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◆第16話 訓練開始
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「さて、これからのトレーニングの内容を決めるにあたり、まずは……お嬢ちゃんがどれくらいの能力を持っているのか見せて貰おうか」
「はーいっ!」
家の裏手にある広大な訓練所に出た俺たちに、シュトルさんは振り向きながらそう言った。
元気いっぱいに返事をする大変いい子なピノラだが、俺はひっそりと緊張していた。
まるで自分の子供が、試験か何かを受けているかのような……。
もちろん、俺にはまだ子供は居ないが。
「最初に確認だが、闘技会でお嬢ちゃんは何か武器を使っているのか?」
「はい、長剣を。勿論、闘技用に刃引きされたものですけど……」
素直に答えた俺に対し、シュトルさんは驚愕の表情を浮かべる。
「はぁ!? ロ、長剣!? ど、どうしたって兎獣人がそんなモンを使ってるんだ!?」
「えっ!? い、いや、あの……たまたまうちに1本あったものですから……」
現在ピノラが闘技会に出場する際に使用している刃引きの剣は、うちの倉庫でたまたま見かけたものを流用している。
闘技会では自分で用意した防具のほか、試合ごとに任意の武器の持ち込みが許可されている。
ただしあくまで娯楽としての闘技であるため、殺傷能力を失わせたものを使用する事になっているのだ。
例えば剣であれば刃の付いていない、先端も丸められたものだけが武器として使用可能となる。
武器や防具に関しては、出場前の検査で通れば訓練士の判断で自由に使用できるため、このあたりが訓練士として財力の差が如実に現れる部分となってしまう。
トップランカーの獣闘士ともなれば、希少金属であるアダマント製の全身鎧や、神銀製の胸甲など、財力にモノを言わせた武具を纏っているため生半可な攻撃では太刀打ちできない。
もし刃引きの武器などを持っていない場合は、協会が用意している闘技会用のレンタル武器を借りることも可能なのだが、これがまた意外とレンタル料が高い。
そのため、ピノラには家の倉庫にあった訓練用と思われる刃引きの長剣を持たせていたのだが……
正直に答えた俺を見て、シュトルさんは目を瞑り天を仰いだ。
そ、そんなに非常識な事だったのだろうか。
とは言え、いくら俺が兎獣人の戦いに無知でも、そんな露骨にげんなりしなくったって良いんじゃなかろうか。
肩身が狭い。
「……あんな長い鉄の塊なんて持たせたら、お嬢ちゃんだってバランスが悪くって仕方ないだろう。まぁいい、武器に関してもちゃんと考えてあるから任せてくれ」
そう言いながら訓練場に歩み出たシュトルさんは、ピノラの方を見て手をこまねいた。
呼ばれた事に気付いたピノラは、耳をぴくんと跳ねさせる。
「じゃお嬢ちゃん、まずは最初の練習だ。ここにある一番近いオール樹から、向こう側に見える同じくらいでっかいあそこのオール樹まで、全力で走って往復してきてくれ」
「ふえっ? えぇと、この木から……あっちの、あの木のところまででいいの?」
ピノラは、広大な訓練所の平地の、更に向こう側に立っている巨木を指さした。
訓練所の周囲には巨大なオール樹の森が広がっているが、シュトルさんが指示したその2本は周辺のものの中でも特に大きいものだ。
これだけ太く真っ直ぐなオール樹であれば、伐採すればさぞかし高価な木材になるのだろうが……ただここには木材を搬出する手段が無い。
宝の持ち腐れとも言うべき状態だが、まぁ仕方あるまい。
「そうそう、あれだ。全力で走って見せてくれ。それから、ターンして戻ってくる時は向こうのオール樹の幹を蹴っ飛ばして来てもいいぞ」
「わはっ! 楽しそう! トレーナーっ! ピノラちょっと行ってくるね!!」
