裏腹少女

トランクス

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2.渇きと潤い

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「……うぐぐっ」

 布団から手を伸ばして時計に手をかける。ゾンビのようにベッドの上を這いずって。

「もう朝か…」

 アラームを止めると自身が置かれた状況を認識。カーテンの隙間から射し込む朝日を顔に浴びた。

「……ふぁ~あ」

 寝返りと共に口から大きな欠伸を放出。ついでに指先で頬を擦りながら。

 夢から覚めたハズなのに違和感が満載。まるで現実から引き離されたような感覚が意識の中に漂っていた。

「う~ん…」

 恐らく寝不足が原因なのだろう。学校からの帰宅後に睡魔に襲われたので1時間ほど仮眠。結果、夜になかなか寝付けず全身にダルさを付加させていた。

「よっ……と」

 このままでは二度寝してしまいそうなので重い体を起こす事に。腕を伸ばして窓からの光を遮断していたカーテンをスライドさせた。

「……眩しっ」

 ガラス越しに射し込んでくる光に目が眩んでしまう。しかし慣れるまでに要する時間は僅か数秒。ついでに窓を開けて部屋の空気を入れ替えた。

「う~、やだなぁ…」

 机と向かい合うとケータイを手に取り、届いていたメッセージを確認する。適当な内容を打ち込み送信。そのまま壁に近付きハンガーを掴んだ。夏仕様に変わったばかりの高校の制服を。

「はぁ…」

 朝の登校なんて億劫でしかない。眠いし面倒くさいしでデメリットの連続。

 それでもサボりろうとは思わなかった。親や教師に叱られる方が遥かに厄介だと理解していたから。

「ん?」

 冷たい衣類が良い眠気覚ましになる。着替え終わると部屋を出て廊下に移動。

「う、うわあぁあぁぁっ!!」

 そのまま階段までやって来るがアクシデントに見舞われた。足を踏み外して転落するという事故に。

「ぐえっ!?」

 背中に言いようのない痛みが走る。そしてトイレ横の壁に激突するまで地獄は続いた。

「……いったぁ」

 床に手を突きフラフラと立ち上がる。軽く足首を捻りはしたが幸いな事に怪我は無し。

 強打した腰を手で押さえながらもどうにかしてリビングへとやって来た。家族が集う場へと。

 そこにいたのは世間一般的に両親と呼ばれる生き物。椅子に座ってケータイを弄っている父親と、キッチンにいる母親に挨拶をした。

「お、おはよう」

「おう。凄い音したけど大丈夫か?」

「うちの階段、急すぎない? いつも滑り落ちちゃうんだけど」

「確かにな。やはり危険だからハシゴの方が良かったかもしれない」

「言ってる意味理解してる?」

 父親の向かいの席に座る。日常会話を交わしながら。

「仕事って忙しい?」

「あぁ。サボりたいぐらいだ」

「分かる分かる。学校や会社に通わなくて済む人生があったら楽そうだよね」

「いや、父さんはもう一度学生に戻って女の子にラブレターを出しまくりたいぞ」

「……何を言ってるの?」

 画面を激しく操作している父親が大笑い。見た目は真面目そうだが厳格という言葉からは程遠い性格をしていた。

「あぁ……眠たい」

 うちの両親は2人揃って医療関係の職に付いている。土日にも一部診療している珍しい病院。要領の悪い息子と違ってエリートだった。

 だけど順風満帆な家庭かと言われたらそうでもない。その原因は3年前に再婚した夫婦という関係性。しかも理由は不明だが親戚から猛反対された上での婚姻だった。

 2人とも宿直勤務したり、寮に泊まる事も多いから帰って来ない日も珍しくはない。自分が起きるより前に家を出て行く場合もある。なのでこうして朝から揃って食事をとる事は一般家庭の平均に比べて少なかった。

