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第3話 超古代の神

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 南太平洋・ニューカレドニア島。天国に一番近い島とも呼ばれる、美しいエメラルドグリーンの海に囲まれたこのオセアニアの小さな島に、未玖の父である宏信は来ていた。

「ニューカレドニアでバカンス? 全く、考古学者っていうのは羨ましいお仕事ね。遺跡の調査だなんていうもっともらしい名目で、家族を放ったらかしにして自分だけであちこち海外旅行をエンジョイできるんですもの」

 眩しい太陽の下、キャンプチェアに腰かけて冷たいミネラルウォーターで水分補給をしながら、宏信は東京にいる離婚した昔の妻の佳那子と、スマートフォンを使ったリモート通信で互いの顔を画面越しに見ながら久しぶりの会話をしている。開口一番、聞き慣れたきつめの口調で自分を責めてきた佳那子に、宏信は両手を広げてわざとらしくおどけたジェスチャーを見せた。

「ここが長閑なビーチに見えるかい? 観光客で賑わう綺麗な海からは何キロも離れた、虫だらけの険しいジャングルの中さ。泳いでいる暇なんてどうせないから、水着も持ってきてない。仕事のついでに観光なんて、お前とまだ赤ん坊の未玖を一緒にパリに連れて行った時に登ったエッフェル塔ぐらいしか行けた試しがないよ」

 南国のうだるような暑さの中、ビーチで海水浴をすれば気持ちがいいのかも知れないが、山の中でひたすら地面の土を掘り続けているのは骨の折れる重労働である。楽しく遊んでいるように思われるのは心外だと宏信は抗議したが、離婚の原因の一つになってしまったこの感情のすれ違いを蒸し返してここでまた喧嘩を再開するのも嫌だったので、苦笑してそれ以上は口をつぐんだ。

「それにしても、まさかあなたが超古代文明の第一発見者になるなんてね。すっかり有名人になっちゃって、さぞリッチな生活をしてるんでしょう? 私と未玖にも少しその財産を分けてほしいわ」

「僕自身が大金持ちになったりはしてないさ」

 摩周岳の麓で、超古代文明の遺跡を最初に発見してから既に一年。一躍時の人となった宏信は海外も含めたあちこちで学会や講演会に招かれ、テレビ番組への出演まで何度もするようになって、最近は大忙しである。とはいえ、急に億万長者になって贅沢な暮らしができるようになったわけではなく、増えた収入の大半はやたらと金のかかる遺跡の発掘調査の費用に消えている。

「ただね、世界的に名が売れたお陰で、大口の海外スポンサーがついてくれることになったんだ。ラーティブさんと言ってね。何とアラブの石油王だよ。無類の歴史好きで、金持ちの道楽の一つとしてマヤ文明やシュメール文明の調査隊を自前で作ったりもしてるくらいだから、超古代文明ともなるともう興味津々さ。なかなか羽振りが良くて話の分かる人なんだ」

 今までは研究資金の工面に四苦八苦していた宏信だったが、今後は油田をいくつも所有してオイルマネーで莫大な資産を築いているカタール人の大富豪が全面的に支援してくれることになり、費用の心配は一切なく超古代文明の研究に没頭できるようになった。こうして赤道を越えて遠く南半球のニューカレドニアまで発掘調査のために遠征できるようになったのも、そのラーティブ・アル・ジョハルという有名な石油王からの惜しみない出資のお陰である。

「何がそんなに面白いのか、私には全然理解できない世界の話だわ。私なんかよりも、その歴史マニアの石油王さんと一緒にいる方があなたはずっと楽しいんでしょう?」

「そう皮肉らないでくれよ。古代史への情熱は、言わば僕の生まれ持った本能みたいなものなんだからさ。捨てろと言われて、はい分かりましたと捨てられるものじゃないんだ」

 大手の保険会社に勤めるキャリアウーマンとして東京の第一線で働いている佳那子とて、家庭より仕事という優先順位でまだ小さい我が子のことがおざなりになってしまっているのは宏信とさして変わらない。そのことに気づいて急に口をつぐんだ佳那子と、それを指摘しようかと思ったが怒らせては良くないと寸でのところで言うのをやめた宏信。気まずい沈黙が、この元夫婦たちのやり取りを終わらせる合図となった。