俺に笑顔で手を振ったピノラは、その場で数回ほど足ならしに飛び跳ねた直後、指示通り全速力で駆け出した。
外出用で履いていた、木と皮で作られた靴が軋んだような音を立てたかと思うと、一瞬でトップスピードで飛んでいった。
ううむ、このあたりはさすが兎獣人だ。
その健脚は他種族の獣人の追随を許さぬほどで、ピノラが誇る最大の武器でもある。
闘技会では毎回、この脚を生かしたサイドステップで相手を翻弄し攻撃を叩き込む、という戦法を採っているのだが……脚力を会得するために犠牲にした体重と筋肉量の少なさが仇となり、相手に効果的な一撃を加えられずにやられてしまう、というのがここ数大会連続のセオリーになってしまっている。
走り出してからものの数秒で広場の反対側にあるオール樹までたどり着くと、その幹を軽く蹴飛ばした反動を利用してこちらへと向かって来た。
走っているピノラの顔は、何だかとても楽しそうだ。
思えば、サンティカではこんなに広い土地はそれこそ闘技場くらいしか無いから、こんなに全力で走る姿を見たのも久しぶりな気がする。
ここの地面は石で舗装された道路と違い、まばらに草が生えており柔らかく、それでいて小石ひとつ落ちていないほどに綺麗になっている。
郊外にあるせいで小石だらけの、傾斜まであるようなうちの訓練所とは大違いだ。
などと、俺は笑顔で駆け寄ってくるピノラを見ながら、自宅の訓練所の不甲斐なさをひとり反省した。
「はーいっ、到着ぅぅっ!」
俺たちのいる場所に勢いよく戻ってきたピノラは、最後に一際大きく跳ねると俺の目の前で着地した。
どこかスッキリしたような顔で見上げてくるピノラの笑顔が、とても愛らしい。
俺はいつもの訓練のように、ピノラの頭を撫でて迎えた。
「トレーナーっ! どうだった!?」
「ああ、凄く早かったぞ」
嬉しそうにおでこを擦り付けてくる。
それにしても、これだけの距離を全速力で走ってきたと言うのに、ピノラは汗ひとつかいておらず呼吸も乱れていない。
常敗などと言われても、やはり獣闘士の身体能力は人間族よりもはるかに優れている。
「えへへへっ! シュトルさん、どうだった? ピノラ、足の速さには自身があるんだよーっ!」
俊足を主張しても嘘偽りのないほどの早さだろう
と、思っていたのだが──────
「……ふーむ、まぁまぁの速さだな。これ以上遅かったら基礎体力作りから始めなきゃならないところだったが、まぁ大丈夫だろう」
「えっ? こ、これで『まぁまぁ』ですか……!?」
「ああ、『まぁまぁ』だ。アレンの日々の体調管理が良いんだろうな、身体はしっかりと出来上がっている」
シュトルさんの言葉を聞いて、俺は思わず聞き返してしまった。
今の往復にかかった時間は、人間が走るのとは桁違いに早かったはずだ。
現役の獣闘士にだって、こんなに素早く動けるのはそうそう居ないだろう。
だが、やはりシュトルさんの評価は上々なものではなかった。
「この程度の早さじゃまだまだ足りない。アレンも知っての通り、闘技会にいるのはとんでもねえ能力をもつ獣人族ばかりだからな。動体視力の優れた鳥獣人族や、機動力まで持ち合わせた蜥蜴獣人族が相手だったら簡単に捕まっちまう」
「あ、あぅぅ…………」
「お嬢ちゃん、そう残念がるな。お嬢ちゃんなら、ここで少し練習すればもっともっと早くなれるさ」
褒めて貰えると思っていたところ『まだまだ』と言われてしまったピノラは、耳を垂れてしょんぼりとしている。
慰めてやりたいところだが、シュトルさんの言った事は紛れもない事実だ。
人間だったらとても追い切れないようなピノラの横とびでさえ、闘技会に参加している対戦相手の獣人族は悉くそれを破ってきたのだから。
がっくりと項垂れてしまったピノラだが……シュトルさんが続けた言葉は、更に衝撃的なものだった。