雅人まさと香織かおり起こしてきて」

「え?」

 テーブルにもたれかかっていると名前を呼ばれる。血の繋がっていない母親に。

「誰それ?」

「なに寝ぼけた事言ってんのよ。私の可愛い娘でアンタの愛しい愛しい妹でしょうが」

「そんな奴いたかな…」

「いいから早く。母さん、手が離せないんだから」

 その内容は再び二階に向かえという物。ここにはいないもう1人の家族を起こしに行けという命令だった。

「やだよ、そのうち起きて来るでしょ。それに腰が痛くて動きたくないし」

「あの子、目覚まし鳴っててもなかなか気付かないから。だからアンタが起こしに行ってきて」

「どうしていつもいつも…」

 文句を垂らしながら立ち上がる。今しがた歩いて来たばかりの廊下を目指して。

「あ~あ…」

 両親が再婚した際、もう1人だけ家族が増えた。1つ年下の女の子が。

 世間一般的に妹と呼ばれる生き物。ただし特に可愛くもなく、美人でもない顔の持ち主。おさげ髪で田舎にいる中学生のような風貌だった。

「たまには先に起きててもいいものなんだが…」

 階段を一段ずつ上がっていく。再び転落しないように注意しながら。

「おらおらっ、サッサと出てこんかい! 中に隠れてるのは分かってんだぞ!」

 そして部屋の前までやって来るとドアをノック。ドラマに出てくるヤクザを意識して呼びかけた。

「あ、違う。ここ自分の部屋だ」

 しかしすぐに勘違いに気付く。隣に移動して再度ドアをノックした。

「おらおらっ、サッサと出てこんかい! 中に隠れてるのは分かってんだぞ!」

 同じ作業を繰り返すのは辛い。眠気もあってか思考回路が停滞気味だった。

「やっぱり…」

 数秒待ってみるが物音一つしない。ドアノブを捻ると恐る恐る扉を開けて中へ。そこには首の筋肉だけを支えに壁に逆立ちしている女の子の姿があった。

「グガガガカッ!」

「……どうしたらこうなるんだ」

 寝相の悪さを露呈してしまっている。ヨダレとイビキを暴走させながらの睡眠。

「ほら、起きて。朝だよ」

「う、う~ん…」

「どんな体勢で寝てるのさ」

 すぐに彼女に近付いて体を揺さぶってみた。遠慮なく強引に。

「うりゃっ!」

「ぅあっ…」

「起きないと窒息するよ」

「……ふがっ、がっ」

 更に鼻をつまんで攻撃開始。豚を連想させる苦しそうな呼吸が聞こえてきた。

 けれどそれでもターゲットが目を覚ます気配は皆無。よほど深い眠りについているらしい。

「はぁ…」

 呆れるように溜め息をつく。脱力して床の上に正座した。

 彼女はいつもこう。朝起こしに来てくれる事も無いし、お弁当を作ってくれた事もない。

 共同生活を始めたばかりの頃、緊張と戸惑いで興奮した記憶はある。なのに驚くほど恋愛関係に発展する事は無かった。その原因はお互いの容姿や性格。

 物語にはある程度、登場人物の魅力やスキルが必要なのだろう。平々凡々な人間同士では特別な世界が生み出せないと知っただけの結果となった。

「よいしょっ……と」

 小さな体を抱きかかえる。ベッドまで運ぶとやや乱暴に投げた。

「先に行ってるよ」

 このままここにいても無駄な時間を過ごすだけ。一足先にリビングへと戻る事にした。

「うわあぁあぁぁっ!?」

 しかし途中でトラブルに見舞われる。二度目となる階段からの転落に。

「……いちち」

 強打した腰を手で押さえた。ただ日頃の行いが良いのか今回も怪我を負った様子は無し。

「あぁ~、目が覚める。サッパリするなぁ」

 リビングに戻って来ると椅子には座らず洗面所へ。冷たい水で顔を洗った。

「雅人、香織は?」

「うん? 逆立ちしてたよ」

「はぁ?」

 タオルで水滴を拭っていると母親が声をかけてくる。手に包丁を持ちながら。

「起こしてきてって言ったでしょ!」

「ごめん、無理だった」

「……あ?」

 更に続けて威圧的なオーラを放出。鬼のような形相で睨み付けてきた。

「う、うわあぁあぁぁっ!!」

「ん?」

 再びミッションに向かおうと考えていると階段の方から声が聞こえてくる。激しい轟音に混じった甲高い悲鳴が。

「……くくく、朝っぱらから深刻なダメージを負ってしまったようだ」

