だから、おまえとはもうしない

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#7 これって病気ですか?

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 第六寮内で一番の早起きは礼音だ。異世界に召喚されて早十日、とくにグラウンドができてからは順調に距離を伸ばしている。
「おはよう、八日市ようかいちくん」

 礼音の次に早いのは広大だ。すでに朝食の準備がはじまっているようで、ダイニングキッチンはすでにおいしそうなにおいで満ちていた。礼音たちの世界にあるキッチンコンロと同じで、スイッチを入れればいつでも火を使うことができる。電気や水道同様、これも魔王の魔力を動力源としたものだ。
 飲食店にあるような深さのある寸胴鍋をコンロのうえでまぜながら、広大が言う。

「今日は肉があるぜ」
「え、うそ」
「嘘言ってどーすんだよ。昨日の夜だったかな、千代田ちよだが持って帰ってきた」

 礼音が勢いカウンターに身を乗り出すと、広大が片手を振ってそれを遠ざけた。汗臭いと思いきり顔をしかめられ、礼音はすごすごと身を引く。
「明が? どこから?」
「どこからも何も、肉屋もスーパーもねえんだから自分でしとめたんだろ、魔物を」
「てことは、魔物の肉!? どうやって?」

 このあたりをうろついている魔物といえば、大きくて凶暴そうで、いかにも肉食ですといわんばかりの面構えばかりなのに。さあな、と広大が肩をすくめた。
「しっかり下処理まで済ませてあった。まあ、昨日の試合でいろいろ思うところがあったんだろうよ。やろうも活躍できなかったクチだからな」
「いや、それにしたって、……。うーん、明っていったい何者なんだろ」
 一人考えながら、礼音は風呂場で汗を流す。洗面所に守仁を見つけて「おはよ」と声をかけた。朝が弱いらしい守仁はぼーっとしていて、礼音の声を認識できないようだ。代わりに「おす!」と千歳がその隣から元気よく顔をあげる。

「今日も走ってたんだな。俺なんか体しんどくてなかなか起きれなかったのに」
「肩や腕に違和感は?」

 顔を洗ってようやく頭が動き始めたらしい。守仁に問われ、礼音は首を横に振った。
「ほら、寝る前に長篠くんがマッサージしてくれたし。平気」
「状況をみながらなるべく継投けいとうでいくつもりだけど、違和感や痛みがあったらすぐに言って」

 継投とは投手が交代しながら投げていく戦術をいう。投球は肩や腕を酷使するのでそれらを休めるためだったり、試合の流れや投手の得意な球種、その日の調子などに応じての投入だったり用い方はさまざまだが、たとえばはじめの五回まで投げたらまた別の投手に交代する、という具合だ。

 守仁の隣で千歳がうなずく。
「投手って結構ハードなポジションでさ。マウンド自体が内野で独立してるし、ランナーがいる状況なら塁からもバッターボックスからもプレッシャーかかってくるだろ。うっかり満塁にして打たれようものなら責任感半端ないし。思い詰めるタイプだとガチで鬱になるからな」

 千歳が苦い思い出を振り返るように両肩をすくめてみせる。まさに昨日の試合だ。う、と怯んだ礼音に守仁が言う。
「打たれ方だよ。同じ“打たれた”でも、相手の得点になってしまう球と、アウトにつなげて相手の攻撃を封じられる球がある。昨日はぼくのリードミスも多かった。立科のせいじゃない」
「初めてマウンド立ってあれだけ投げられれば充分っしょ。ぶっちゃけ俺、本番いけると思ってなかったもん。メンタルの強さだけで充分投手向きだから、安心しろよ!」
「朝から盛り上がってるな」
「あ、明さん、おはようございます!」

 千歳が姿勢を正してあいさつした。守仁がそれに倣う。
「おはようございます、明さん」
「ああ、おはよ」
 明がおかしそうに笑った。

「礼音のことは呼び捨てなのに、なんで俺や八日市には敬称つけるんだ? 長篠なんか一年生なんだろ? こう見えて、礼音は俺や八日市と同じ最上級生だぞ?」
「なんでって言われても、…なあ?」
「……」

 明が顔を洗う後ろ、直立不動のまま千歳が守仁と顔を見合わせる。もの思うようにうつむき、守仁がめがねをかけ直した。軽く首をふると、やわらかそうな髪が室内灯の光をはねかえす。
「気になるなら、…変える、けど」
 いつもはまっすぐに礼音を見る視線が一度礼音を見、それから、頼りなげにそらされた。グラウンドではあんなに落ち着いて大きく見えるのに、急にこどもっぽい表情を見せられて、礼音は意外な気持ちになる。

(長篠くんって謎だよなー)

