悪役王妃と私の回想録 ~深紅の薔薇は深淵へ沈む~

秦江湖

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栄華と黄昏

神への叛逆

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帝都アウレリアを脱出する馬車の中は、窯のような暑さに満ちていました。


 外では、アージェント軍が放った火矢によって街が燃え上がり、その熱気が窓を通して伝わってくるのです。 けれど、それ以上に車内の温度を上げていたのは、担架に横たわるバルバロッサ大公の身体から発せられる、目に見えない「業火」でした。

馬車の革張りのシートは高熱でひび割れ、焦げた獣の匂いと、大公の肉体が炭化していく不快な異臭が狭い車内に充満していました。

私の「目」には、大公の毛穴から噴き出す魔力の残滓が、紅い稲妻となって空間を切り裂く様がはっきりと見て取れました。

それは物理的な熱を超え、神の領域から盗み出した力の「逆流」であり、馬車という小さな箱庭を、この世ならぬ異界へと変質させていたのです。

窓の外、火の粉を散らして崩れ落ちる寺院の鐘の音が、帝国の終焉を告げる弔鐘のように、私の鼓膜を絶え間なく震わせ続けていました。

ガタンッ! と車輪が石畳の窪みに落ち、馬車が激しく揺れました。 私はとっさにルシアン王子を強く抱きましたが、その拍子に、昏睡していたはずの大公が、カッとお目を開かれました。


「……五月蝿いぞ」


その声は、瀕死の病人のものとは思えないほど低く、明瞭に響きました。 狂乱していた先ほどまでの様子とは違う、氷のように冷徹な理性が、その瞳に戻っていました。 死の直前にだけ訪れるという、「中治り」の奇跡です。


「お父様……。気が付かれましたか」


テオドラ王妃様が、父の焼け爛れた手を握りました。 大公は、窓の外を流れる赤い炎の景色を、愛おしむような目で見つめました。


「……よく燃えているな。  私が築いた黄金の都が、灰へと還っていく。……壮観だ」

「何を仰います。すぐに船で西へ……」

「無駄だ」


大公は娘の言葉を遮り、不敵に笑いました。 その皮膚の下では、血管がどす黒く脈打ち、肉体が炭化していく音が聞こえるようです。


「テオドラよ。……お前は、私を恨んでいるか?  お前を『生贄』として育て、こんな呪われた運命を背負わせた私を」

テオドラ様は一瞬息を呑み、それから静かに首を横に振りました。

「いいえ。……私には、これ以外の生き方は分かりませんから」

「そうか。……だが、私は謝らんぞ」


バルバロッサ大公は、天井を睨みつけるように言いました。 その言葉は、娘に向けたものであり、同時に、天上の神々に向けた「演説」のようでもありました。


「かつて、人間は弱かった。  海が荒れれば怯え、干ばつが来れば餓死し、ただ神に祈ることしかできなかった。  私はそれが許せなかったのだ。  なぜ、人間はこれほど知恵と情熱を持ちながら、自然の奴隷でなければならんのだ、と」

「神が人間に与えたのは、恵みではない。服従という名の首輪だ。私はその首輪を、この手で引きちぎったに過ぎん! 黄金の稲穂も、不夜城の輝きも、すべては神への叛逆という代価で買い取った、我ら人類の誇りなのだ。祈りという名の懇願で命を繋ぐ時代は、私がこの手で終わらせた!」 


大公の吐息はそれ自体が小さな火種となって、薄暗い車内をギラリと照らし出しました。

その傲慢なまでの自負は、滅びゆく帝国の最期の輝きであり、同時に、この大公が二十数年の栄華のために背負ってきた地獄の深さを、何よりも雄弁に物語っていました。


大公の目から、ギラギラとした野心の光が放たれました。 それは、かつて若き日の彼が、禁忌を犯して海神の神殿へ踏み込んだ時の、燃えるような渇望だったのでしょう。


「だから私は奪った。神の心臓である宝珠を。  祈りではなく、『力』で運命をねじ伏せるために。  見ろ、この二十数年、アウレリアは世界を統べた。冬の寒さに凍える子はいなくなり、夜は昼のように明るくなった。  ……それは罪か? 神の聖域を犯してでも、人間が『自立』しようとしたことは、悪なのか!」