「最終的には、今行って帰ってきたオール樹の間を3歩以内で向こう側まで行けるようになるまで練習するぞ」
「え、えええええええぇぇーーっ!?」
「さ、3歩って……!? ここから、あそこまでを、たった3歩で飛ぶんですか!?」
余りに凄まじい目標を耳にして、ピノラと俺は驚きのあまり大声を上げた。
そんな様子で聞き返す俺たちを見ても、シュトルさんは平然と続ける。
「そうだ。兎獣人は戦闘に向かないなんて言われているが……そんなもんは俺から言わせれば全くのウソだ。特にその脚力と、それを維持する持久力は肉食中心の獣人族とは比べ物にならない程に優れている。最大限までトレーニングした脚力があればこんな距離なんて数歩で飛び回れるし、何十回と往復だってできる」
「い、いくら何でもそれは無理じゃないですか……?」
「いいや、可能だ。事実、ファルルはここで同じことをやっていたぞ。ほれ、あそこを見てみろ」
「え…………?」
そう言ってシュトルさんが指さしたのは、オール樹の幹のうち、俺たちの背よりも更に高い場所だった。
ピノラと俺は一緒に見上げると……そこには、何かで削られたような痕が残っている。
まるで硬いものを何度もぶつけたのかと思われる陥没があり、周囲の樹皮が大きく削れているのが解る。
「ふぁぁ………あそこの、木が窪んでるところ?」
「そうだ。あれは、ファルルがここで同じ練習をしていた時についた傷だ。あいつは、この木の幹を蹴ってスタートして、向こうのオール樹まで2歩で辿り着いていたぞ」
「こ、これだけの距離を…………たった2歩で…………!?」
俺は改めて広大な訓練場を見渡した。
確かに理論上で言えば、兎獣人の持つ脚力を以ってすれば不可能ではない。
だがそれは、最高速まで加速した状態で飛んだときの距離に相当する程だ。
シュトルさんはそれ程の脚力をピノラに求めているのだろうか?
だとすれば……確かにそんなトレーニングは、この訓練場でしか出来ない。
そもそもこれほど広大な土地が無いサンティカの街中では、ピノラが最高速度で走り回る事さえ容易ではない。
広い土地での訓練ならば、どこまで加速できるかを身につける事ができるかもしれない。
シュトルさんは『ここでやる事が山ほどある』と言っていたが……これがそのひとつなのだろうか。
そう思いながら振り返ると、シュトルさんはファルルが穿ったであろうオール樹の窪みを見上げながらぼそりと呟いた。
「……あの木の傷跡も、随分と高いところに行っちまったなぁ……。20年前は、確かに手が触れられる場所にあったってのに……」
そうか、あの木の幹の傷ひとつであっても、シュトルさんにはファルルとの思い出となっているのだろう。
どこか感慨深げに溢すシュトルさんだったが、上げていた視線を戻し俺の方へと向き直った。
「さて……こんな感じで俺たちはまずはお嬢ちゃんの筋力・体力づくりから始めておく。アレン、お嬢ちゃんの事は俺に任せて、お前さんは金の工面ができるよう動いてくれ。もし今日のうちにヴェセットを出るつもりなら、もうここを出ないと馬車駅の最終便が出ちまうぞ。早く行け」
「わ、わかりました」
途端に途切れる会話。
これは……『早く帰れ』って事なんだろうな。
各々のやるべき事が決まった以上、俺がここに居る必要はない。
ここで俺が駄々をこねて居座ってしまっては、せっかくのピノラの決意を無為にする事となる。
「トレーナー…………」
傍らにいるピノラが、俺の腕をぎゅっと抱えてくる。
離れ離れになる時を察したのか、俺の顔を見上げるその表情には何とも言えない寂しさがありありと表れていた。
強くなるために、自ら課した決意。
だがその為には、今日から2ヶ月もの間ずっと離れ離れにならなければならない。
唇を固く結んだピノラの顔を見て、俺は胸の奥がじりじりと熱くなるのを感じた。
いかん、このままこうしていると、どんどん別れが辛くなる。
