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16 眠り

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木漏れ日の中、ふと目がさめた。
魚を焼いていた焚き火は細い煙を上げて消えかけていた。
僕はぼんやりその煙の行方を眺めていた。
青い空が見える。
太陽がどの位置にあるのかはわからない。
ただ、あと数時間で日暮れだろうと言うことは感じた。
もう眠くはなかったので体を起こした。
横を見ると、スサノオはまだ寝息を立てていた。
あれ? と僕は思った。
まだ寝ぼけているのだろうか……。
スサノオが透けて見えた。
焚き火を挟んで向こう側に寝ているので、見えにくいだけなのかも知れない。
けれど……、スサノオの体が光の輪郭でできた幻のように見える。
キノコが胞子を飛ばすように、スサノオの体から無数の光の粒のようなものがふわふわと浮かび上がっているのも見える。
僕は目をこすった。
「スサノオ?」
スサノオは起きない。
「ねえ、スサノオ?」少し声を大きくして呼び掛けた。
「ん……、んんんーーー」と言ってスサノオは伸びをした。
「ねえ、スサノオ、大丈夫?」
「ん、ん? なんだ、どうした? 和也」そう言って眠たげな顔でスサノオは目を開けて僕を見た。
「そ、その体……」と僕は言おうとしてやめた。スサノオの体が元に戻っていたからだ。
もう透けてもいないし光の胞子を放ってもいなかった。
「どうしたんだい」
「いや、その、なんでもないよ……」
「寝ぼけてんのか?」そう言ってスサノオは体を起こした。
気のせい……、だったのだろうか。ならいいんだけど……。
「腹が減ったな。出発まで時間があるし、また魚でも捕りに行くか。和也もついて来い。捕り方を教えてやるよ」
そう言ってスサノオまた大きく伸びをした。

日が傾き、再び亡霊が姿を現すと、僕たちはまたその行列を辿って歩き出した。
「ねえ……」と僕は昼間のことを聞こうとして、やはり質問を変えた。「この亡霊たち、どこからやってくるのかな」
「さあ、わからねえが、戦(いくさ)の噂も聞かねえしなあ。俺の勘(かん)では都の方でなんか起こってるな」
「都って、平城京のこと?」
「ああ、そう言うこった」
「じゃあ……」このまま行けば、美津子のいる場所にたどり着けるかもしれない。
「和也の探していると言う女のことを考えているのかい?」
「うん……」
「見つけなきゃな」
「うん」
「そして救うんだ。和也が男ならな」
僕が男なら。
今までそんなことを意識したことはなかった。
救うとか、守るとか、自分が男だからとか。
けど、美津子を失う前の夜のことを思い出すたび僕はそれらの強迫症染みた考えに囚われ、自分の中に芽生えた強い欲求に戸惑った。

亡霊の行列は森の中だろうがそこに川があろうが、まるで宙を歩くように障害物もすり抜けて進んで行くので、それを辿ることは逆に困難を極めた。
「まいったな、どうも……」スサノオはそう言って立ち止まった。目の前に大きな湖があったからだ。そして亡霊たちはその水面を難なく歩いてくる。
「どうするの?」
「湖を回り込むしかないだろ。だがどっちに行く?」と言われて僕とスサノオは湖をぐるっと一周見渡した。
右からの方が回り込むには近いが、切り立った山になっている。森の中を立ち入って進まなければならない。逆に左から行けば砂浜のようになっていて、歩くのは容易だがかなりの距離がありそうだ。
「こりゃ一晩で回り込むのは無理そうだな。左から行こう」
「わかった。でもどうして左なの?」
「ずっと湖の近くを歩けるからさ。その方が食いもんも飲み水も簡単に手に入れられる」
「なるほど、頭いいね」
「そりゃどうも」
そう言って歩き出そうとした時、僕は右側の山の上の方に何やら明かりがあるのを見つけた。
「ねえスサノオ、あれなに?」
「ん?」そう言ってスサノオも山の上の方を見上げた。「なんだろうなあ。明るいってことは、誰かがいて火を焚いているんだろうが、こんな夜中にか……」
「明かりを灯してるって感じじゃないね。何かが燃えてるって感じだ。何かトラブルかも」
「なるほど、頭いいな」
「そりゃどうも」と言って僕は返した。
「気になるか?」
「まあね」
「じゃあ、ちょっとそっちの様子を見てから行くか」
「うん。そうしよう」
「和也、お前さん、ほんの少し男らしくなったな」そう言ってスサノオは、僕が何か言う前にもう歩き出していた。