ドンッ、と大公が寝台を叩きました。 その拳から煙が上がり、寝具が焦げ付きます。

 私は震えました。 この男は、私利私欲のために国を乗っ取ったのではありませんでした。

 彼は、人類という種族を、神の支配から引きずり下ろし、高みへと押し上げようとした「革命家」だったのです。 たとえその代償として、自分自身の魂が永遠に業火に焼かれることになろうとも。


「……ええ、お父様。あなたは、誰よりも偉大な人間でした」


テオドラ様は、父の熱い額に口づけを落としました。 氷の唇が触れた場所だけ、炎が鎮まっていくように見えました。

「ふん……。慰めはいらん」

大公は満足げに鼻を鳴らし、最後に私のほうへ視線を向けました。 射抜くような眼光に、私は思わず背筋を伸ばしました。


「そこの侍女。……セシリア、だったか」

 「は、はい」

 「よく見ておけ。これが、神に刃向かった男の末路だ。  ……だが、私は負けたのではない。燃え尽きるまで勝ち続けたのだ」


そして、大公は最後の力を振り絞り、テオドラ様の手を握り潰さんばかりに強く握りました。


「テオドラ。美しくあれ。  たとえ泥にまみれようとも、血を吐こうとも、お前はヴァーミリオンの最高傑作だ。  神々が嫉妬するほどに、最後まで美しく散れ。……それが、私への手向けだ」

「……はい。必ず」


テオドラ様が頷いた瞬間、大公の目が見開かれました。 彼の視線の先に、私には見えない「何か」が現れたのでしょう。 おそらくは、契約の履行を迫る、深淵からの使者が。


「ハッ、迎えに来たか……!  いいだろう、地獄だろうが虚無だろうが、私が征服してやる!」


大公は、絶叫とも哄笑ともつかない叫び声を上げ――。 そのまま、目を見開いたまま、動かなくなりました。


一瞬の静寂。 直後、彼の身体から立ち上っていた凄まじい熱気が、フッと消失しました。 後に残されたのは、炭のように黒く変色した、けれど岩のように強固な意志を感じさせる遺体だけ。


私の魔眼には、彼の肉体を焼き尽くしていたあの凶暴な「赤」が、一瞬にして深い虚無へと吸い込まれていくのが見えました。

それは光が消えるというより、存在そのものが世界の理から削り取られたような、絶対的な断絶。熱を失った遺体は、漆黒の石像のように冷たく、けれど同時に、成し遂げた者だけが持つ不気味なほどの静謐を纏っています。

神に勝ったのか、あるいは深淵に呑まれたのか。その答えさえも、彼は傲慢な笑みのまま、あの世へと連れ去っていったようでした。


「……逝かれたか」


それまで沈黙を守っていたオクタヴィア大公妃が、初めて口を開きました。 彼女の顔に涙はありませんでした。 ただ、夫の死に顔にかかった髪を、愛しげに撫でただけでした。


「見事でしたよ、あなた。……あとは、私たち女に任せてお休みなさい」


馬車が急停止しました。 外から潮の香りが流れ込んできます。港へ到着したのです。


「降りますよ、セシリア。  泣くのはおよしなさい。父が機嫌を損ねます」


テオドラ様は、冷え切った声でそう言い放ち、毅然と顔を上げました。 その横顔は、先ほどまでの「守られる娘」ではなく、一族の罪と誇りをすべて継承した「深紅の女王」の顔をしていました。


私は涙を拭い、ルシアン王子を背負って馬車を降りました。 目の前には、夜の闇よりも暗い海が広がっていました。 覇王バルバロッサの死とともに、私たちの「逃避行」は終わりを告げ、本当の「地獄巡り」が始まろうとしていました。


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