それはピノラも同じだったようで、俺の顔が映り込むほど大きく開かれた赤い瞳から、今にも涙がこぼれ落ちそうになっていた。
俺は今できる最高の笑顔になって、ピノラの頭を撫でた。
きっと作り笑顔だって事は、ピノラには解ってしまうだろう。
それでも俺は、笑顔で口を開いた。
「ピノラ……頑張ろうな。必ず迎えに来るから」
「…………うんっ」
「シュトルさんの言うことを、ちゃんと聞くんだぞ。俺もピノラの新しい武具が作れるように、一生懸命働いてくるから」
「うんっ、うんっ…………!」
目をいっぱいに見開いて、大きく頷き返事をするピノラ。
すると目尻に溜まっていた涙が、ぽろぽろと流れ落ち始める。
俺まで泣いてしまいそうだ。
「菓子を食べ過ぎちゃ駄目だぞ。それから、夜はちゃんと服を着て寝て……それと、あとは…………」
「うんっ……う、うぅっ…………ふぇっ……」
刻々と迫る、別れの時間。
ピノラの肩が、ふるふると震え始めた。
気丈に見上げていた顔も、段々と俯いてきてしまっている。
俺は目の前でぺたんと寝てしまったふわふわの白い耳を見て、思わずピノラを抱き寄せた。
「ふあ…………!」
唐突に抱きしめられたピノラは、驚いたような声とともに吐息を漏らした。
俺はそんな彼女の耳もとで、優しく別れの言葉をかける。
「約束だ。絶対に迎えに来る。ピノラ、俺を信じてくれるか?」
抱き合ったまま、すんすんと鼻を啜っていたピノラだったが……俺の胸元に顔を埋めると、涙を拭き取るかのようにぐりぐりと顔を押し付けてきた。
しばらくそうしていると、ゆっくりと顔を上げる。
真っ赤に泣き腫らした目元が痛々しい。
それでも、ピノラはにこりと笑顔を浮かべ呟いた。
「……うんっ! 約束だよっ、トレーナーっ!!」
そう言ってピノラは、掴んでいた俺の外套の袖から指を離した。
「では、シュトルさん。ピノラを、宜しくお願いします!」
こんな顔、ピノラにもシュトルさんにも見せられない。
きっと、情けない顔をしている。
俺はくるりと後ろを向くと、ヴェセットの街がある方向へと歩き出した。
辛い。
でも、もっと辛くならないように、早くここを離れなければ。
後ろからピノラの泣き声は聞こえてこない。
きっと、俺に聞こえないようにと我慢しているんだろう。
こうして俺は、出会ってからずっと一緒に過ごしてきたピノラと、しばしの別れの時間を過ごす事となった。
「はーいっ!」
家の裏手にある広大な訓練所に出た俺たちに、シュトルさんは振り向きながらそう言った。
元気いっぱいに返事をする大変いい子なピノラだが、俺はひっそりと緊張していた。
まるで自分の子供が、試験か何かを受けているかのような……。
もちろん、俺にはまだ子供は居ないが。
「最初に確認だが、闘技会でお嬢ちゃんは何か武器を使っているのか?」
「はい、長剣を。勿論、闘技用に刃引きされたものですけど……」
素直に答えた俺に対し、シュトルさんは驚愕の表情を浮かべる。
「はぁ!? ロ、長剣!? ど、どうしたって兎獣人がそんなモンを使ってるんだ!?」
「えっ!? い、いや、あの……たまたまうちに1本あったものですから……」
現在ピノラが闘技会に出場する際に使用している刃引きの剣は、うちの倉庫でたまたま見かけたものを流用している。
闘技会では自分で用意した防具のほか、試合ごとに任意の武器の持ち込みが許可されている。
ただしあくまで娯楽としての闘技であるため、殺傷能力を失わせたものを使用する事になっているのだ。
例えば剣であれば刃の付いていない、先端も丸められたものだけが武器として使用可能となる。
武器や防具に関しては、出場前の検査で通れば訓練士の判断で自由に使用できるため、このあたりが訓練士として財力の差が如実に現れる部分となってしまう。
