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◆第28話 はじまりの一戦

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 『始めえええぇぇぇっっ!!』


 進行役の男の叫びに合わせ、観客席の最上段に置かれた巨大な真鍮製の鐘が鳴り響く。
 試合開始の合図だ。
 鼓膜を震わせる大音量の鐘の音と同時に、観客席からはそれ以上の大音声だいおんじょうが発せられた。

 対戦相手である蜥蜴獣人リザードマンのルチェットは、年間を通じて4度開催される闘技会グラディアのなかでも、この火蜥蜴サラマンダの月に行われる大会で上位に食い込む選手だ。
 他の選手が暑さで動きが鈍る中、変温体質の彼女は炎天下でこそ真価を発揮する。
 寒い時期に開催される闘技会グラディアでは逆に動きが鈍くなりがちで、出場しない事もあるのだが……今大会は彼女にとって、ベストシーズンである。

 そんな天候の有利さえあるルチェットに対し、ピノラは口元に笑みを浮かべながら対峙している。
 いつもの必死な、どこか怯えたような目をしていた前回までとは、明らかに違う。
 だがルチェットは、そんな自信を覗かせるようなピノラの笑みが気に食わなかったようだ。


「フン! 負けが解ってるくせに、何だいその笑顔は! 気に入らないねぇ……でもこっちはアンタのお陰で、実質1回戦シードみたいなもんだ! 捕まえてやるから、いつものようにピョンピョン跳ねて見せなよ!!」


 試合開始と同時に挑発を始めたルチェットは、手に持った大きな刃引きの曲刀ファルシオンを振り回して見せた。
 余裕綽々よゆうしゃくしゃくといった様子だ。
 だが、まるで侮るような態度を見せるルチェットを前にしても尚、ピノラの笑顔は消えない。


「ルチェットさんっ! 行くよっ!!」

「はっ! 得意の横っとびかい!? いいからさっさと────────」



 突撃の声をかけるピノラに向かって、嘲るような視線を向けていたルチェットだったが

 すぐさま、その表情が凍りつく。





 ルチェットの挑発をものともせず、身を低くして跳躍の姿勢を見せたピノラ。
 ひとつ大きく息を吸うと

 なんと、その場から一瞬で消え去った。


[635118708/1637077282.mp3]


「え……………………!!?」


 ルチェットは目を見開いて驚いている。
 それもそのはず、ピノラは先ほどの一瞬で地面を蹴ると、はるか横にある闘技場の壁面近くまで跳躍していた。
 信じられないほどの初速。
 それは蜥蜴獣人リザードマンの動体視力を以てしても、捉えきれていない。
 だがそれでも、ルチェットには辛うじて飛んだ方向が見えていたようだ。
 慌てて壁際にいるピノラへと、顔と体を向けようと身構えている。


 だが


「たあああああああああああっ!!」


 鋭い金属音が、闘技場に響く。
 壁まで飛んでいたピノラは、そのままの勢いで壁面に『着地』すると、そのまま壁を蹴飛ばして飛び跳ねた。
 ルチェットのすぐ背後で一度地面に足をついたと思ったのも束の間、すぐさま闘技場の反対側の壁面まで到達している。
 あまりに早すぎるその移動に、中央にいるルチェットはまるで追いつけていない。
 ピノラの移動は、俯瞰で見ている客席からようやく見えるほどに早かった。

 唐突に始まったピノラの壁蹴りによる高速移動を見た観客たちだったが、あまりの速さに歓声さえも上がらない。
 未だに目の前で何が行われたのか、理解できていないようだ。


「いいぞ、ピノラっ! トレーニング通りだ!!」


 俺は高速で飛び交うピノラの影を目で追いながら、小さく叫んだ。

 そう、これは闘技会グラディアという壁に囲まれた空間で戦う兎獣人ラビリアンのために、20年前にファルルが採用していた戦法のひとつだ。
 兎獣人ラビリアン最大の武器である脚力を生かすためには、横移動を繰り返すだけでは本領が発揮できない。
 かつてピノラが行っていた反復横跳びのような戦法では、方向転換のたびに速度が殺されてしまい、そこを狙われやすいという欠点がある。
 事実、過去の2年間はほとんどの相手に、横飛び時にタイミングを計られて迎撃されてしまっていた。

