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◆第9話 師を求めて

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「お金よし、身分証よし、地図よし。他には…………」

「食べ物よしっ、パジャマよしっ、石鹸よーしっ!」


 中庭で互いに思いを打ち明けた朝から、4日後。
 俺たちは自宅の玄関前で、荷物のチェックをしていた。

 いつもの着慣れた外套コートではなく、防水機能の高い遠出用の高級品をくるくると纏めて鞄に結ぶ。
 俺は大きな背負い鞄に、腰ベルトに装着するポーチ類。
 紛失してしまった時の事を考えて、路銀はいくつかに分けて収納した。
 護身用として大腿の鞘に挿した短剣ダガーは、余計な装飾エングレーブなどは付いていないシンプルなものだ。

 対してピノラには、小さな横掛けの鞄を預けた。
 人間と兎獣人ラビリアンが共通して食べられる食料のほか、ピノラの好物であるドライフルーツの瓶を詰めてある。
 そして、左上腕には協会登録の獣闘士ビスタであることの証明に使用できる革製の腕章を取り付けた。
 馬車で向かえば2、3日で着く予定の短い旅の予定だが……ピノラは出発前からワクワクが止まらない様子だ。


「トレーナーっ! 準備はいーい?」

「あぁ、戸締りもよしだ。出発しよう」

「はーいっ! えへへへっ!」


 嬉しさのあまりぴょんぴょんと跳ねるピノラに、俺は笑顔で返す。
 家の鍵を閉めた直後、隣家の玄関から出てきたミレーヌさんが声をかけてきた。


「あら? モルダンさん、こんな朝早くから、どこかへお出掛けかしら?」


 手に小さな箒を持ったミレーヌさんは、旅の身支度をした俺たちを見て首を傾げている。
 それもそのはず、ピノラが敗れてしまったとはいえ、闘技会グラディアは今日、準決勝の試合があるはずなのだ。
 訓練士トレーナーであればその様子を見に行くことは当然のはずだが、俺たちの装備はどう見ても街の中央にある闘技場へ向かうためのものでは無い。


「ミレーヌおばさんっ、おはようっ!」

「おはよう、ピノラちゃん。あら、可愛い格好ねぇ。どこかへ行くの?」

「うんっ! 隣街の『ヴェセット』っていうところまでお出掛け! えへへ、いいでしょー!」


 服装を『可愛い』と言われたピノラは、ご機嫌な様子でミレーヌさんに駆け寄りポーズを決めている。
 そんな2人の近くまで歩くと、俺は深く頭を下げて挨拶をした。


「おはようございます、ミレーヌさん。ピノラの言った通り、ちょっと隣まで出掛けて来ますので、留守を頼めますか?」

「えぇ、それはもちろん。でも、こんな時期にヴェセットにお出掛けなんて珍しいわねぇ。何かお買い物かしら? それとも……」


 ミレーヌさんは、どこか訝しげな表情で口元に手を当てている。
 すると、穏やかな表情で立つ俺に対し小声で問いかけた。


「よ、夜逃げとか……?」

「ぶッ!?」


 何かと思ったら、ミレーヌさんはやや小声になりながらもとんでも無い事を言い出した。
 思わず噴き出してしまった俺は、慌てて否定する。


「ちょ、ちょっと! な、なんて事を言うんですか!? 縁起でも無いこと言わないでくださいよっ! こんな朝っぱらから『夜逃げ』なんてする訳無いでしょっ!?」

「あ、あらあらやだ、もう私ったら。ごめんなさいねぇ、昨日もピノラちゃんが負けちゃったって聞いたものだから、ついつい」


 『ついつい』で夜逃げの話になるなんて、ミレーヌさんやっぱり普段から俺のことを貧乏訓練士トレーナーだと思っているんだろうな……。
 否定できないあたりが、我ながら情けない。
 一刻も早く、そんな印象を払拭できるように尽力せねば。


「いえ、あの……買い物と言うか、ちょっと人探しです。数日で帰ってくる予定ですが、モコの餌もこれでお願い致します」


 そう言いながら、俺はいくらかの貨幣ガルドを包んだ紙をミレーヌさんに手渡す。
 父が居た頃から、何日かの間訓練所を離れる時はいつもこうしてお願いをしていたので、ミレーヌさんもすんなりと受け取ってくれた。
 長年の付き合いのある隣人というのは、本当に貴重な存在だ。


「何だか解らないけど、気をつけて行ってらしてね。ピノラちゃん、良かったわねぇ。大好きなモルダンさんとお出掛けなんて!」

「うんっ! ピノラ、トレーナーと遠くまで出掛けるのって初めてなんだ! えへへへ~!」


 ミレーヌさんの言葉に、ピノラは心底嬉しそうに返す。
 そう、2年前にピノラを出会ってから、俺は今日までサンティカの街から出る事なく過ごしてきた。
 8大都市の中でも都会に分類されるサンティカでは、流通網が発達しているため食料や日用品も不自由なく揃う。
 そのため、観光などの用事でもなければわざわざ他の街へ出向く機会も殆ど無い。
 今回の外出は、ピノラにとって初めての遠出なのだ。
 こんなにも嬉しそうにしているのも、無理のない話かもしれない。

