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第1部 皇太子殿下との婚約

第2話 地獄を抜けたら天国ではなく、さらなる地獄だった。

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 3日後、俺は父様に執務室に来るようにと呼び出された。

「失礼します」

 部屋に入ると、兄貴も呼び出されたのかソファに座って紅茶を嗜んでいた。
 父様の方は、何時もと違って温厚な皮を脱ぎ捨てて、今日は真剣な表情をしている。
 重要な話し合いがあるのは明らかであり、気持ちが引き締まった。
 決して、部屋の隅にあのメイドさんが控えているからではない!

「よく来たな、まずはかけなさい」

 俺は兄貴と対面のソファに座ると、父様は椅子に腰掛けたまま俺たちを呼び出した事情を説明する。

「今後の大まかな日程だが、1ヶ月後に婚約の儀を執り行う事となった」

 爺様は、この婚約の儀が終わるまでにエスターを捕まえるべく動いている。
 兄貴が頼りにならない今、頼りになるのは爺様だけだ。

「その後、あまり期間を空けずに結婚となる運びだったが、ここで猶予ができた」

 父様が兄貴に視線を送る。

「誰かが皇太子殿下を唆したのか、すぐに結婚なされる事に待ったをかけられた」

 あ、兄貴ぃ~!
 俺が目を煌めかせると、兄貴はドヤ顔で笑みを浮かべた。
 全く、頼りにならないとか誰が言ったんだ。
 やっぱり、お兄様だけが俺の味方です! さすがです、お兄様!!

「猶予は2年、婚約の儀までにエスターが見つからなかったとしても、最悪の場合、そこまでは粘れる」

 流石に、それだけ時間があれば余裕で見つけられるだろう。
 ほっとしたのか気が緩む。

「エステル、私はヘンリーと同じ考えだ、お前が女になって嫁ぐのもありだと思ってる」

 いやいや、何言っちゃってんのさ?
 もっと全力でエスター探そ? 家族だよね!?

「エスターは……アレは多分1人で何処でも生きていけるし、問題ないだろう」

 いやいや、問題ありまくりでしょう!?
 エスターが見つからないと、物理的(肉体的)にエステルが死んじゃうんだよ?

「ここ3日でわかったが、見た目が同じなら、お前の方がエスターより常識あるし、女らしいし……ぶっちゃけ、お前のような娘が欲しかった」

 そこ! 兄貴も無言で頷くな!!
 くそっ、さっきから反論したいのに、後ろにいるメイドさんが怖くて体が言うことを聞いてくれない。
 あの、ババーー

「お嬢様」

「ひっ……」

 心を読まれたのか、思わず声が漏れる。

「お紅茶入れ直しますね」

 くっそ、ナニモンだよこの人、絶対カタギの人間じゃないだろ。
 何処で拾ってきたんだよ、うちの爺様は!

「大丈夫かい、エステル? 少し汗ばんでいるようだが……」

 父様のヒーリングボイスに気を持ち直す。
 こういう時、優しい声色の人はそれだけで得だよね。
 もしかしてこれが、吊り橋効果って奴か!?
 俺は父様のモテテクを垣間見えた気がした。

「だ、大丈夫です」

 俺は紅茶をグイッと飲んで、気合いを入れ直す。
 後ろで、あら、後で紅茶の飲み方も教えて差し上げなければいけないのかしら? なんて、不穏なワードが聞こえてきたが、きっと気のせいだろう。

「そうか、それでは、殿下の人となりについても少し説明しておこう」

 俺は皇太子殿下の事を何も知らない。
 何かしらの理由をつけて極力接触を回避しても、婚約すれば接触する機会は少なくないだろう
 その時のためにも、殿下がどういう性格をしているのかを知る事は重要だ。

「お前も知っての通り、殿下は成人を迎えられる今の今まで、特定の女性をお選びになられなかった」

 普通、貴族であれば婚約の儀が執り行える14歳を越えれば、18歳くらいまでには婚約者を発表する。
 しかし殿下は、リミットである20歳まで誰もお選びにならなかった。
 理由は明らかではないが、父親である皇帝陛下もおそらく切羽詰まっていたのだと思う。
 そういう事情もあって、トントン拍子でエスターに決まったんだろうなぁ。

