悠久のクシナダヒメ 「日本最古の異世界物語」 第三部

Hiroko

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9 新しい命 失われる命

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 それはか細く、風が木々の隙間を通り抜けるほどの泣き声だった。
 障子が開けられ、芹那が顔を出すと、まだ緊張の抜けきらぬ顔をしながら小声で「産まれたわよ、女の子」と言い、お湯の入った桶を部屋の中に入れた。
 僕たちは魂を抜かれたかのように動きを失ったまま、細く開けられた障子から部屋の様子を窺った。
 豊玉姫の手の中で、小さなちいさな赤子が泣き声を上げていた。そっと桶の中の湯に浸けられると、安心したのか泣き声はやんだ。
「なにをしているのです、あなたたち。中に入って、ヤエ殿の近くにいてやらぬか」と豊玉姫が僕たちに言った。そこでやっと僕たちは自分を取り戻したかのように動き始めた。
 僕は正人を支えながら中に入ると、ヤエさんのそばに正人を座らせた。
「ヤエ、ヤエ、よくやった」そう言って正人はヤエさんをひしと抱きしめると、力の入らぬヤエさんの体を支え、二人で赤子の様子を見守った。
 豊玉姫は湯で赤子の羊水を軽く流すと、麻の葉模様の布にくるみ、ヤエさんの腕の中にその子を入れた。
「赤子は寒さに弱い。そなたの肌で、しっかり温めてやるのじゃ」豊玉姫にそう言われ、ヤエさんは壊れそうなほどにか細い赤子の体を優しく包むように抱いた。
 薄く開けた瞼の中で、黒く潤んだ瞳が何かを探すように動いた。ついさっきまで羊水に浸かっていた体はまだふやけ、手足の太さは大人の親指ほどしかない。
「こ、これが、私の子……」
「ああ、そうだ。ヤエ、よく頑張ったな」
「おめでとう、ヤエさん」芹那が微笑み、言った。
「おめでとう」
「よく頑張りました」
「おめでとう」
「こんな、こんな小さく、赤子とは、こんなに小さく生まれてくるものなのか」
「そうでございます。ここにいる者たちも皆、いや、人はすべて、最初はそのような小さな体に命を宿して生まれてくるのでございます」
「私は……、私は……」ヤエさんは言葉を詰まらせながら、一筋の涙を頬に流した。
「私はずっと、数え切れぬほど人の死を見続けてきた。そのたびに、自分の中でも少しずつ何かが死んでいくのを感じた。そしてもはや、人の死に何も感じなくなった時、私は人の心を失ったと思っていた。けれど……」
「けれど?」芹那も疲れは隠せないようだが、清々しい顔をしていた。
「今また、どうしたことか、胸の中から何かが込み上げてくる……」
「そなた、数え切れぬほどの人の死を見たと言ったが、命の生まれるところを見たのは初めてか?」
「ああ、記憶にない」
「そなたがこれまでどのような道をたどって生きてきたかは知らぬが、しかとその目に、その胸に焼き付けるが良い。それがそなたの戦いの末に、どこかで守られてきた幸せであることを」
「私は……、私の戦いは、死にゆく者の弔いだけではなかったと言うのか。正人殿、そなたもそう思うか?」
「ああ。お前の背中のその傷の数だけ、お前はこの世に幸せを残したんだ。誇りを持て。自分の受けた傷に、そしてこの子の命に」
「涙が……、とまらぬ……」
「それでいいんだ」
「愛おしい……。これほどまでに命を愛おしいと感じたことはない……」そう言ってヤエさんは涙に顔を崩した。
「さ、少し二人きりにしてあげましょう」芹那がそう言って立ち上がった。
「三人きりににね」佐藤が言った。
「そうね」
 そう言って僕たちは、ヤエさんと正人、そして新しい命を部屋に残し、神社の外へ出た。

 西の空はまだ明るかったが、太陽は山の向こうへ消えていた。
 あと、ヤエさんに残された時間はどれだけだろう……。そのことを考えながらも、口に出す者は誰もいなかった。部屋の中で優しく微笑んでいた芹那でさえも、外に出て西の空を見た途端、悲しさを抑えきれずに涙を流した。
「セミのお方、そなたはどうやら、戦うことを選んだようですね」
「うん。まだ、何も終わっていないからね」僕は芹那と目を合わせ、言った。
「ヤエさんが残していく人々の幸せを、私たちが守って行かなくちゃいけないの」芹那が言った。
「それは君たちだけの役割じゃないよ。僕たち神々はみんな、そのために世界を創り、見守ってきた」佐藤が言った。
「天逆毎と戦うのであろう? どうするおつもりじゃ? 奴は強さだけで勝てる相手ではありますまい」
「うん、知ってるよ。一度戦ってるからね。僕にもわからないんだ。でも、何も思いつかないわけじゃない。その答えがきっと、僕が探し求めているある女の子にあると思うんだ」
「そうですか。希望はあるのですね」
「うん」
「あの赤子はどうするのです? ヤエ殿が亡きあと、あの男に育てられるとも思いませぬが」
「鈴鹿御前を知ってるかい? 正人はその人に預けると言っていたけど……」
「ええ、存じております。鈴鹿山に住む……、確か大嶽丸と言う鬼を退治し、今は娘と暮らして居ると聞いておりますが」
「そう、その人だよ」
「どのようにして大嶽丸もの鬼を倒したかは知りませぬが、勇敢で心優しい女であると言うのは存じております」
「うん。そうだね、ヤエさんに負けぬほど、勇敢で心優しい人だよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」そう言って豊玉姫は、袖の中から小さな巾着袋を出し、「これをお持ちください」と言って芹那に渡した。
「これは?」そう聞きながら芹那が袋を開けると、中には大きな真珠のような白い飴玉がいくつも入っていた。
「近江(あふみ)の海に住む龍神の目から取ったものでございます。もし赤子が腹をすかして泣いた時には、これを舐めさせてやってください。乳の代わりになりましょうぞ」
「それならヤエさんに直接……」と言って芹那は口をつぐんだ。これを渡す意味を考えれば、ヤエさんに直接渡せるはずなんかない。
「では、私はこれで帰りましょう」
「え、帰っちゃうの?」
「はい。人の世には悲しみが絶えぬゆえ、他にも私を待つ者がいます。ですが近々……、いえ、そなたたちが天逆毎を倒し、再びこの地に戻ることがありますれば、再開する機会もありましょうぞ」
「いろいろありがとう、豊玉姫」芹那は豊玉姫の手を取りそう言うと、笑いながらも寂し気な顔をした。
「困ったことがあれば、またいつでもお力になります。そなたもお達者で、セミのお方」
「うん。ありがとう、豊玉姫」
「海まで送るよ」佐藤君はそう言って豊玉姫と並んで歩き出し、僕と芹那はその背中を見送った。
「日が落ちるのが早くなったわね」芹那にそう言われて初めて、僕はもう夏が過ぎ去っていることに気が付いた。
 辺りはもうすでに暗く、東の空にはすでにせっかちな星が輝いている。
「礼を言いそこなっちまったな」振り返ると、正人が赤子を抱いて外に出てきたところだった。
「正人……」
「ヤエさんは……、まさか」
「ああ、いま行っちまったよ」
 僕はその時初めて、正人の目から涙がこぼれ落ちるのを見た。



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