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#32 乾いた音
しおりを挟むお気に召しませんか、と男が言った。父よりも若く見える貴族の男だ。彼はルーファスが帰国したあとから出入りするようになっており、王城には今、そうした者が増えていた。新規の役職があちこちに創設され、縁故による指名が横行しているためである。この男の役目はルーファスに花嫁候補を引き合わせることだった。
机には「花嫁候補」とは名ばかりの娼婦たちの姿絵が並んでいる。いずれも男が経営する娼館の女たちだった。娼館にお忍びで通い、心から愛した娼婦を妾として迎えた国王が過去にないでもないが、当代国王の王妃はもともと王家とつながりの深い貴族の娘だったし、祖母も、祖母の母もずっとそうだった。“リュカ”であった時分だってそうだ。婿として名を挙げるのは由緒正しい家柄の貴族の令息ばかりだった。
ルーファスは石を飲みこむような気持ちで姿絵を見る。落ちぶれ力を失った王家の血の、これが現在の価値というわけだ。
ルーファスは黙って席を立った。断った件数は二桁を超えている。いつまでも「花嫁」を選ばないルーファスのそれを「抵抗」「時間稼ぎ」と言い、あるいは「使い方を知らないのではないか」と下世話な噂をささやく者は少なくなかった。
自室に見覚えのない茶器や道具類が置かれるようになったのはそのころからだ。ルーファスは知らなかったが、いずれも娼館に置かれているものだった。曰く、「役に立たない」男客を娼婦がそれらを用いて励ますのである。
ベッドでスタンバイしていた「花嫁」に喜々と説明され、ルーファスはすぐに女を追いだした。女の触れたところがけがらわしくてならず、吐き気が止まらなかった。
「ユーゴ、……」
うちすてられた病人のように床に伏したままつぶやく。ぼんやりと腕をあげて、ルーファスは吐しゃ物に汚れた自分の髪をとった。山賊に切られ短くなった髪は、元通りにはほど遠いもののずいぶん伸びて、今は編めるほどになっていた。まるで太陽の光を編んだかのようだと、ジーンや出会うひとびとが褒めてくれたものだ。ユーゴも言葉にはしないがときどきうっとりとした目で眺めていたのを知っている。
「……?」
ルーファスはにわかに目を疑った。はじめは何かの見間違いだと思った。だが、ユーゴの好きだったルーファスの金色の髪は、ルーファスの目の前でじょじょに漆黒の色に染まり始めていた。
ルーファスは悲鳴をあげた。
*
魔物がいる。あっちにも、こっちにも。
「助けて、ルーファス!」
母が呼ぶ。父が呼ぶ。あるいは旅の中で出会った人々が、こっちに魔物が出た、あっちに魔物が出たと助けを求める。ルーファスはそのたびに燕のように飛んで魔物を斬っていく。こっち、あっち、またこっち。そっち。
「ルーファス!」
「ルーファス王子!」
これは夢だ、わかっている。けれど、どうしてそれが無視する理由になりえるだろう。もしも目が覚めて現実になっていたらどうする? これが夢ではなかったとしたら。
「ルーファス!」
「王子!」
西から東へ、北から南へ。あっちへこっちへと走り回るけれど、ルーファスが一体斬る間に声は十増え二十増えついには累乗をともなって、最後には人間が魔物なのか魔物が人間なのかわからなくなってしまう。魔物だと思って斬る、しかしそれは人間だった。人間だと思って助ける、しかしそれは魔物だった。
けして間違えてはいけないのに、区別をする方法がわからない。ひどい、ひどいとルーファスの「間違えた」人びとが恨み言を発する。なぜ殺すのか、あなたは我々を、地上を守ってくれるのではないのか。
(やめて)
耳をふさぎたい、けれど指が大剣を離さない。疲れた、もう休みたい。けれど足それ自身が意思を持っているかのように駆けまわる。逃げてしまいたい、けれど戦えとどこからか声がルーファスに命じるのだった。それが約束だったはずだ、と。
(だって、)
さながら蟻地獄のように魔物に埋もれていきながらルーファスは叫ぶ。
(ここには魔物しかいません。人間なんてどこにもいない、守るべき人間なんてどこにもいないじゃないですか!)
