フレンチ Doll of the 明治 era

Hiroko

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「人は自分で判断して生きていくものよ。意識はそのためにある」ソフィはそう言った。
「意識は判断するためにあるの?」
「ええ、そうよ。何も判断する必要が無いのならば、眠りの中に生きて行けばいい。人が個々に何かを決めて、自分の道を歩いていく。それは意識があるから」
私は今、何か一つでも自分の判断に従って生きているのだろうか。リナはそんなことを考えた。
「それならば、この部屋を出ると言うのも、一つの判断ね」
「ええ、そうなるわ」
「ターシャは、部屋を出ては生きていけないと言う」
「そうかも知れない」
「死と言うのは、怖いことなのかしら」
「それは生きることが正しいと言う考えを前提にした理屈よ」
「どういうこと?」
「生きるためにどういう判断をするかの道しるべになるのが不安や恐怖、安らぎや喜び、怒りや悲しみ、そんな心の動きなのよ。人は恐怖や不安を感じることを避ける。例えば獰猛な動物や高い崖やなんかに。そこに命を脅かすものを感じるからよ。逆に安らぎや喜びのある方に向かう。美味しい食べ物や、愛する人。それは自分の命や、新しい命の存続につながるから。けれど時に、それが入れ替わることもある」
「どういう事?」
「生きることが不安や恐怖となり、死ぬことが安らぎや喜びとなることもある」
「わからないわ」
「苦しみや絶望の中に生きている人は、時にそうなるものなの」
私はいま、何かを感じて生きているだろうか? とリナは自問した。
今の私に不安は恐怖はある? いいえ、ないわ。
今の私に安らぎや喜びはある? いいえ、ないわ。
「私はいま、生きているのに何も感じないわ」リナは独り言のようにそう言った。
ソフィはそれに何も答えなかった。
「『生きる』ことと『死ぬ』ことは、いったい何が違うのかしら?」
「大した違いはないわ。ただ、自分としての個を認識できるかどうかだけ」
「死ぬと、自分と言うものを認識できなくなるだけ?」
「ええ、そうよ。そしてもう、何も感じなくなる」
「それはどうして?」
「生きるために何かを判断する必要が無くなるからよ」

アンドロイドはおよそ三年に一度、血液を入れ替える必要があった。
アンドロイドの身体に流れる血液は、実際の人間の血液のクローンで、赤血球、白血球、血小板の細胞成分はその成分ごとに減少すれば補給することができたが、やがて血漿(血液の液体部分)の中に溜まってくる老廃物の除去や、劣化し働きを失って浮遊する細胞成分の除去は、アンドロイド自身の持つ濾過機能では不十分なところがあり、定期的に血液を完全に入れ替える必要があった。
「リナ、間もなく私は一晩、血液のクリーニングのために家を出なければいけません。次の日の昼までには帰りますが、それまでは独りで過ごすことになります」とターシャは言った。
「それはいつなの?」
「三日後の夜、リナに夕食を準備してすぐに出かけます」
「わかったわ。心配しないで。ソフィもいるわ」
「ソフィは朝食を作ってはくれません」
「ええ、そうね。けれどターシャが戻ってきて昼食を作ってくれるのを待つ間、空腹を忘れさせてくれることはできるわ」
ターシャはリナの言ったことの意味を理解するため、リナの顔を見つめたまま少し考えなければならなかった。「リナ、あなたは少し、複雑なものの考え方ができるようになりましたね」
「複雑なものの考え方?」
「ええ。ユーモアのセンスです」
「ユーモアの……」
「センスです」
リナには今の会話のどこに面白みがあるのか今一つわからなかったが、きっとアンドロイドには受けの良い話し方だったのだろうと解釈した。

「ソフィ、三日後の夜、部屋を出ることができるかも知れない」
「ターシャがいなくなった隙に外に出るのね」
「ええ、そうよ。けれどそうしたら……」
「そうしたら?」
「もうこの部屋には戻れない」
「不安を感じる?」
「わからないわ。そもそも私は、不安と言う感情がどのようなものなのか知らない」
「不安だけではなく、恐怖も安らぎも……」
「ええ、そうよ。他にも、喜びも悲しみも知らないわ」
「愛することも」
「ええそうね、知らないわ」



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