 だが、壁を蹴って移動するこの戦法ならば兎獣人ラビリアンの脚力により超高速での移動が可能となる。
 太古の石材で造られた闘技場の壁は非常に頑強で、兎獣人ラビリアンの全力の蹴りの力を受け止めてくれる。
 この高速移動戦法に必要なのは、円形の闘技場を飛び交うだけの脚力と、それを維持するスタミナ、そして壁に衝突する際の衝撃を吸収する武具である。

 シュトルさんは、これら全てをピノラに持たせてくれた。
 ヴェセットの森の中……オール樹の木々に囲まれた広大な訓練所は、この闘技場とほとんど同じ広さだった。
 その間をわずか数歩で飛び回る訓練と、それを維持するためのスタミナを養う食事管理。
 そして、足底で受けた衝撃を膝のクッションを介して大腿筋で受け止められるような構造の鉄靴ソルレット──────

 これらが備わったピノラは、闘技場内を無限に飛び回る矢のようになっていた。
 左右に飛び跳ねながら、長剣ロングソードを重たそうに引きずっていた前回までのピノラを想像いていたであろう観客たちからは、驚愕の声が上がる。
 だがそれも徐々に、聞いたことがないほどの巨大な歓声へと変貌した。


「う、うおおおおおおおおおおおおっ!? な、何だありゃあああああああ!?」

「す、すっげえええええええ!! 凄えよピノラちゃん! 何て早さだああああっ!?」

「信じられない!! 鳥獣人ハーピーだってこんなに早く動けないわよ!?」

「お、俺は夢を見ているのか……!? こ、こんな動きが本当に可能なのかよ!?」 


 ピノラの壁を蹴る大きな音さえも飲み込む歓声に、俺は興奮していた。
 人々が次々と叫ぶ、驚嘆、絶賛、嘆美たんびの声。
 闘技会グラディアの決勝戦だってこんなに盛り上がったのは、見た事がない。
 観客たちが感動している。
 この感動を、ピノラが見せている。
 そう思うだけで、俺は喉の奥から熱いものが込み上げてくるようだった。
 訓練士トレーナー用の観戦席にある手すりを、力いっぱい握りしめる。

 自慢であったはずの視力でもまるで追いつけない動きに、ルチェットは闘技場の中央で右往左往するばかりだった。
 対面にいるルチェットの訓練士トレーナーも、信じられないといった顔で頭を抱えている。


「な、何だい、この動きはぁぁ!? は、反復横跳びしか能のないヤツのはずじゃ無かったのかい!? こ、こんなの、どうすれば……!!?」

「ル、ルチェット、落ち着けっ! 相手は兎獣人ラビリアンだ! い、いくら早く動けても、あの体重では攻撃なんか大した事無い!」


 慌てるルチェットに指示を飛ばしている相手の訓練士トレーナーだったが

 直後に、それさえも間違いであったと思い知る事となった。
 俺は、大声で叫ぶ。


「ピノラ、行けえええええッッ!!」

「たあああああありゃああああああああああっっ!!!!」


 一際大きな壁を蹴る音が聞こえた、次の瞬間……
 ピノラは一瞬にして空中で半回転しルチェットへ足を向けると、一直線に飛び込んで蹴りを放った。

 軽い体重が災いして、攻撃の決め手に欠けていたピノラだが……彼女がいま装備している武具は、相当な重さだ。
 通常であれば、あれほどまで重い武具を装備した状態で飛び跳ねるなど不可能のはずだが、兎獣人ラビリアンの脚力はそんな事までも実現させてしまうほど強力だった。
 壁を蹴って飛び込んだ速度に、武具の重さが加わり、更に蹴りの威力までもが加わった結果──────

 その一撃は、蜥蜴獣人リザードマンであるルチェットに直撃したかと思うと、その身体を一瞬で反対側の壁まで吹き飛ばした。


 響き渡る衝突音。
 直後に聞こえた衝撃音は、ルチェットが壁に叩きつけられた音だった。

 自身に宿していた速度を全てぶつけたピノラは、ルチェットに代わって闘技場の中央に着地した。
 すぐさま立ち上がると、ルチェット吹き飛んでいった方向を見る。
 戦う姿勢を崩さないままでいる。

 静まり返る闘技場。
 観客は誰一人声をあげる事なく、中央を見つめている。
 だがその直後、徐々に薄らいでいく砂埃の向こう側に……
 壁にもたれかかるようにして意識を失っているルチェットが見えた。

