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11 亡霊の記憶

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足元に人の気配がした。
僕の足を今でもしっかりつかんでいる。
暗くて姿は見えない。
恐ろしさのあまり声を出すこともできなかった。
そしてそいつはゆっくり、寝そべった僕の体を上に上がってきた。
足首から太もも、脇腹、胸へと、そいつの手が押さえつけてくる。
そして目の前にいる。
ぬっと、そいつの顔の輪郭が見えた。
昼間見た女の子だった。
「う、うわっ」と僕はやっとの思いで小さく悲鳴を上げたが、スサノオを起こすほどの声は出せなかった。
「ねえ、おにいちゃん」女の子は言った。「何してるの?」
「な、なにって……」
「鬼退治行かないの?」
「お、鬼はもう……」
「鬼退治行かないの?」
僕はどう答えればいいのかわからなかった。
「鬼退治、ねえ、鬼退治行こう、ねえ、おにいちゃん」女の子はそう言って僕の胸を押さえつけた。その力はすさまじく、とても幼い女の子が上から押さえつけているようには思えなかった。まるで家ほどの大きな岩が僕の胸にのしかかっているようだった。
胸が重くて息ができない。
このまま胸の骨が折れて潰されてしまう。
「ねえ、おにいちゃん。鬼退治行こう。鬼退治行こうよう、ねえおにいちゃん」
「わかった……、わかった、行くよ……」僕は潰されそうになる肺から無理やり息を吐き出しそう言った。と、その途端に胸を押し付ける女の子の手から力が抜けた。僕は「くはぁっ!」と言って横向きになり、咳き込みながら大きく何度も息を吸い込んだ。
「おにいちゃん、早く!」女の子はそう言うと僕の腕を持ち、半ば引きずるように立たせ、家の外へと連れ出した。
外は思いのほか明るかった。
空を見上げると、大きな月が昇っていた。
亡霊の行進はまだ続いていた。
なぜだか僕は、もうその光景を見ても怖いとは思わなかった。
いま、何時頃だろう。
この世界に来てから時計を見る習慣がなくなった。
スマホもバッテリーの減りを気にして電源を切ったままだ。
「おにいちゃん、こっちこっち!」女の子はそう言うと僕の手を繋ぎ、亡霊の行進を横切り、村の反対側へと手を引こうとした。亡霊の一人が僕の体をすり抜けた瞬間、肺の中に何とも言えないひんやりとした空気が流れ込んできた。僕は亡霊を体の中に吸い込んだような気分になって吐き気がして立ち止まった。頭がくらくらした。体が軽くなり、宙を浮いているような感じだった。視界がぼやけて焦点が合わない。なんだ……、どうしちゃったんだ僕……。不意に目の前が明るくなった。どこ、ここ……? そこは女の子に手を引かれていた夜の村なんかではなく、多くの明かりの灯された屋敷の中だった。あれ、なんだこれ? 僕は何かに興奮していた。いや、これは僕なんかではなく、誰かの目を通して何かを見て、誰かの頭を通して何かを考えている。この身体も……、僕のものじゃない。誰かの体の中から僕は何かを見ていた。
 屋敷の外で人の叫び声が聞こえた。「こっちだ! こっちにいるぞ!」その声に引き寄せられるように僕も屋敷の外に出る。息が荒い。家敷中を走り回った。けれど息が荒いのはそのせいじゃない。ついに化け物が出た。その興奮で鼓動が高まり、息が上がっているのだ。けれどそれはまずい。僕は一瞬、邪念を追い出すように静かに息を吐き出し、呼吸を整えた。いた。いたぞ……。そいつは真っ黒な毛皮に覆われていた。クマのように見えるが、すばしっこく、オオカミのように牙をむいて襲い掛かってくる。月に一度屋敷に現れ、人を襲い、食い散らかして夜の闇に戻っていく。
僕は鏃(やじり)を舐めた。これは一矢必殺を願う時の僕の癖だ。鏃が獲物の肉を引き裂く感触を舌の上に思い描く。息を吸い込み、弓を引いた。鍛え抜かれた背筋がみしみしと肩甲骨を引き寄せるのを感じる。重い弓がいとも簡単に弾力を貯め込み曲がっていく。長さが二メートルほどもある大きな弓だ。矢の向かう先を見定め、指を離す。矢は空気を引き裂くように真っすぐ飛んだ。手応えありだ。何かが叫び声をあげた。矢が当たったのだ。人の声ではない。そしてさらにそいつは夜空に届くほどの咆哮を上げた。視界を歪ますほどの残響が辺りにこだまする。
やった、やったぞ、打ち取った!
その歓喜に油断した。
化け物がこちらを向いた。
まずい、来る!
僕はもう一度矢を取り、弓を引いた。今度は鏃を舐めている暇はなかった。呼吸も乱れている。次は当たらないかも知れない。その雑念が手元を狂わせた。化け物との距離は八間ほどあったが、化け物はひらりと宙を舞うように目の前に迫った。眼は光を放つように銀色に鋭く、口元は血に染まってか赤くぬらぬらと濡れていた。弓を十分に引くことすらできなかった。狙いを外した矢は力なく空に弧を描いた。喉元に噛みついた化け物の牙は熱かった。赤く焼けた鉄をねじ込まれているようだった。意識を失う寸前、首の骨が砕かれる音を聞いた。
「ねえ、はやく! こっちこっち!」女の子は僕を無理やり亡霊から引き離すように手を引っ張った。
い、今の……。僕は体に力が入らず、へなへなとその場に崩れ落ちた。
「ねえ、どうしたの?」女の子は心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
僕は何も言えず亡霊の行進を振り返った。
何事もなかったかのように、亡霊たちは行進を続けていた。
い、今の……。
首に鈍い痛みを感じた。
体が重い。
今のって、もしかして僕がすれ違った亡霊の記憶かなんかなのだろうか。
「ねえおにいちゃん! はやく行こ! こっちだよこっち!」
女の子はなおも僕の手を引いた。
「ちょ、ちょっと……」僕は女の子の手を振り払う力さえ残っていなかった。
それよりも、女の子はその気になれば僕を引きずってでも行けそうなくらい力が強かった。
「わかった。わかったよ」僕はなんとか立ち上がり、半ば女の子に助けられるような形で歩き出した。
「ほら、こっちだよ、おにいちゃん。はやくはやく!」そう言いながら、女の子は僕を村の外れの森の方に連れて行った。






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