 思えば最初、彼は野球に関してあまり積極性を見せなかった。中学まではやっていたというから、高校進学の際、野球そのものから遠ざかるために、外見の印象ごと変えたのだろう。なのに今は、誰よりも親身に礼音たちに野球を教えてくれて、チームの中心に立ち、熱心かつ積極的に取り組んでいる。

(投手を決める理由が指がきれいだからってのも、考えてみたらアレだよなあ。…喜んじゃったけど)
 千歳によれば、特に投球は指先の感覚がものを言うので、指がきれいに越したことはないのだそうだ。ただ、礼音の指や手の形が投手向きかといえば必ずしもそうではないらしい。むしろさして関係はないと彼は言った。

(あんまりこういうこと考えたくねえけど、もしかして前組んでたピッチャーの手に、オレの手が似てたとか……)

 守仁は見た目通り無口だし、礼音も礼音で、毎日練習と野球を学ぶことで頭がいっぱいだ。部屋に帰っても疲れて寝るか野球の話ばかりで、いまだに守仁の家族構成すら知らない。
(でも、別に長篠くんと友達ってわけでもないし、本人が話さないことを根掘り葉掘り聞くのもなー)
 思いながら、礼音は返す。
「学校の先輩後輩じゃないんだし気にしてないよ。長篠くんには教えてもらうばかりだし、本当に頼りになるから、たまにオレの方が年下なのかなって思っちゃうし――」
 言いながら、礼音は思いついた。じゃあさ、と守仁の目を見上げた。

「名前で呼んでよ。本に書いてあった。オレたち、“バッテリー”なんだよな? そっちのが相棒感がない?」
「……“相棒”」

 守仁がくり返す。明がタオルで顔をふきながらからかうように言った。
「礼音、キャッチャーが困ってるぞ」
「なんだよー、もとはといえば明がパワハラするからだろ。ただでさえ上下関係って苦手なのに」
「怒るなよ、単純に興味があったんだ」
 明が笑う。そこへ、ほかの寮生たちが洗面所に入ってきた。

「あー、だるい…」
「眠い」
「足いてえー」
 しんどそうにしながらも起きてきたのは、決められた時間通りにテーブルにつかないと広大が食事を出してくれないからだ。かといって、勝手に彼の聖域であるキッチンへ足を踏み入れようものなら、さらなる制裁が待っている。
「早いなー、おまえら」

 おはよう、と礼音たちに声をかけてきたのは、加西かさい康介こうすけだった。勇多の同室で、昨日の試合では三塁サードを守っていた選手だ。勇多と同じ二年生で、よく一緒に行動している姿をみかける。
 旭河は? と明が問い、康介が返した。
「まだ寝てるっす。あいつバカでさあ、皆が寝静まったあと、一人で自主練してたみたいなんだ」
「最初はやってられるかって言ってたのに、活躍していよいよ目覚めちゃったんかな」
「ヒヒ、寝かしとけ寝かしとけ。あいつの分食っちまおうぜ」

 寮生活を想定してひろく作られているものの、さすがに18名全員を収容することはできない。あとから入ってきた寮生たちに押し出されるようにして、礼音たちは洗面所を出る。えらいなあ、と礼音は感嘆した。
「あんなに活躍してたのにまだ練習してたんだ。オレも見習わないと」
「ただでさえ慣れない試合だったろうし、本当は休んだ方がいいんだけどな。疲れが残るし、かえって効率悪いじゃん」
 千歳が礼音に釘をさすように言う。

「むかつくやつだけど、運動神経は申し分ないもんな。ショートは旭河で本決定?」

 守仁がうなずいた。
「そうなると思う。内野で球を食い止められれば、それだけピッチャーは投げやすくなる」
「だな。グラブの扱いはまだぎこちないけど、ボールとって投げるまでのモーション短いのがいい。バスケ部だけあってバネの使い方がうまいし。練習で経験積ませて判断速度あげて、あとはセカンドとの連携次第か。ああいうやつがいるとさ、楽しくならない?」
「うん、わかる」

 守仁が笑う。礼音と話をするときには見せない、選手としての顔だった。いいなあ、と礼音は思う。早く守仁や千歳と対等に話ができるようになりたい。
「朝飯間に合ってよかったな、MVP!」
 おはよう。トイレから出てきた勇多に気づき、千歳が片手をあげた。明が昨夜の自主練習をねぎらい、「なんで知ってるんだよ」と勇多が狼狽する。便乗して礼音がほめたたえると、勇多がますます真っ赤になった。

「うるせーな、そういうつもりでやったんじゃねえよ!」
「なあなあ、旭河くん、今度オレとも練習しよう!」
「えっ…!? 二人だけで?」
「やめとけよ、立科。また舐められるぞ」

 ごくんと喉を鳴らした勇多から礼音を守るように、千歳が礼音と勇多の間に割り入る。そこへ広大が顔を出した。
「おめーら、廊下でくっちゃべってるんじゃねえよ! さっさと食え、片付かねーだろうが! 反省会するんだろ!」
「悪い悪い」
 明が言い、千歳が勇多を急かした。朝食を逃してなるかと勇多が洗面所へ方向を変える。