 それを見たピノラは、大きく息を吐き





「────── えへへ、勝ちっ!」




 構えを解き、満面の笑みを浮かべた。

 同時に、会場内では大砲が破裂したのかと思うほどの大歓声が湧き上がる。


「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「きゃあああああああああああああっ!!」
「か、勝った!! ピノラちゃんが勝ったぞおおおおおおおおっ!!」
「うわあああああああっ! やったあああああああああ!!」
「ま、まさかこんな日が来るなんて!! う、うおおおおおお!!」


 鳴り止まない歓声の中、ピノラがこちらを向いて叫んだ。


「トレーナーっ!! や、やったよおおおおおおおおおおっっ!!!!」


 その声を聞いた時

 俺はたまらず手すりを乗り越え、場内へと飛び込んでいた。
 試合終了の合図はまだ行われていない。
 本来であれば、訓練士トレーナーが飛び入ってはいけないはずだ。
 だが、その結果は誰の目から見ても明らかであり、そんな事を問うほどサンティカの人々は無粋ではない。
 それは、この割れんばかりの大歓声が物語っている。


「ピ、ピノラあああああああああああああっ!!」

「トレーナああああああああっ!!」


 駆け寄る俺に、飛び込んでくるピノラ。
 戦いを終えた彼女の額には、汗が滲んでいる。
 そして真っ赤に輝く瞳からは、大粒の涙が溢れ出ていた。
 俺はそんな彼女を、闘技場の隅で抱き止める。


「ピノラっ! 良くやった! 頑張った、頑張ったなぁ……!!」

「うんっ!! トレーナーっ……! ピノラ、が、頑張ったよっ……! は、初めて勝ったよおおぉっ!!」


 力いっぱいに抱きしめて、頭をくしゃくしゃに撫でる。
 全力で頑張ったピノラの顔を見たい。
 だが、俺の視界は溢れ出る涙でぼやけてしまっていた。
 もっと沢山の言葉をかけてやりたいのに、声が出ない。
 涙で、ピノラの髪が濡れてしまう。

 だが、それはピノラも同じようだった。


「う、うえええええええ……っ! と、トレーナーっ! ふええええええええええっ!!」

「ピノラっ……! ピノラぁぁっ!!」


 俺たちは闘技場の土の上で抱き合いながら、互いに涙を流し続けた。
 こんな姿を、3万人を超える観衆に見られてしまうとは。
 しかしその観衆が見守る観客席からは、歓声とともに大きな拍手が聞こえてきた。
 涙を拭いてあたりを見回すと、客席にいる人々も大勢が涙を流している有様だった。

 それは、ゆっくりと近付いてくる進行役の男も同じだったようで……
 こぼれ落ちる涙を、黒いスーツの袖でしきりに拭きながら、声を上げた。


『だ、誰がこのような結果を、想像したでしょう……っ!? わ、わたくし……闘技会グラディアの進行を務める身でありながら、か……感動してしまいましたッ!! 闘技会グラディア1回戦第1試合!! ピノラ選手の、勝利いいいぃぃぃぃっっ!!!!」


 ぼろぼろと涙を流す進行役の男は、涙ごえながらも勝利を讃えてくれた。
 その声が場内に響き渡ると、客席からは再び大歓声が湧き上がった。



 俺はピノラを抱きしめながら、空を見上げた。
 天幕に覆われていない直上からは、海よりも濃いと思うほどの青い空が見えている。

 初めて掴んだ、勝利。
 このままずっと歓声に包まれたまま、ピノラと共に余韻に浸りたい。
 だが、ここで終わりではない。
 そう、ここからだ。
 唇を固く結び、ピノラを顔を見る。

 ふわふわの毛に覆われた耳を立て、ピノラはぽろぽろと涙を流しながらも微笑んだ。
 俺は口づけしたい衝動を必死に堪えながら、彼女とともに立ち上がった。


「ピノラ、行こう!」

「うんっ!!」


 鳴り止まない拍手と歓声の中、俺はピノラと共に入退場口へと歩いて行った。



 ◆ ◆ ◆  



「……アレン、お嬢ちゃん、良くやったな」


 つばの広い帽子を目深に被った男が、試合の様子を見守っていた。
 彼は静かに微笑むと、そのまま振り向き階段を降りていく。


「さぁて、俺ももう一仕事だ」
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