亡霊の行列から外れ、真っ暗闇の森の中に入ったが、今さらそんなことで怖がる僕でもなくなっていた。
スサノオに松明の作り方も教えてもらい、それで道を照らしながらどんどん山に入って行った。
松明は重かったし、乾いた松が爆ぜるたびに火の粉が顔に降り注いだけれど、それすら大して気にならなくなった。
コトネは亡霊と同様、夜になると姿を現した。
と言っても僕の足元をじゃれつくように歩き回るだけなのだけれど。
ハクビシンも、僕らの前を歩いたり後ろを付いてきたりで、完全に旅の仲間だ。
「和也、お前さんに取り憑いている亡霊だがな」と、スサノオは先頭を歩きながら話しかけてきた。「恐らく手練れの弓の名手だ。それも化け物を相手にするのに慣れている。恐らく生きている時はそれを生業にしていたんだろう」
僕はスサノオの話に耳を傾けた。
「そいつがなぜ和也に取り憑いて旅をともにしているのかはわからない。ただの偶然かも知れないし、何らかの生きている時の心残りがあるのかも知れない。まあだが、それは問題じゃない。和也の力になってくれているのは事実だ。ただ、問題は和也の方だ」
「僕のほう?」
「ああ。お前さん、矢を打った後、気を失ったように眠っちまうだろ」
「ああ、確かに」
「それは和也の精神力が負けちまってるってことだ。敵が一匹ならそれでもいい。朝まで寝てりゃあ済む話だからな。だが二匹以上いると、一匹を倒した後、次でやられちまう」
「確かにそうだ。でもどうすればいいの?」
「もっと体を鍛えろ。剣を持って技を磨け。亡霊の力を借りなくても、自分で化け物を倒せるほどに強くなるんだ」
「でもどうやって?」
「俺が教えるさ。だが、その前にだ……」そう言ってスサノオは立ち止まって松明を高く掲げた。
「どうしたの?」
しっ! と言ってスサノオは僕が話すのを止めた。
僕も足を止めて目を凝らす。
けれど何も見えない。
横の方で何か音がした。
ガサガサ、っと何かが歩く音だ。
そちらに松明を向けるが、明かりの届く範囲には何も見えない。
向こうもこちらの様子を窺っているのか、大きく動く様子はない。
ただ、ミシミシと、地面を重く踏んで動く音がする。
どうやら向こうは自分たちの存在を隠すつもりはないようだ。
ガサガサ、っと今度は後ろから音がした。
何やら、うまく説明ができないのだけれど、河童や亡霊なんかとは違い、知性を感じさせた。
むやみに飛び掛かってくる様子がない。
「きいーい!」っと短い叫び声が前から聞こえた。
と、同じ声が右からも上からもした。
そしてさらにそれに呼応するように、僕らを囲んでありとあらゆる場所から叫び声が聞こえた。
「囲まれちまったな」とスサノオは気軽にそう言った。
「か、囲まれたって、なにに!?」
「よく見て見ろ」そう言ってスサノオは、松明を低くして明かりの無いところを指さした。
すると今まで見えなかった赤い目のようなものが暗闇の中に無数にこちらを見ているのが見えた。
「狒狒だな」
「ヒヒ?」
「ああ。年老いた猿が死にきれず、化け物になった奴のことだ。だがここにいるやつらは群れの下っ端だ。化け物には違いないが、たいして強くはない。数が多いだけでな……」スサノオが話し終えるのを待たずに、狒狒たちは一斉に叫び声をあげ飛び掛かってきた。
「おい和也、お前さんには不利な相手だ。俺が何とかするから近くにいな」そう言ってスサノオは背中から剣を抜くと、まるで森の木々を薙ぎ払うかの勢いで大きくそれを振り回した。
向こうでは八岐大蛇も狒狒に襲われていた。が、七つも頭がある八岐大蛇は動きも早く、飛び掛かる狒狒に噛みついては地面に叩きつけ、骨が砕けてぐにゃぐにゃになったところを大口を開けて飲み込んでいた。
スサノオは、どうしてそんなことができるのかわからないが、明らかに剣の届かない範囲の狒狒にまで傷を負わせ、その攻撃を食らった狒狒たちは腹を裂かれ、頭を落とし、腕を失い、脚を折られ、あっという間に無残な屍に変わっていった。
「おにいちゃん!」とコトネの声に後ろを振り返ると、一匹の狒狒が後ろから忍び寄るのが見えた。
「まかせろ」と頭の中に声が聞こえるが早いか、僕の体は一瞬で白い靄に包まれ、背中から一本の矢を引き抜いていた。そしていつものように鏃をすっと舐め、その鉄の味を口に含んだまま弓を引き、背中の筋肉がギリギリと軋むのを感じながら「一矢必殺」と唱え矢を放った。
すとっ、と矢が狒狒の心臓を貫く音を聞いた。
「よくやった!」とスサノオの声が聞こえたけれど、僕はやはり強烈な脱力感に襲われ、その場で膝立ちになり、眠りに落ちそうになった。
「耐えろ!」とスサノオの声がした。
耐えろ、耐えろ、耐えろ、と僕は自分に言い聞かせた。
両手を地面につき、喘ぎながら必死に意識をとどめようと朦朧とする頭を左右に振った。
「大丈夫か?」スサノオが隣にきて声をかけてくれた。
「う、うん……。狒狒は……」
「残った奴らはみんな逃げて行きやがった」
僕はそれを聞いてやはり意識を失いそうになったが、「耐えろ、耐えろ和也!」と言うスサノオの声になんとか眠りに落ちるのを避けることができた。
「立てるか?」
「うん、大丈夫……」僕は体に残る最後の力を振り絞るように立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。
「よし。よく耐えた、和也」
まだ酷い疲れが残っていたが、何とかなりそうだった。
「それより和也、歩けるか? 後を追うぞ」
「後を追うって?」
「逃げた狒狒たちだ。さっき山の上で何かが燃えていたろ。恐らく狒狒たちはそっちの方に逃げて行った。いやな予感がする」
「わ、わかった。大丈夫、歩けるよ」僕はそう言い残すと、まるで何かにすっと魂を抜かれたかのように意識を失い、その場に倒れ込んだ。



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