トップランカーの獣闘士ともなれば、希少金属であるアダマント製の全身鎧や、神銀製の胸甲など、財力にモノを言わせた武具を纏っているため生半可な攻撃では太刀打ちできない。
もし刃引きの武器などを持っていない場合は、協会が用意している闘技会用のレンタル武器を借りることも可能なのだが、これがまた意外とレンタル料が高い。
そのため、ピノラには家の倉庫にあった訓練用と思われる刃引きの長剣を持たせていたのだが……
正直に答えた俺を見て、シュトルさんは目を瞑り天を仰いだ。
そ、そんなに非常識な事だったのだろうか。
とは言え、いくら俺が兎獣人の戦いに無知でも、そんな露骨にげんなりしなくったって良いんじゃなかろうか。
肩身が狭い。
「……あんな長い鉄の塊なんて持たせたら、お嬢ちゃんだってバランスが悪くって仕方ないだろう。まぁいい、武器に関してもちゃんと考えてあるから任せてくれ」
そう言いながら訓練場に歩み出たシュトルさんは、ピノラの方を見て手をこまねいた。
呼ばれた事に気付いたピノラは、耳をぴくんと跳ねさせる。
「じゃお嬢ちゃん、まずは最初の練習だ。ここにある一番近いオール樹から、向こう側に見える同じくらいでっかいあそこのオール樹まで、全力で走って往復してきてくれ」
「ふえっ? えぇと、この木から……あっちの、あの木のところまででいいの?」
ピノラは、広大な訓練所の平地の、更に向こう側に立っている巨木を指さした。
訓練所の周囲には巨大なオール樹の森が広がっているが、シュトルさんが指示したその2本は周辺のものの中でも特に大きいものだ。
これだけ太く真っ直ぐなオール樹であれば、伐採すればさぞかし高価な木材になるのだろうが……ただここには木材を搬出する手段が無い。
宝の持ち腐れとも言うべき状態だが、まぁ仕方あるまい。
「そうそう、あれだ。全力で走って見せてくれ。それから、ターンして戻ってくる時は向こうのオール樹の幹を蹴っ飛ばして来てもいいぞ」
「わはっ! 楽しそう! トレーナーっ! ピノラちょっと行ってくるね!!」
俺に笑顔で手を振ったピノラは、その場で数回ほど足ならしに飛び跳ねた直後、指示通り全速力で駆け出した。
外出用で履いていた、木と皮で作られた靴が軋んだような音を立てたかと思うと、一瞬でトップスピードで飛んでいった。
ううむ、このあたりはさすが兎獣人だ。
その健脚は他種族の獣人の追随を許さぬほどで、ピノラが誇る最大の武器でもある。
闘技会では毎回、この脚を生かしたサイドステップで相手を翻弄し攻撃を叩き込む、という戦法を採っているのだが……脚力を会得するために犠牲にした体重と筋肉量の少なさが仇となり、相手に効果的な一撃を加えられずにやられてしまう、というのがここ数大会連続のセオリーになってしまっている。
走り出してからものの数秒で広場の反対側にあるオール樹までたどり着くと、その幹を軽く蹴飛ばした反動を利用してこちらへと向かって来た。
走っているピノラの顔は、何だかとても楽しそうだ。
思えば、サンティカではこんなに広い土地はそれこそ闘技場くらいしか無いから、こんなに全力で走る姿を見たのも久しぶりな気がする。
ここの地面は石で舗装された道路と違い、まばらに草が生えており柔らかく、それでいて小石ひとつ落ちていないほどに綺麗になっている。
郊外にあるせいで小石だらけの、傾斜まであるようなうちの訓練所とは大違いだ。
などと、俺は笑顔で駆け寄ってくるピノラを見ながら、自宅の訓練所の不甲斐なさをひとり反省した。
「はーいっ、到着ぅぅっ!」
俺たちのいる場所に勢いよく戻ってきたピノラは、最後に一際大きく跳ねると俺の目の前で着地した。
どこかスッキリしたような顔で見上げてくるピノラの笑顔が、とても愛らしい。
俺はいつもの訓練のように、ピノラの頭を撫でて迎えた。
「トレーナーっ! どうだった!?」
「ああ、凄く早かったぞ」