 どうやら二階の住人が同じ過ちを繰り返してしまったらしい。パジャマ姿で鼻血を垂らした女の子が姿を現した。

「お、おはよ」

「大丈夫? 早く顔洗ってらっしゃい」

「ねぇ。うちの階段、急すぎない?」

「そんな訳ないでしょ。普通よ、普通」

「う~ん、絶対おかしいと思うんだけどなぁ…」

 母と娘が言葉を交わし始める。実の親子らしく親しげに。

「おはよぉ」

「はよ」

「さっきさ、私の部屋に来て何かしなかった?」

「パンツずり下ろしてやった」

「やっぱり! 何かおかしいと思ってたんだよね、このスケベ!」

「……鼻をつまんだだけだってば」

 続けてこちらにも接近。ジョークを挟んだ挨拶を済ませた。

「いただきま~す」

 それから家族4人でテーブルを囲んで食事を開始。サラダや目玉焼きを次々に口の中に放り込んでいった。

「香織。アンタ、ちゃんと宿題やった?」

「あはは。やるわけないじゃん、私が」

「前からやりなさいって言ってるでしょ! 楽をしてたらその分だけ後で自分が苦労するのよ?」

「う~ん……だってまーくんが夜に部屋に来て変な事しようって誘ってくるから」

「人のせいにしないでくれ。ていうか嘘をつかないでくれ」

 他愛ない話題で大盛り上がり。義理の家族だがお互いの間に壁は無い。

「そういえばアンタ達に大事な話があるんだけど」

「え? 何?」

「ん~と、説明するの面倒だから帰ってからにするわ」

「なんじゃ、そりゃ」

 母親が意味深な台詞を投下。返事を待つが肝心の内容は濁されてしまった。

 全て食べ終えるとそれぞれ身支度を開始。鍵を閉めて全員で自宅を出発した。

「急いで。遅刻しちゃう」

「ハァ、ハァ……腰が痛い」

「同じく」

 妹と2人して駅を目指して走る。両親は揃って車出勤なのでスタート地点から別行動。いつも登校は切羽詰まったレースに近い。寝坊助のせいで時間に余裕を持てなかった。

「ふぅ……どうにか間に合ったぁ」

「私の日頃の行いのおかげだね」

「いや、誰かさんがいなければもう一本早いヤツに乗れるんだが」

「またまたぁ。女の子と一緒に通学出来て嬉しいクセに」

「今まで何人の男子に告られた事ある?」

「一度だって無いよ! 悪かったね!!」

 駅へと到着すると足を止めずに改札をくぐる。タイミングよく車両が停車していたので慌てて乗車。通勤ラッシュなので人は多い。席に座るどころか立っている事さえ困難な混雑具合だった。

「ねぇ、今日の私どう?」

「何が?」

「可愛い?」

「いつも通りだけど」

「ならいつもはどう思ってくれてるの?」

「なんとも思ってないよ」

「じゃあ可愛いって事だね」

「思考回路どうなってるの?」

 2人してドア付近を陣取る。普段はもう1名加えての3人登校なのだが今日はいない。どうやら先に行ってしまったらしい。

「ぐぐっ…」

 満員電車の中で望んでもいない押しくらまんじゅうを展開。息苦しい状態のまま数十分の時間を費して目的の駅へと到着した。

「授業中に居眠りしないように気を付けなよ」

「まーくんこそ暴れたりタバコ吸ったりしたらダメだからね」

「香織こそお漏らししたりしたらダメだよ」

「ならまーくんは…」

「この争い、不毛だからやめない?」

 外へと飛び出すと駅から近い校門をダッシュでくぐる。無駄なやり取りを繰り広げながら。

「お~い、雅人」

「ん?」

 昇降口付近までやって来た後は妹と解散。入れ違いに何者かが名前を呼びながら近付いて来た。

「え? 君、誰?」

「ふざけんなっ! 俺だよ、俺!」

 振り返った先にボサボサ頭の男子生徒を見つける。中学時代から付き合いのある友人だった。

「おはよ、颯太そうた。今朝も自転車とばしまくったみたいだね」

「おう、まぁな。ところで雅人も今来たのか?」

「そうだよ。家出るのが遅れちゃってさ」

「あぁ、俺もだ。強烈な金縛りのせいで寝坊したから全力でペダル漕いできたわ」

「凄いね。もう高校入ってから80回ぐらい金縛りにあってるじゃん」

 彼は先生に遅刻の理由を聞かれると毎回『金縛りにあった』と返答。そのせいでクラスでのアダ名が悪霊マンになった事がある。もちろん一連の発言内容は全てジョーク。金縛りはただの言い訳だった。

