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あなたはここにいる《前》4

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 鞍橋に滞在して玄隈の仕事をするのは毎年正月だ。理由は会社が休みだから。正月三が日に一日有給をプラスしているが、精神的負担が大きいので休んだという気はしない。
 玄隈の仮面を外すと本当にホッとする。最終日に朱眉の家族と一緒に夕飯を食べるのが楽しみだった。終わるまでは鞍橋の屋敷で一人で精進潔斎しなくてはならないので、肉や魚を食べるとやっと下界に帰ってきたという心地がする。屋敷は山の上にあるので寒いしハラは減るし、夜中に一人で布団の中にいると、まるで遭難しているような心細さを感じた。
 元朱眉も今や二人の子持ちだ。二人目は男で、悠一という名前がついた。先月十歳になったそうだ。
 悠一を初めて見たときにあれっと思った。朱眉に「どうする? こいつ、その気になれば玄隈になれるけど」ととりあえず伝えた。姉には力が行かなかったが、息子は母親と同じ程度には力を持っていた。しかし朱眉は迷惑そうに顔の前でブンブン手を振った。
「いいよ、もう! やっと鞍橋を閉めたのに、今さらそんな」
「いいのか?」
「いいって、どうせ私程度なんでしょ? ちょっと勘が鋭い男の子、みたいな感じで暮らすのがいいんだって」
 と、関わらせるつもりは全然ないようなのだった。なので話はそれきりになったが、悠一は俺を同類だと感じるらしく、何かと「生島のおじさん」とまとわりついてくる。……俺もついに生島のおじさんと呼ばれるトシになったか。内気で小食で、子供のくせに過剰に人に気を使い過ぎる損な性格だ。きっと毎日母親と姉にいいようにこねくり回されていることだろう。
 高校生になった祐実は中学ぐらいから俺と口をきかなくなり、やっと何か言ってきたかと思えば強烈な毒舌で一刀両断してくる。三十前後の男が彼女ナシというだけで軽蔑に値すると思っているらしい。失礼なことは何もしていないはずだし、毎年お年玉もあげてるのに、白い目で見られるのはだいぶ傷つく。似たような接し方をされている父親の松田さんがまったく気の毒だった。
 食事のあと悠一の部屋で一緒にゲームをした。最近学校ではやっている遊びとか習っているサッカーの話を聞きながら、超絶テクニックを存分に見せつけ圧倒的勝利を飾ってやった。大人げないと言われようが、子供に対しても全力で相手するのが俺の誠意だ。
「さっきスーパーで会った子、お前の好きな子か?」
 休憩のときそう聞くと、顔を赤らめて恥ずかしがっていた。夕方の買い出しに付き合ったとき、同級生らしき女の子がいて悠一に声をかけてきたのだが、そのときの反応ですぐにわかった。小柄で手足が細く、動きに無駄がない子だった。態度もそつがなくて見るからにしっかりしていて、つい敬語を使ってしまいそうになる。親でもおかしくないくらい俺の方が年上なのに。
「お前ダメじゃないか、チャンスと思ってしっかりしゃべんないと。学校だと二人きりで話す機会ないだろ? 俺だったらあの子の荷物持ちに家までついてってやるね」
「そ、そんな、いきなりそんなことしたら気持ち悪いって思われるよ。それに僕、あの子に何やってもかなわないんだ。勉強出来るし足速いし人気あるし……。僕みたいな地味でグズな男子とは……そんな」
「そう思ってたらわざわざ話しかけてきたりしないだろ。少なくとも視界に入ってるってことじゃないか。恐れずたゆまずしつこくアプローチしろ!」
「しつこくするのはダメじゃない? お母さんもお姉ちゃんも言ってたよ。しつこい男って最低って」
「たしかに女はそう言うよ。しつこくしたら嫌われる。しかししつこくしないと忘れられる。そういう薄情な生き物なんだ、女ってのは……!」
「でっ……でも」
「お前の気持ちはわかる。おじさんだってお前ぐらいのとき好きな子がいたからな。ちょうどあんな感じで隙がなかった。
 いや、手強さじゃあの子の比じゃない。物凄い怪力の持ち主だったんだ。本物のトラックをミニカーのように動かし、十本まとめた太い竹でもストローのようにへし折るほどの」
「す、すげえ」
「口は達者だし物に動じないし、おまけに俺に冷たい。そんな子に振り落とされないために、俺がどんだけ努力したことか。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……何しろ車より早く走るし、あんまりしつこく追いかけたら空を飛んで逃げるんだからな!」
「ええっ?!」
「こらあ、鉄哉! あんたの特殊なケースを一般的な話のように言うんじゃない!」
 朱眉が怒鳴りながらドアを蹴って部屋に乱入してきた。手にはケーキと紅茶をのせたトレーを持っている。背後にはしらけた顔つきの祐実までひかえていた。
「この子が女性恐怖症になったらどうすんのよ! うちの息子は人一倍繊細で傷つきやすいんだからね!」
「同じ男としてアドバイスしただけだ。チリも積もれば山となるから頑張れって」
「チリはどんだけ積もったってチリでしょうよ! 」
「おじさん、彼女も出来ないのってその人のこと忘れられないからじゃないの?」
 祐実がいきなり斬りつけてきたので息が止まった。デリカシーに欠けるというより俺など配慮するような存在ではないと思っているのだろう。それにしても何でそんな簡単に真実にたどり着けたのか。お前の洞察力は俺の透視能力より上か?
「私、その人じゃないかなって女の子の写真見たことあるよ。あれでしょ? 髪が長くて、犬か猫かで言ったら猫って感じの」
「祐実、それ以上言ったらダメ。泣きだすかもしれないから」
「お母さん知ってるんでしょ? どんな子だった」
「うーん、そうねえ……」
「まあ昔の言葉で言ったら、ツンデレって感じかな」
「あったっけ、デレの要素なんか?!」
「お母さんが驚愕の眼差しで見てるんだけど」
「あったんだよ、お母さんが知らないだけで!」
「完全に尻に敷いてたのは確かだったね。この人も喜んで敷かれてたし。あの子はしっかりしてたけど、鉄哉が何しろ不器用でアタマ悪くて、何やらせてもダメでさあー……。薫ちゃんも『鉄哉一人だと心配だけど、エミちゃんが隣にいてくれるから安心だわ~』ってよく言ってた」
「ああー、だから失恋したんだ! ダメ男の世話一生焼かなきゃなんないなんて、まっぴらゴメンだもんね! その子のほうが正しいよ。きっと今頃素敵な人見つけて結婚してるんじゃない?」
 ……その無遠慮な女同士の会話がどれだけ俺の心を傷つけてるかわからないのか。悠一があわてて慰めるように入った。
「大丈夫だよ、おじさん。もうすぐおじさんに好きな人が出来るよ」
「え?」
「何?! どんな人?!」
 朱眉が激しく食いついた。
「何か……お姉ちゃんと同じくらいの人。高校生ぐらい。もうすぐ会えるよ。おじさんはその人のことすごく好きになる
よ」
「ウソ、最悪!! 警察が動けばいいのに!!」
「祐実、そんなこと言うんじゃないの! いいじゃない、やっと鉄哉の灰色の人生に光がさしたんだから! お母さん大賛成よ、相手のお嬢さんさえイヤじゃなければ! あとお嬢さんの親御さんが警察に通報したりしなければ!」
「じゃ、お母さん私がこんなおじさんと付き合いだしたらどうよ」
「それは考えるわね。お父さんがショックで病気になりそう」
「俺は何も聞いてない!」
 愕然としている場合ではないことに気付き、急いで耳をふさいだ。とんでもないことを聞いてしまった。たぶんかなりの確率で現実になるだろう。しかもそれを俺自身が聞いてしまったことで、無意識の部分がそちらへ誘引されてしまう危険性まで出てきた。拒絶も誘引の力の一部になるので、ここはもうシャットアウトするに限る。
「何でよ! オッサンのくせに未成年の女の子選り好みするとかどういうこと?!」
 声を荒げる祐実を制止し、朱眉が神妙な面持ちで俺に言った。
「鉄哉。あんたもそんな立場なんだから、父親と息子の運命が似るってことは承知でしょうに。あんたのお父さんだってだいぶ年下の人と結婚してんだから、息子のあんたが同じ道をたどったとしても何の不思議もないと思うけどね」
「とにかく俺は聞いてないから! もうこの話は終わりだ!」
 俺は立ち上がって悠一の部屋から逃げ出した。