嬉しそうにおでこを擦り付けてくる。
それにしても、これだけの距離を全速力で走ってきたと言うのに、ピノラは汗ひとつかいておらず呼吸も乱れていない。
常敗などと言われても、やはり獣闘士の身体能力は人間族よりもはるかに優れている。
「えへへへっ! シュトルさん、どうだった? ピノラ、足の速さには自身があるんだよーっ!」
俊足を主張しても嘘偽りのないほどの早さだろう
と、思っていたのだが──────
「……ふーむ、まぁまぁの速さだな。これ以上遅かったら基礎体力作りから始めなきゃならないところだったが、まぁ大丈夫だろう」
「えっ? こ、これで『まぁまぁ』ですか……!?」
「ああ、『まぁまぁ』だ。アレンの日々の体調管理が良いんだろうな、身体はしっかりと出来上がっている」
シュトルさんの言葉を聞いて、俺は思わず聞き返してしまった。
今の往復にかかった時間は、人間が走るのとは桁違いに早かったはずだ。
現役の獣闘士にだって、こんなに素早く動けるのはそうそう居ないだろう。
だが、やはりシュトルさんの評価は上々なものではなかった。
「この程度の早さじゃまだまだ足りない。アレンも知っての通り、闘技会にいるのはとんでもねえ能力をもつ獣人族ばかりだからな。動体視力の優れた鳥獣人族や、機動力まで持ち合わせた蜥蜴獣人族が相手だったら簡単に捕まっちまう」
「あ、あぅぅ…………」
「お嬢ちゃん、そう残念がるな。お嬢ちゃんなら、ここで少し練習すればもっともっと早くなれるさ」
褒めて貰えると思っていたところ『まだまだ』と言われてしまったピノラは、耳を垂れてしょんぼりとしている。
慰めてやりたいところだが、シュトルさんの言った事は紛れもない事実だ。
人間だったらとても追い切れないようなピノラの横とびでさえ、闘技会に参加している対戦相手の獣人族は悉くそれを破ってきたのだから。
がっくりと項垂れてしまったピノラだが……シュトルさんが続けた言葉は、更に衝撃的なものだった。
「最終的には、今行って帰ってきたオール樹の間を3歩以内で向こう側まで行けるようになるまで練習するぞ」
「え、えええええええぇぇーーっ!?」
「さ、3歩って……!? ここから、あそこまでを、たった3歩で飛ぶんですか!?」
余りに凄まじい目標を耳にして、ピノラと俺は驚きのあまり大声を上げた。
そんな様子で聞き返す俺たちを見ても、シュトルさんは平然と続ける。
「そうだ。兎獣人は戦闘に向かないなんて言われているが……そんなもんは俺から言わせれば全くのウソだ。特にその脚力と、それを維持する持久力は肉食中心の獣人族とは比べ物にならない程に優れている。最大限までトレーニングした脚力があればこんな距離なんて数歩で飛び回れるし、何十回と往復だってできる」
「い、いくら何でもそれは無理じゃないですか……?」
「いいや、可能だ。事実、ファルルはここで同じことをやっていたぞ。ほれ、あそこを見てみろ」
「え…………?」
そう言ってシュトルさんが指さしたのは、オール樹の幹のうち、俺たちの背よりも更に高い場所だった。
ピノラと俺は一緒に見上げると……そこには、何かで削られたような痕が残っている。
まるで硬いものを何度もぶつけたのかと思われる陥没があり、周囲の樹皮が大きく削れているのが解る。
「ふぁぁ………あそこの、木が窪んでるところ?」
「そうだ。あれは、ファルルがここで同じ練習をしていた時についた傷だ。あいつは、この木の幹を蹴ってスタートして、向こうのオール樹まで2歩で辿り着いていたぞ」
「こ、これだけの距離を…………たった2歩で…………!?」
俺は改めて広大な訓練場を見渡した。
確かに理論上で言えば、兎獣人の持つ脚力を以ってすれば不可能ではない。
だがそれは、最高速まで加速した状態で飛んだときの距離に相当する程だ。
シュトルさんはそれ程の脚力をピノラに求めているのだろうか?