「来週の土日には一年ぶりに旭川の家に帰るわ。未玖の学校の学芸会を見に行ってあげなきゃ。あの子の親としてね」

「はいはい。ご苦労様。いい写真が撮れたらまた送ってくれ。じゃあね」

 テーブルの上に立てかけていたスマートフォンを手に取って画面をタップし、宏信は東京と繋いでいたビデオ通話を終了させた。そこへ発掘現場の方から、ひと仕事終えて休憩を取ろうと若い助手の一人がやって来る。

「奥様とよりは戻せそうですか? 柴崎先生」

 半ば冷やかすようなその口調に、よしてくれよとかぶりを振りながら宏信は答えた。

「そう簡単には行かないさ。お互い筋金入りの仕事人間同士、似ているからこその同族嫌悪って奴でね。それより、そっちの進捗はどうだ?」

「ええ。今朝発掘されたばかりのあの銅剣ですが、やはり何らかの祭祀に用いられていた神器のようです。武器として使うには明らかに大きくて重すぎますし、刃の部分には魔術の呪文らしき象形文字が長々と彫られていますからね」

 やはりそうか、と宏信は納得してうなずいた。この島で見つかった銅剣に記された文字が解読できれば、超古代文明人たちが信じていた神話や宗教についても色々なことが分かってくるかも知れない。

「解読についてはまだ手探りだが、私の見たところ、やはりあれは古代ギリシャ文字といくつかの点が似ているようなんだ。一年前に北海道で発掘した石板の文字と同じだね。もし本当に古い時代のギリシャ人が使っていたのと近い言語であれば、私の手で解読することはきっとできる」

 一年前、宏信が最初に摩周岳で発見した超古代文明といくつかの類似性が見られる別の遺跡が、北海道から遠く離れたこのオーストラリア沖の小さな島で見つかった。報せを聞いた宏信は直ちにニューカレドニアに駆けつけ、およそ一万年前に建てられた神殿の跡だと推測されるこの遺跡の詳しい調査に乗り出したのである。もしこれほど離れた場所に同じ文化の痕跡があるとすれば、それは超古代文明が北海道や日本列島のような一地方のみならず、世界的な規模で栄えていた驚くほど広大な国家だったということになる。

「一つだけ既に分かっているのは、この神殿で祀られていた神の名前だね。厳密に正確な発音かどうかは必ずしも断定できないが、この島の人々はどうやらロギエルという神を崇拝していたらしい」

「へえ。ロギエル……ですか」

 今のところ宏信が読み解けたのはそれだけで、この島の神殿で行なわれていた超古代のロギエル信仰が具体的にどのようなものだったかについてはまだほとんど不明のままである。世紀の大発見に気が逸ってしまうのは確かだが、決して焦る必要はない。繁栄を謳歌していた超古代の人々がどんな神を信じていたかについては、時間をかけてゆっくり解明していけばいいだろうと彼は考えていた。

「ラーティブさんからメールが来てるよ。何か分かったことはないか、早く報告してくれってさ。発掘に取りかかってまだ三日目だと言うのに、気の早い人だなあ」

「それだけ関心があるってことですよ。歴史のことなんて何も分かってない無理解なスポンサーより、ずっとありがたいじゃないですか。取りあえず、その判明したばかりの神様の名前だけでも教えてあげたらどうです?」

「そうだな。そうしよう」

 スマートフォンを操作して、宏信はドーハの豪邸で返信を待っているラーティブに英語で返事を書くと、送信ボタンを押してはるか遠くのアラビア半島へとメールを送ったのであった。



「ファル、ただいま!」

 旭川郊外の栗原家。未玖が学校から帰って来ると、ファルハードは甲高い鳴き声を上げながら大喜びで玄関まで迎えに出て、大きくなってきた背中の翼で羽ばたいて彼女の胸に抱きついた。

「寂しかった? 拓矢ももうすぐ来るわよ」

 拓矢が遊びに来ると、ファルハードは彼に対しても心底嬉しそうに甘える。用事があって拓矢が栗原家に顔を出せない日には、ファルハードはまるで父親を探し求めるかのように寂しげに鳴くのだった。

「よしファル、行けっ!」

「おいで! ファル!」

 ファルハードを抱き上げた拓矢が部屋の隅に立ち、テーブルを挟んで対角線上に立っている未玖がファルハードを呼ぶ。すると大好きな未玖の元へ、ファルハードはまだぎこちない不安定な飛び方で一生懸命に飛んで行くのだ。飼い始めて半年ほど経つと、二人はこうした飛行の練習もファルハードにさせるようになった。