「そういえば英語の宿題やってきた?」

「ちゃんとやってきたよ。辞典で調べながらだから時間かかったけど」

「あ、なら後で写させてくれよ」

「また?」

 友人が重ねた両手をこちらに向けてくる。悪びれる様子の無い態度で。

「な? 良いだろ?」

「ダメだよ。宿題なんだから自力でやりなって」

「お前、俺が先生に叱られてもいいって言うのか。親友の俺が困ってるというのに見捨てようっていうのか、えぇ!?」

「なら昨日は宿題やらないで何やってたのさ」

「エロゲやってた。家庭教師のお姉さんとイチャイチャしてた」

「イチャイチャしてないで勉強教えてもらいなよ」

 彼はあまり成績がいい方ではない。ついでに素行も。ただ気が合うのでいつも共に過ごしていた。事情により通学は別だがクラスは同じなので。

「あ~あ、今日もまた退屈な1日の始まりか」

「目新しいイベントでも起きてほしいよね」

「エロい転校生が来たり、エロい教育実習生が来たり、エロい悪霊に取り憑かれたりな」

「え? 金縛りって本当の話なの?」

 教室に着くとほぼ全員のクラスメートの姿が目に入ってくる。どうやら自分達2人が最後の登校者だった様子。

「うおりゃあっ!! お前ら席に着け、うおりゃあっ!!」

 更にやかましい掛け声と共に担任が教室に入って来た。鞄を机に置くのとほぼ同じタイミングで。本当にギリギリで辿り着く事が出来たらしい。

「ちっ、もう来やがった」

 教師の登場にクラスメート達が一斉に自分の席へと散っていく。そのままホームルームへと突入した。

「ふぅ…」

 学校はあまり好きではない。友人の存在以外に何一つ楽しみが無いから。好きと問われて肯定する人間の方が多いかは疑問だが。

「うおりゃあっ!! 英語の授業始めるぞ、うおりゃあっ!!」

 ホームルーム後は授業が始まる。1時限目は大嫌いな英語。先生の訳が分からない掛け声と共にスタートした。

「ふあぁ…」

 寝不足だったので座っているのが辛い。欠伸が止まらない。

「……ん~」

 気分転換に窓の外に広がる景色を眺める。宇宙の暗さを感じさせない水色の世界を。

 頑張れば浮かんでいる雲に乗れるだろうか。いつも幼稚な現実逃避ばかりを繰り返していた。

「うおりゃあっ!! 数学の授業始めるぞ、うおりゃあっ!!」

 2時限目は数学。苦手な科目。その後も実験が楽しい理科や体を動かすのが楽しい体育をこなし、いつも通りに1日の授業が終わった。

「うおりゃあっ!! じゃあお前らまた明日な、うおりゃあっ!!」

 担任が訳の分からない掛け声と共に退散する。帰りのホームルームが終わり自由時間へと突入した。

「居残り……だよね?」

「……あぁ、無念だぜ」

 教科書やノートを鞄に仕舞って席を立つ。そのまま最後尾の机に近付くとグッタリと項垂れている友人の姿を発見。

「くそぅ、生徒の貴重な放課後を奪いやがって」

「颯太が宿題やってこないからじゃないか。自業自得だよ」

「せっかくミサキちゃんとイチャイチャ出来るかと胸ワクワクさせて喜んでいたのに…」

「え? 彼女作ったの?」

「家にいる子だけどな」

「エロゲのキャラ? もしくは悪霊の方かな」

 彼はいつもこんな感じ。酷いサボり癖のせいで一緒に遊べない事が多々あった。

「ならまた明日ね」

「うおぉおぉおっ、Yeeeeeeeeeeahっ!!」

「本当にお祓いしてもらった方が良いのかもしれない…」

 名残惜しいが別れる事に。奇声を発する友人を背に単独で教室を出発した。


「……綺麗だなぁ」

 電車に乗ると席には座らずドア付近に立つ。日々の日課になりつつある景色の観賞目的で。やや曇りがかっていたが鮮やかな夕焼け空が広がっていた。

「ん…」

 対話相手がいないと考え事ばかりしてしまう。その大半がネガティブな内容。友達が少ない事が原因でいつも孤独な帰り道に。上手く周りに馴染めない消極的な性格を少しだけ忌み嫌った。

