水に没していった。

 海賊たちの骨も海底で永遠の眠りにつくことだろう。

「連中の着けていた指輪は頂きましたよ」

 オドラデクは悪びれもせず言った。

「我のものではない。関知しない」

 ファキイルは簡潔に答えた。

 馬が並足から跑足《だくあし》に移り、乗り手が早さが増すのを感じる時のように、二人はファキイルの後ろで風を受けた。

 冷たさはあまり感じない。氷は消えたのだ。

――やはり、あれは現実ではなかったのか。

 フランツは一瞬思った。

 空を翔ぶことなど、初めての経験だった。

 飛行機の発明こそ噂では聞くが、まだ実際に乗ったことある人間など一握りだ。

――ルナ・ペルッツでさえ、翔んだことはないに違いない。

 フランツは優越感を覚えた。

 ファキイルのローブの長い裾は雲を背にして翼のように広がった。

「どこへいくのだ」

「ひとまず陸地へ。ここが西舵海だと言うことはわかってるな。なら南下して東方へ向かう。ランドルフィ王国へいく」

 フランツは一息に説明した。

 ファキイルは黙った。

 本当に納得したのか不明だったが、返事がない以上、フランツも話を続けることは出来なかった。

 ただローブの裾を離してしまわないよう、しっかり握ることで精一杯だった。
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