 ミレーヌさんはそれ以上立ち入った事は聞こうとせず、そのまま手を振って見送ってくれた。
 別れる直前に、玄関の前に植えていた花で旅の安全を祈る腕輪を作ってくれたのだが、それを手首につけたピノラはこの数ヶ月で最高の笑顔になっている。
 昨日の夢で見た、奴隷にされかけていた頃の彼女とはまるで別人のような笑顔が見られて、俺の心も晴れやかな気持ちで出発した。



 ◆ ◆ ◆
  

 俺たちはサンティカ中央にある共同馬車乗り場から、ヴェセット行きの乗合馬車に乗り込んだ。
 闘技会グラディア開催中のせいか、馬車駅も乗合馬車自体もいつもと比べて閑散としている印象だ。
 郵便や交易品を運ぶ商会管理のこの馬車は、荷物の空いたスペースを利用して乗客の輸送も行っている。
 幌付きの荷台を人馬獣人ケンタウロス族の獣人女性が引いて行く仕組みになっていて、動力である彼女自信が荷物の護衛も兼ねるという、効率的な運行業である。

 今回の目的地『ヴェセット』は、サンティカから5リーグ程離れた隣街である。
 馬車を使えば最短で2日程度あれば到着できる距離にあり、サンティカにある大聖堂の尖塔からも遠景で見えるほどに近い街だ。
 元々は山林に生える『オール樹』と呼ばれる巨大な樹木を出荷する林業が盛んな街だったのだが、近年ではその木材加工技術を応用した木工細工や、木造建築が有名な職人の街となっている。
 また豊富な木材燃料を利用した製鉄や鍛造の技術も優れており、サンティカよりも優れた武器職人や甲冑師が揃っている事でも有名だ。
 街の中央を流れるアノリア川は、古来より伐採したオール樹を船で輸送する交易経路になっていて、その川沿いに職人たちの工房がずらりと並んでいる風景は圧巻の一言である。

 そんな職人の街に何の用事があるのかと言えば……


「その街に、伝説の訓練士トレーナーさんがいるの……?」

「あぁ。20年前に闘技会グラディアを制覇していた伝説の獣闘士ビスタ、『ファルル』の訓練士トレーナーをしていた人が暮らしているらしい」

「ふぇ……!? ファルルさん、って……あ、あの、一番強かったっていう兎獣人ラビリアンの!?」


 そう。
 今からおよそ3年前……協会認定の訓練士トレーナーを目指している時、新聞か何かで過去に活躍した獣闘士ビスタとその訓練士トレーナーを特集していたのを目にした覚えがある。
 その時はピノラに出会う前だったので、単なる情報として流し読みしていたのだが……唯一、20年前に輝かしい戦績を残した兎獣人ラビリアンであるファルルの相棒を務めていた人物が、隣街にいるという一文があったのを思い出したのだ。
 そんな有名人が隣街にいるのか、と当時の記事を見た自分が驚いた記憶がある。

 この20年もの間、ファルルの武勇伝を除き兎獣人ラビリアン闘技会グラディアを制覇できたという話は、残念ながら聞かない。
 身体が小さく、戦いに向かない種族である兎獣人ラビリアンは、そもそも闘技会グラディアに参加している事自体が大変珍しい事なのだ。
 それ故に、獅子獣人ライオネル族や熊獣人ベアクロス族など強さで有名な種族たちと異なり、強くなるためのノウハウや、必要な環境なども殆ど知られていないのが現状だ。
 もし『ファルル』を優勝に導いたであろう当時の訓練士トレーナーが居れば…………


「上手くいけば、ピノラが強くなるための助言を貰えるかもしれない。情けない話だが、今の俺ではピノラを強くするための知識は、獣人医学や栄養学くらいしか無い。過去にファルルが行っていたトレーンングの方法なんかが解るといいんだが」

「うんっ、そうだね! うふふっ、私と同じ兎獣人ラビリアンの、訓練士トレーナーさんかぁ……! どんな人なんだろうっ!」


 そう言いながら、ピノラは荷台の席で隣に座る俺に寄りかかってきた。
 俺の肩に長い耳の付け根あたりを擦り付けてくる仕草が可愛らしい。
 俺は彼女の背中から手を回し、後ろ髪を撫でた。
 くすぐったそうにするピノラだったが、俺との遠出を楽しんでくれているようだった。

 こんな愛らしいピノラが、俺と共に歩んで行く決心をしてくれている。
 俺から愛を受け取るだけではなく、自らも俺にとって掛け替えの無い存在でありたいと思ってくれている。
 4日前の明け方の決意は、互いの信頼を確かめ合う事ができた。
 俺は、ピノラの心から笑う姿のために、彼女を強くしたい。
 真っ白いさらさらの髪を撫でながら、俺はひとり心の中で決意を新たにした。



 ◆ ◆ ◆  


 途中の宿場町を経由し、翌朝には再び馬車に乗る。
 2日目、予定通りヴェセットの街に到着した俺たちは……その街並みに驚きの声を上げた。
 
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