「…“礼音”」

 はじめは、勇多に呼ばれたのだと思った。
 え、と礼音はふりかえる。けれど勇多は驚いたような顔をしていた。ぞくぞくとのぼりあがってくるようなふるえを感じながら、礼音は彼を見る。
「礼音…。……さん…?」
 守仁が首をかしげていた。とっくに終わったはずの話題だと思っていたのに、ひそかにひきずっていたらしい。
 バッテリーは投手と捕手の人間関係が重要だと千歳がいっていたから、おそらくそのためなのだろう。それだけ。
 なのに、もっとそれ以上に重要なものがあるというように、礼音の体は熱を高めていく。

「……!」

 “礼音”。
 体が、礼音の心とは別の何かが、歓喜するように守仁の声を反芻する。響かせ、くりかえして、そのたびに礼音の体をなにか別のものにつくりかえていくのだった。熱い。
 熱くて苦しくてたまらない。

「…く……ぁ、……」

 気づくと礼音はその場に崩れるようにして座りこんでいた。どうしたどうしたと集まってくる者たちにきびきびと指示を出し、明が礼音を抱え上げる。
「明さん、」
 道を開けるよう千歳が先払いをしていく道すがら、勇多の姿を、礼音の目はとらえた。どうやら礼音を心配してくれているようだ。明が大丈夫だと返し、礼音の部屋がある二階に向かっていく。

「……、」
 体にこもっている熱を少しでもどうにかしたくて、礼音はぼんやりと口をひらいた。熱い。あふれそうなくらい口内はうるおっているのに、喉に強く渇きを感じる。
(水、……ほしいな…)
 外側だけを挙げれば高熱を出しているときと似ているのに、圧倒的に異なるのは、じくじくと下腹のあたりで存在感を増していく情欲だった。大事そうに礼音を抱える明の大きな手、肌にふれる指、たくましいからだや彼の発する体臭に、体の奥が飢えをうったえる。

(『早く、いますぐに――』)

 ほら、と声をかけられ、礼音は我に返る。明が礼音の体をベッドに横たえ、枕を直した。まるで白昼夢でも見ていたような感覚に首をかしげ、礼音はここまで自分を運んでくれた二人にごめん、と告げる。
 千歳が明るく言った。

「無意識のうちにストレスたまってたんだろ。無理してひどくなっても本末転倒だし、今日は休んだ方がいいと思う」
「体調を崩したときや怪我をしたときに連れていける医者がないのは問題だな」
「それも今度リンリンに聞いてみよう」
 互いにうなずきあい、それから明が千歳にいくつか伝言をいいつけた。千歳が部屋を出、室内に明と礼音が残る。

「抜いてやろうか?」

 やっぱり気づいてた。顔を隠すように掛け布団を引き上げ、礼音は明を睨む。まるで皆から礼音を隠すような、どうりでおかしな運び方をすると思ったのだ。セクハラだ、と礼音は勃起したままのそこを隠すように明に背を向ける。
「青島は気づいてないと思うぞ」
「そりゃどーもっ!」
「怒ることはないだろ。気になると思ってせっかく教えてやったのに」
 礼音は答えない。くくっと明が喉奥で笑った。「兄」が年下の弟妹にわざと負けてやるような笑い方だった。

「青島も言っていたが、まあ、いろいろあったからな。ゆっくりすればいいさ」

 そう言って、ごくあたりまえのように明の手が礼音にふれる。いいな、と一人っ子の礼音は彼の弟妹たちをうらやましく思った。両手で明の手を引き寄せて、礼音はつぶやく。
「長男って、みんなこういう感じなのかな」
 ほてった頬にのせる冷たいハンカチのような心地よさだった。明が礼音のしたいようにさせてくれるので、礼音は好意に甘えることにする。

(こういうのを、包容力っていうのかなあ)
 どんな弟妹なのかと礼音がたずねたとき、生意気でわがままだよと明は笑って言ったものだが、わかるような気がした。わがままを言っても大丈夫、ゆるしてもらえる。嫌われない。あいしてくれる。
 いざというときは「ここ」へ逃げ込めば絶対に大丈夫。森の動物たちが教えられなくても知っている大樹のようなひろさが、彼にはある。
 明が首をかしげた。

「どうかな。それより、顔色が少しましになったんじゃないか。そのまま寝るといい」
「ん……」

 言われてみると、あんなにも熱かったからだが嘘のように静まりつつあった。下腹のうずきももうない。
 おやすみ、と明が言う。じょじょに閉じていく視界の中で、そうして礼音は見た。明の周囲を、大洋を思わせるおおらかな青い光が包んでいた。


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