「いや、ですからね。うちで竜を飼ってるんですよ。それでこれはどんな生き物なのか、そちらで調べてはもらえんかと……いや、本当なんですよ。嘘じゃないって言ってるじゃないですか!」

「あーあ。おじいちゃん、また信じてもらえてない」

 頑張って自分の元まで飛んできたファルハードを受け止めた未玖が抱き締めて撫で回している横で、電話をしている道郎がまたも説明に苦慮している。当初から、この謎めいた生物についてはぜひ専門家に調査を依頼したいと各地の大学や研究所などにあちこち電話をかけていた道郎だったが、どこからもまともに相手にされず、研究を引き受けてくれる所は一つもなかった。

「だからイタズラ電話なんかじゃありませんって……何っ、認知症? 介護サービスを紹介しましょうかだと? 失礼な! わしはまだボケてなどおらん!」

 冗談か、そうでなければ痴呆老人の妄想だろうとあしらわれて怒った道郎は電話を切ってしまった。どこに連絡しても毎回こんな調子で、専門機関による研究は一向にしてもらえないままではあったが、未玖たちにとても懐いているファルハードは人間のペットとしての生活によく馴染み、また未玖たちの側もファルハードの性格や習性を理解して、特に大きな支障もなく仲良く一緒に暮らすことができていた。

 異変が見られるようになったのは、ファルハードを飼い始めて一年になる秋のことである。体長が当初の倍の四十センチメートルほどにまで成長し、飛ぶのも上手になって家の中を自在に飛び回り始めたファルハードは、ある時から急に前脚の爪で部屋の窓ガラスを引っ掻き、しきりに外へ出たがるような仕草をするようになったのだ。

「最近どうしたのかな? ファル」

 出会った時にまだ生まれたばかりだったとすれば、そろそろ満一歳。見るからに子供という丸みのある外見が徐々にスマートな剽悍さを帯び、成体の姿に近づいてきたファルハードの突然の行動の変化に未玖は戸惑った。

「巣立ちの時が、来たのかも知れんな」

 家族のようにずっと大切に育ててきたこの未知の生物が生まれ持っている本能を察して、道郎は深く嘆息しながら言った。
 ツバメのひな が大きくなれば巣から飛び立っていくように、ドラゴンもやがては親離れし、自由を求めて大空へと羽ばたいていくものなのかも知れない。立派な翼を持って十分な飛行能力を手にしたファルハードは、既にその成長段階に達したのだ。

「そっか……。ファル、もう一人前になったんだね」

「そろそろ野生に還してやるのが、いいのかもな」

 別れはつらいが、自然の習性を押さえつけていつまでも閉じ込めておくのは人間の身勝手なエゴであり、動物にとっては可哀想なことだろう。
 一匹だけで本当に生きていけるのか、また、このような特殊な生物を野生化させて自由に行動させれば何か大変な事態を招いたりしないのかという点は当然よく考えなければならなかったが、大人しい性質で太陽光などからの熱を食糧とするこのドラゴンは人間や他の動物を襲ったり、草木や農作物を食い荒らしたりして害獣となる恐れはまずなさそうである。研究施設や動物園などに預けるという選択肢も以前から考えてはいたものの、どこにも本気で取り合ってもらえず全く話が進んでいない。
 道郎も交えて何度もよく話し合い、悩んだ末に気持ちの整理をようやくつけた未玖と拓矢はある日、未玖の家のベランダの窓を大きく開けてファルハードを外の世界へ解き放つことにした。

「お別れよ。さあ、行きなさい。ファル」

 窓が開かれたのを見たファルハードは一瞬びっくりした様子で周囲をきょろきょろと見回していたが、やがて飼い主たちがしてくれたことの意図を悟って寂しそうに鳴き、今までの感謝と別れの挨拶をするように道郎と拓矢、そして未玖の手に順番に鼻を擦りつけていつもの愛情表現をした。

「ありがとう。ファル。短い間だったけど、一緒に過ごせて楽しかったわ」

 あふれそうになる涙を堪えつつ、赤く美しい鱗に覆われたファルハードの頬に未玖がさよならのキスをすると、それに応えて大きく鳴いたファルハードは翼を広げて彼女の手から勢いよく飛び立ち、どんどん高度を上げて空の彼方へと消えていった。

「さよなら! ファル!」

「元気でな!」

 出会いから、ちょうど一年。あの暗くて寒かった嵐の夕とは正反対の、爽やかな秋晴れの朝であった。
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