「どうしてるかな…」

 住宅街や川を眺めていると条件反射のように昨日の出来事が脳裏をよぎる。女性と共に泣いている小学生を助けたイベントが。

「そう都合良くはいかないか…」

 辺りを見回してみたがそれらしき姿は見受けられない。例の女の子は車内のどこにも存在していなかった。

「可愛かったなぁ…」

 周りにはあまりいないタイプの異性。同級生にも先輩後輩にも。一度会っただけなのにその顔が鮮明に思い出せる。それ程までに昨日の女性は印象的で容姿が優れていた。

「よっと」

 電車を降りた後は改札をくぐる。パスケースに入った定期を使って。駅前にあったタクシー乗り場やパン屋を通過すると住宅街に突入。登校時とは少しルートをズラして歩いた。

「ふぅ…」

 途中、遊具等が並べられた公園に立ち寄る。設置されたベンチに鞄を置くと倒れ込むように着席。

 たまにこうして寄り道をしていた。鬱な気分を紛らわせる為に。

「あ~あ…」

 辺りを見回していると視線の先に自分以外の利用者を発見。滑り台を拠点に小学生の集団が駆け回っていた。

「あの頃に戻れたらなぁ…」

 そうすれば人生をやり直せる。今の情けない物とは違うまともな内容に。発想は常に懐古主義でモラトリアムをこじらせた形。典型的なネガティブ人間の思考回路だった。

「ほっ」

 自虐的な気分に浸った後は端末を頭上に掲げる。画面をカメラモードに切り替えて。

 空の一部に浮かぶ不自然な物体に注目。雲の隙間を縫って大きな旅客機が飛んでいた。

「どうやってあんな鉄の塊を飛ばしてるんだろう…」

 不思議でならない。原理を説明される前も後も。

「あれ?」

 立ち上がって撮影位置を変えていると足元に違和感を覚える。靴の先端に何かが衝突した事で。

「……ハサミ?」

 それはこの場に相応しくない落とし物。物を切り刻む時に使う文房具だった。

「こんな所に捨てていかなくても…」

 拾って確認してみたがサイズが小さい。しかも刃と持ち手部分が共に存在しているのが片側だけ。恐らく使い物にならなくなったから誰かが投棄していったのだろう。とんだ迷惑行為だった。

「ん~…」

 かつてハサミとカッターの差について真剣に悩んだ過去がある。折り紙を切り分ける時にどちらを使用するかを尋ねられた事がキッカケで。

 片方は刃を出すだけなのに、もう片方は挟む作業を加えなくてはならない。その違いが子供ながらにミステリアスだった。


「ただいま」

 気分転換した後は重い腰を上げて再び帰路に就く。のんびりペースで自宅に到着した。

「ん?」

 玄関を開けると中へ入る。そこで見覚えのない女性用の靴を発見した。

「母さんのかな…」

 ひょっとしたら新しい物を購入したのかもしれない。もしくは香織が友達を連れて来ているか。

 憶測を巡らせるが本人の履き物が見当たらない。大して気にも止めずに奥へと進んだ。

「んむっ、んむっ…」

 リビングへとやって来ると鞄をテーブルの上に置く。冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出して豪快に一気飲み。

「ふぅ…」

 水分補給した後は静まり返った家の中を見回した。テレビも冷房もついていない室内を。

 どこかに誰かが隠れているのではないか。そう思えるような奇妙な不気味さが所々に漂っていた。

「……ん」

 その光景がキッカケで昔の記憶を思い出してしまう。まだ今の家族と暮らす前の意識を。

 学校から帰って来ても誰もいない家。物音一つしない部屋。寂しくなかったといえば嘘だった。けど慣れてしまえばそれらは日常でしかない。

 首から紐でブラ下げた鍵で玄関を開ける作業。1人で食べる夕食も1人で見るテレビも。小学生の時の自分には当たり前の生活だった。

 唯一の家族だった父親が育児放棄をしていた訳じゃない。単純に多忙だっただけ。

 そして両親が再婚してから改めて思い返すと怖くなる。もし父親と何かしらの事情で死別していたとしたら、1人取り残された息子は一体どうやって生きていけば良かったのかと。