己の都合しか考えない醜い魔物しかいない。守られることしか求めない、自分たちが生みだしたくせに自分で戦うことをしないずるい生き物しかいない。
誰か、誰か、誰か。
その『誰か』がどれほどながいながい時間を苦しみ、待ち続け、その身を削っていたかも知らずに。
『その通りだ』
ハ、とルーファスは手元を見る。アーガンジュの鮮烈で光をともなった赤い炎の根元に黒く錆びのような点がにじみだしていた。しまったと思うが遅い。ルーファスの心に生じた負を吸い込んでいくように、またたくまにそれは広がっていく。
(だめだ)
思うが止められない。エドモントの力を映したように澄んだ色がどんどん穢れた、汚らしい色に変わっていく。ルーファスのせいで。そしてついに黒く邪悪に染まった炎は、今度は地上の負をエネルギー源に、魔物を召喚する。炎の走った場所から魔物が生まれるのだ。
「魔王め!」
父と母が罵る。
魔王め、魔王めとひとびとが蔑む。そのなかには旅の間に知り合った人やルーファスに親切にしてくれた人の姿もあった。ジーンやミュッセンの姿もあった。ルーファスはそれらへ必死に訴える。違う、自分は魔王なんかじゃない。
「私は、――!」
ユーゴ、と呼んだ。奇跡のように群衆の中にその姿を見つけて手を伸ばす。こんなに殺気だった場所で、彼はのんきにリンゴをかじっていた。ほっとすると同時どうして助けてくれないのかと思って、ルーファスはもう一度ユーゴの名前を呼ぶ。
「なんだよ、おまえ」
けれどユーゴは、不快そうにルーファスを睨んで言った。ナッツ色のひとみを敵意にとがらせ、その手にルーファスの見知った大剣を現す。
「おれに、魔物の知り合いはいねー」
「!」
ユーゴの言う通りだった。ルーファスは真っ黒で醜悪な魔物の姿をしていて、ユーゴの隣には彼にまもられるようにして「ルーファス」がいた。
『違います、ユーゴ!』
魔物のルーファスはうったえる。ルーファスには見えていた。ユーゴの隣にいる「ルーファス」はヴァッテンで、あるいはジーンの別邸で遭遇したあの魔物だった。
「ユーゴ!」
自分の声で目を覚ます。まただ。ぐったりとルーファスはうなだれる。まだ心臓が強く鼓動している。
(わらっていた……)
ユーゴの隣にいた「ルーファス」、黒い魔物は愉快そうに笑っていた。そしてたしかにこう言ったのだった。堕ちろ、と。
「……」
眩暈からの回復を待ってベッドから降り、ルーファスは身支度をする。髪はすっかり漆黒に変わってしまった。前髪に隠れる範囲内ではあるが、額の生え際近くにケロイドのようなアザがあって、日に日に範囲が広がってきているようだった。
ルーファスはこれと同じものを以前に見たことがある。魔物になりかけていたドハラに生じていたものだ。
(私も魔物になりかけているということなのだろうか)
怖いと思うのに心は不気味なくらい静かだった。まだ実感がともなっていないのか、それともあまりにも多くのことがありすぎて処理しきれていないだけなのか。
部屋から出て廊下をゆく。大声を出したはずなのに誰もかけこんでこないのは古くから城で働いていた多くが暇を出されたためだった。かわりにずいぶん身なりの怪しい者が増え、絵画や装飾が不在になっている光景も散見される機会が増えていた。
ルーファスの突然の髪色の変化については、誰もが気づいているはずだが、直接に口にする者は少ない。もともと空気のよそよそしい静かな城だったが、この頃は廃墟のような乾いた音が聞こえてくる。卑しい物欲が集まり盗掘のような行いをはたらくのはそのためだ。
(滅びの音)
ルーファスが連れてきた。だから民はルーファスを憎む。死を強く望む。それは誰もルーファスに期待していないことを意味していた。こうして毎日出かけて黒い魔物と戦うルーファスの行いになんの意味も見出していない。それによって何かが改善されたり希望がもたらされることを期待していない。
いなくてもいい存在。
改めて思い至ると同時、ルーファスの心の中で乾いた音が鳴る。
――たとえ残らぬ名だとしても
――俺の国だ。守るべき、俺の
覚えている。神にでもなく王にでもなく民にでもなく、その宣言は己に向けたものだった。ただ己に刻むためだけの宣言。ひとりごとだ。だが、聴衆も仰々しい形式も祝福もない、不潔でカビ臭い陰気なあの場所でこぼされた彼の感慨を、ルーファスは尊くまぶしいと思った。不純物のない誓い。だからミュッセンは応えたのだろうと思う。そんなふうに自分もなりたいと思った。
だけど。
またひとつ、乾いた音が鳴る。膝から急に力が抜け、ルーファスは体勢を大きく崩した。柄が指から離れる。舌打ちするように大剣が炎を吐き、魔物が火炎に包まれ焼失した。
(私は――)
森の音、鳥の声が消えて目の前が暗くなる。ざわざわと頭の奥から声がささやいた。恨め、憎め。もっと絶望しろ。
転がっているアーガンジュは見えるのに指が震えてうまく力が入らない。息を吸おうと口を動かすと、じゃり、と歯が土を噛む。
「私、……」
ユーゴはよく言っていた。気持ちが落ち込むのは腹が減っているからだと。だからエドモントに帰ってからも、ルーファスは食事に気を付けていたのだ。だけど、わざわざ混入される異物がルーファスの食欲をけずり、体がしだいに欲しなくなっていった。
そのまま土を飲みこんで、ルーファスは笑う。伸ばした指は柄に届かないまま、内側に握りこまれた。
「私、…なんのために、……」
このままではいけない。思うのに、落ちていく心を止めることができない。何のために、自分は戦っているのか。何を守るために。
ざわりと空気が揺れて、やがてルーファスの足もとから影が音もなく伸びる。宙をぼんやりと泳ぐうつろな一対の目がひとつ、またひとつと増え群をつくって、その場にゆらゆらと揺れた。大剣が怒鳴るように炎をおこすけれど、ルーファスには届かない。吸水していくようにそれは黒く根元から色を変え、どろりと溶けたしずくから新たな魔物がかたちを成した。
夢と同じように。
「ま、魔王だ……!」
異常を感じて様子を見にきたらしい騎士がおそろしげな声でつぶやいた。すぐに矢をつがえようとするも、恐怖のためか弦から矢が落ちてしまう。ルーファスはゆっくりと騎士をふりむいた。
「だ、誰か……ッ!」
それが騎士の人間として発した最後の肉声になった。
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