「殿下は、その、何というか、とても自由奔放な……従来の考え方とは違う柔軟な発想をお持ちのお人だ」

 あ、嫌な予感がするぞー。

「何事も行動が早くてな、まぁ、よく言えば仕事が早いお方だ」

 あー、はいはい、覚えがありますよ、それ。
 思い立ったら直ぐに行動する奴、周りの迷惑だとか、準備とかそういうの一切考えないの。

「他人を引っ張っていく……そう、とてもリーダーシップのあるお方なのだ」

 それ、あれな、エスターな。
 エスターが居なくなったと思ったら、エスター2が出てくるとか悪夢か?
 もはや何を言っているのか、自分でも理解不能だ。

「まぁ、殿下についてはヘンリーの方が詳しいだろう、後で聞いておきなさい」

 チラリと兄貴の方を見ると、死んだような目をしていた。
 兄貴……公爵領に帰ってこなくても、苦労していたんだな。

「ここまでで、何か質問は?」

 与えられた情報を頭の中で精査していく。
 よく考えたら、これ、どっちも厄介者同士をくっつけただけじゃね?
 ていうか、この国大丈夫か?
 エスターとエスター2がトップとか、帝国1000年の歴史も簡単に終局しちゃうんじゃない?
 なんとかエスターを連れ戻しました、トップが自由すぎて国が終わりました、じゃどうしようもない。
 なんか、どんどん、自分の将来とこの国の行く末が不安になってきたぞ!

「エステル、やっぱり、お前が女になって……」

「却下!」

 皇太子殿下と結婚するのは御免被りたいが、帝国臣民としては由々しき事態だ。
 エスターが見つかっても、このままじゃ間違いなくやばい。
 ただ俺が結婚を回避するだけではダメだ。

「父様、兄様……結婚はこの際置いといて、エスターが見つかるまでの間、俺が、私が、殿下を教育してみせます」

 俺はどう足掻いても、エスターからは逃れられない運命なのだと悟る。
 それならば抗うしかない、その運命に!

「おぉ、そうか! エステル、立派になったな」

 子の成長を実感したのか、父様の目尻がキラリと光る。

「エステル……俺は出来た弟を持って嬉しいよ……!」

 兄貴は眼鏡を外し、目頭を抑えていた。
 俺の成長に感動する家族を見て、更に気持ちを高ぶらせる。
 しかし、その高ぶった感情は、乾いた拍手によって急速に冷やされた。

「さすがです、坊っちゃま……いいえ、お嬢様」

 俺はどうして、先ほどまで認識していた彼女の存在を忘れていたのだろうか。

「わたくし、とても感動いたしました」

 あれー? 嫌な予感がするぞー?

「将来の皇帝陛下の、いいえ! 栄えある帝国のためにも、あちらのお部屋で、みっちりとお勉強しましょう!!」

 ぐぇっ、首根っこを引きずられる。

「待ちなさい」

 父様!?
 まさか父様が引き止めてくれるとは思ってもいなかったので、感動で瞳が潤む。

「帝国の事情により、来週から婚約の儀が執り行われる日まで、エステルは皇宮に住まう事となった」

 ちょっと待って、そんな重要な情報、なんで今まで黙っていたの?

「皇宮に入れば、私やヘンリーも簡単に会えない、ただ1人で行くところを交渉して、お付きの侍女を1人だけなら伴って良いと許可を得た」

 まさか、このメイドさんじゃないよね?

「残された時間は短い、それまでに完璧に仕上げてくれ」

 逃げ出そうと手足をばたつかせるが、首元が余計に締まって苦しいだけだった。

「わかりました、公爵家に忠誠を誓った侍女として、エステル様を、いいえ、エスター様を、より完璧に仕上げてみせましょう」

 気合い入れるのはいいけど、力が入って首元が締まってるから!
 おっと失礼、じゃないですよ、もうちょっとでエステルはあの世だったよ!!

「頼んだぞ、エマ」

 あっ、この人、エマさんて言うんだ。
 ちょくちょくお屋敷では見かけていたのだが、どういうわけか、この人とは今の今まで深い関わり合いがなかったんだよね。

「それでは、あとはお任せください」

 その後、エマさんにたっぷりと指導された俺は、一般的な令嬢からより完璧な令嬢へと進化し皇宮へ送られる事となった。
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