「昔みたいにアニメの再放送とかやってくれないかなぁ…」

 リビングにあるテレビをつけてみたがワイドショーやドラマの再放送ばかり。面白そうな番組がやってなかったのですぐに電源を切った。

「あ~あ…」

 バイトも部活動もしていないので放課後は基本的に暇。香織は友達とどこかに寄り道しているのだろう。両親はまだしばらく帰ってこない。

 やる事もないので自室へと移る事に。廊下へと移動して階段に足をかけた。

「あ、そうだ」

 数段上がった所で引き返す。催した自然現象を解消しようと。

 うちは広い家の割にトイレが一階にしか設置されていない。その為、深夜でもわざわざ階段を下りてくる必要があった。

「二階にもトイレがあったらなぁ…」

 ドアノブに手をかけながら独り言を呟く。誰にも聞いてもらえないささやかな愚痴を。

「……は?」

「え…」

 しかしドアを開けた瞬間に全身が硬直。その原因は同年代と思しき女性の先客だった。

「な、ななな…」

 無意識に女の子と視線がかち合う。彼女は便座に座り、凍りついたような表情でこちらを見ていた。その場に相応しく下着を下ろした状態で。

「う、うわぁーーっ!?」

「きゃあぁああぁぁっ!!」

 直後に悲鳴が発生。単独ではなく2人分の絶叫が。

「ど、泥棒っ!」

「へ? え?」

「君、どっから入ったんだ! 人様の家に堂々と侵入して」

「あの、違うんです! 私…」

 すぐにこの状況の真意を問いただす。動揺と葛藤しながらも。

 女性は慌てた様子で下着を装着。同時に反対側の手をブンブンと振ってきた。

「そ、そうだ。警察呼ばないと…」

 ポケットからケータイを取り出す。国の頼もしい組織に連絡する為に。子供の頃から頭に擦り込まれてきた番号を即座にプッシュした。

「わーーっ!! 待ってください」

「ちょ……何するんだ!」

「話を聞いてください。私、泥棒じゃないんです!」

「いやいや、そんな馬鹿な」

 だが電話をかける前に彼女が妨害してくる。目前まで接近してきて。

 自宅の中に見知らぬ人物が存在。考えられる可能性は1つしかなかった。

「きゃっ!?」

「あっ…」

 仕方ないので無理やり突き放す事に。端末を持っていない方の手を伸ばしたのだがそこで予期せぬアクシデントが発生。

「ご、ごめんなさい…」

「……うぅうっ」

 指先が衣類の中に吸収される。ダイレクトに女性の胸を触ってしまっていた。

「ひ、酷い…」

「いや、ワザとじゃないんだから仕方ないじゃないか。というか悪いのは君の方だし」

「……ぐすっ」

 すぐに謝罪の言葉を口にする。鼻をすする行動を目の前に。一瞬、怯みはしたすぐに考えを改めた。場をごまかす為の芝居なんだと。

「うっ、うぅっ…」

「ちょ…」

「うあぁぁ、あうっ…」

 直後に彼女の瞳からポロポロと涙がこぼれ出す。苦しそうな嗚咽と共に。

「ご、ごめんってば」

「んぐっ……はぁっ、はぁっ」

「本当にワザとじゃないんだよ。不可抗力」

 どれだけ声をかけようとも泣き止む気配を見せない。気が付けば通報しようとしていた意識はどこかへと消え失せていた。

「私、本当に泥棒じゃないのに…」

「え?」

「ただおばさんに鍵を渡されて、んっ……先に帰ってろって言われただけなのに」

「おばさん?」

「なのに……何で何で」

 肩に触れようとした瞬間、小さな囁きが耳に入ってくる。言い訳のような台詞が。

 下から顔を覗き込むが驚いてしまった。記憶違いでなければ目の前にいるのは昨日、電車の中で遭遇した女性だったからだ。

「くそっ…」

「……え?」

「オラァッ!!」

「うがっ!?」

 戸惑っていると下半身に衝撃が走る。かつてない程の違和感と痛みが。

「あががが…」

 思わず床に倒れてしまった。額を床に接着させる形で。

「……うぁ、えぐっ」

「し、死ぬ…」

「お母さぁ~ん…」

「うぅ…」

 助けを乞うが意識してもらえず。股間に蹴りを入れてきた犯人は涙を流してばかり。

 逃げるのかと思えば彼女はその場に棒立ち。それはまるで昨日、電車の中で泣いていた小学生のような仕草だった。
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