 どんな突出した予知能力を持っていても、自分の未来だけは知ることが出来ない。だから俺は自分の未来がわからない。いつ何がどうなってどんな死が訪れるのか、それどころか家族に訪れる危機さえ見当がつかない。避けられるのは避けても構わないような小さな困難だけだ。
 しかしあとになって自分がじつはその未来を予見していたことに気付き、慄然とすることがある。何気なく言った言葉、脈絡のない呟き。そのときは構わず通り過ぎるが、通り過ぎるときたしかに何か引っかかっている。そしてあとで「これだったか……!」と打ちのめされるのだ。
 すでに知っている無意識の部分が警告を発するからだ。これは予知能力のない人間でも同じで、誰もがじつは自分の未来をすべて了解しているからに他ならない。
 しかし悠一の発言は完全に別物だった。子供だというのがなおさら始末に負えない。本来自分より格上の力を持つ人間を見ることは出来ないはずだが、心が純粋で悪意がまったくないために、実現率ほぼ百パーセントの予言を吐き出してしまった。困る。本当に困る。
 いったいどうすりゃいいんだ。イライラしていると自分がこの件について集中して思考を巡らしていることに気付き、ハッとして頭の中から追い出した。意識すればするほどそちらへ導かれてしまう。だからといって忘れてのほほんと過ごしていると、突然天誅のように運命が襲いかかってくる。結局どうしたらいいのか全然わからないのだった。

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