だとすれば……確かにそんなトレーニングは、この訓練場でしか出来ない。
そもそもこれほど広大な土地が無いサンティカの街中では、ピノラが最高速度で走り回る事さえ容易ではない。
広い土地での訓練ならば、どこまで加速できるかを身につける事ができるかもしれない。
シュトルさんは『ここでやる事が山ほどある』と言っていたが……これがそのひとつなのだろうか。
そう思いながら振り返ると、シュトルさんはファルルが穿ったであろうオール樹の窪みを見上げながらぼそりと呟いた。
「……あの木の傷跡も、随分と高いところに行っちまったなぁ……。20年前は、確かに手が触れられる場所にあったってのに……」
そうか、あの木の幹の傷ひとつであっても、シュトルさんにはファルルとの思い出となっているのだろう。
どこか感慨深げに溢すシュトルさんだったが、上げていた視線を戻し俺の方へと向き直った。
「さて……こんな感じで俺たちはまずはお嬢ちゃんの筋力・体力づくりから始めておく。アレン、お嬢ちゃんの事は俺に任せて、お前さんは金の工面ができるよう動いてくれ。もし今日のうちにヴェセットを出るつもりなら、もうここを出ないと馬車駅の最終便が出ちまうぞ。早く行け」
「わ、わかりました」
途端に途切れる会話。
これは……『早く帰れ』って事なんだろうな。
各々のやるべき事が決まった以上、俺がここに居る必要はない。
ここで俺が駄々をこねて居座ってしまっては、せっかくのピノラの決意を無為にする事となる。
「トレーナー…………」
傍らにいるピノラが、俺の腕をぎゅっと抱えてくる。
離れ離れになる時を察したのか、俺の顔を見上げるその表情には何とも言えない寂しさがありありと表れていた。
強くなるために、自ら課した決意。
だがその為には、今日から2ヶ月もの間ずっと離れ離れにならなければならない。
唇を固く結んだピノラの顔を見て、俺は胸の奥がじりじりと熱くなるのを感じた。
いかん、このままこうしていると、どんどん別れが辛くなる。
それはピノラも同じだったようで、俺の顔が映り込むほど大きく開かれた赤い瞳から、今にも涙がこぼれ落ちそうになっていた。
俺は今できる最高の笑顔になって、ピノラの頭を撫でた。
きっと作り笑顔だって事は、ピノラには解ってしまうだろう。
それでも俺は、笑顔で口を開いた。
「ピノラ……頑張ろうな。必ず迎えに来るから」
「…………うんっ」
「シュトルさんの言うことを、ちゃんと聞くんだぞ。俺もピノラの新しい武具が作れるように、一生懸命働いてくるから」
「うんっ、うんっ…………!」
目をいっぱいに見開いて、大きく頷き返事をするピノラ。
すると目尻に溜まっていた涙が、ぽろぽろと流れ落ち始める。
俺まで泣いてしまいそうだ。
「菓子を食べ過ぎちゃ駄目だぞ。それから、夜はちゃんと服を着て寝て……それと、あとは…………」
「うんっ……う、うぅっ…………ふぇっ……」
刻々と迫る、別れの時間。
ピノラの肩が、ふるふると震え始めた。
気丈に見上げていた顔も、段々と俯いてきてしまっている。
俺は目の前でぺたんと寝てしまったふわふわの白い耳を見て、思わずピノラを抱き寄せた。
「ふあ…………!」
唐突に抱きしめられたピノラは、驚いたような声とともに吐息を漏らした。
俺はそんな彼女の耳もとで、優しく別れの言葉をかける。
「約束だ。絶対に迎えに来る。ピノラ、俺を信じてくれるか?」
抱き合ったまま、すんすんと鼻を啜っていたピノラだったが……俺の胸元に顔を埋めると、涙を拭き取るかのようにぐりぐりと顔を押し付けてきた。
しばらくそうしていると、ゆっくりと顔を上げる。
真っ赤に泣き腫らした目元が痛々しい。
それでも、ピノラはにこりと笑顔を浮かべ呟いた。
「……うんっ! 約束だよっ、トレーナーっ!!」
そう言ってピノラは、掴んでいた俺の外套の袖から指を離した。
「では、シュトルさん。ピノラを、宜しくお願いします!」
こんな顔、ピノラにもシュトルさんにも見せられない。
きっと、情けない顔をしている。
俺はくるりと後ろを向くと、ヴェセットの街がある方向へと歩き出した。
辛い。
でも、もっと辛くならないように、早くここを離れなければ。
後ろからピノラの泣き声は聞こえてこない。
きっと、俺に聞こえないようにと我慢しているんだろう。
こうして俺は、出会ってからずっと一緒に過ごしてきたピノラと、しばしの別れの時間を過ごす事となった。
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