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第21話「亀裂」
第21話「亀裂」
事務所に戻ると、早川が待っていた。
「葉山さん、少しいいですか」
声のトーンが、いつもと違った。蒼介は上着を脱ぎながら「どうした」と言った。
「相談があって」
早川はデスクの前に立ったまま、視線を少し落とした。
「来月から、別の事務所に移ろうと思っています」
蒼介は手を止めた。
「転職、ということか」
「はい。先月から少し考えていて、先週内定をいただきました」
早川は顔を上げた。目が合った。二年目のスタッフだ。澪が採用面接をした子だ。
「急で申し訳ないとは思っています。ただ、今の状況では自分のスキルを積めないと判断して」
「今の状況、というのは」
早川は少し間を置いた。
「坂本さんがいなくなって、奥さんもいなくなって、実務が回らなくなっています。僕がやれることはやっています。でも限界があって、そのしわ寄せが設計の勉強の時間を削っています。このまま続けても、建築家として成長できないと思いました」
蒼介は何も言えなかった。
早川の言っていることは正しかった。反論の余地がなかった。
「引き継ぎはきちんとします。今抱えている案件のリストと、進捗状況をまとめます。期間は葉山さんのご都合に合わせます」
「……わかった」
それだけ言うのが、精一杯だった。
早川は「失礼します」と言って、自分のデスクに戻った。
蒼介は椅子に座って、事務所を見渡した。
デスクが四つある。澪のデスク、坂本のデスク、早川のデスク、蒼介のデスク。四つのうち、今使われているのは二つだけだ。来月になれば、一つになる。
蒼介は目を閉じた。
独立して五年。事務所を軌道に乗せた、と思っていた。仕事は増えた。クライアントがついた。業界での名前も、少しずつ広がってきた。
でも実際には何が起きていたか。
澪が支えていた。坂本が動いていた。早川が実務を拾っていた。蒼介はその上に立って、設計だけをしていた。それを「事務所を経営している」と思っていた。
勘違いだった。
夜になって、蒼介は一人でデスクに向かった。
品川の図面を開く。断熱仕様の修正だ。本来なら一時間もかからない作業のはずだが、確認しなければならない書類が多い。澪がいれば、関連書類はすでに揃えてあったはずだ。
蒼介は自分でキャビネットを開け、ファイルを探した。
品川の案件のファイルは、薄いグレーだ。澪が整理したものだ。中に仕様書の控えがあった。施工会社とのやりとりの記録もある。澪の筆跡で、日付と内容が几帳面に書き込まれていた。
蒼介はそのメモを読んだ。
澪は知っていた。
外壁仕様について、施工会社と一度確認が必要だというメモが、三ヶ月前の日付で書かれていた。澪がいたとき、すでに気づいていた。おそらく蒼介に伝えようとして、伝えられなかったのか。あるいは伝えたが、蒼介が忘れたのか。
どちらにせよ、今起きている問題の芽は、澪が在籍中にすでに見えていた。
澪はそれを記録していた。
蒼介はファイルを閉じた。
閉じてから、また開いた。
澪の筆跡を、もう一度見た。
几帳面で、少し右上がりの文字だ。蒼介はこの文字を、五年間毎日見ていた。付箋に、メモに、ファイルのラベルに。見ていたが、読んでいなかった。
いや、読んでいた。でも、そこに澪がいることを、感じていなかった。
文字は見ていた。人を見ていなかった。
蒼介は修正図面に向き直った。
シャープペンシルを持つ。線を引く。数字を書き込む。それだけのことを、一つずつやった。
深夜になって、修正が終わった。
蒼介は図面を眺めた。正しい仕様になっている。問題は解決した。でも何も解決していない、という感覚が同時にあった。
事務所に亀裂が入っている。
それは外壁の断熱仕様の話ではなく、もっと前から、もっと深いところに入っていた亀裂だ。蒼介がずっと気づかなかっただけで、最初から、そこにあったのかもしれない。
電気を消して、事務所を出た。
鍵を閉める音が、夜の静かな通りに響いた。
(第21話・了)
事務所に戻ると、早川が待っていた。
「葉山さん、少しいいですか」
声のトーンが、いつもと違った。蒼介は上着を脱ぎながら「どうした」と言った。
「相談があって」
早川はデスクの前に立ったまま、視線を少し落とした。
「来月から、別の事務所に移ろうと思っています」
蒼介は手を止めた。
「転職、ということか」
「はい。先月から少し考えていて、先週内定をいただきました」
早川は顔を上げた。目が合った。二年目のスタッフだ。澪が採用面接をした子だ。
「急で申し訳ないとは思っています。ただ、今の状況では自分のスキルを積めないと判断して」
「今の状況、というのは」
早川は少し間を置いた。
「坂本さんがいなくなって、奥さんもいなくなって、実務が回らなくなっています。僕がやれることはやっています。でも限界があって、そのしわ寄せが設計の勉強の時間を削っています。このまま続けても、建築家として成長できないと思いました」
蒼介は何も言えなかった。
早川の言っていることは正しかった。反論の余地がなかった。
「引き継ぎはきちんとします。今抱えている案件のリストと、進捗状況をまとめます。期間は葉山さんのご都合に合わせます」
「……わかった」
それだけ言うのが、精一杯だった。
早川は「失礼します」と言って、自分のデスクに戻った。
蒼介は椅子に座って、事務所を見渡した。
デスクが四つある。澪のデスク、坂本のデスク、早川のデスク、蒼介のデスク。四つのうち、今使われているのは二つだけだ。来月になれば、一つになる。
蒼介は目を閉じた。
独立して五年。事務所を軌道に乗せた、と思っていた。仕事は増えた。クライアントがついた。業界での名前も、少しずつ広がってきた。
でも実際には何が起きていたか。
澪が支えていた。坂本が動いていた。早川が実務を拾っていた。蒼介はその上に立って、設計だけをしていた。それを「事務所を経営している」と思っていた。
勘違いだった。
夜になって、蒼介は一人でデスクに向かった。
品川の図面を開く。断熱仕様の修正だ。本来なら一時間もかからない作業のはずだが、確認しなければならない書類が多い。澪がいれば、関連書類はすでに揃えてあったはずだ。
蒼介は自分でキャビネットを開け、ファイルを探した。
品川の案件のファイルは、薄いグレーだ。澪が整理したものだ。中に仕様書の控えがあった。施工会社とのやりとりの記録もある。澪の筆跡で、日付と内容が几帳面に書き込まれていた。
蒼介はそのメモを読んだ。
澪は知っていた。
外壁仕様について、施工会社と一度確認が必要だというメモが、三ヶ月前の日付で書かれていた。澪がいたとき、すでに気づいていた。おそらく蒼介に伝えようとして、伝えられなかったのか。あるいは伝えたが、蒼介が忘れたのか。
どちらにせよ、今起きている問題の芽は、澪が在籍中にすでに見えていた。
澪はそれを記録していた。
蒼介はファイルを閉じた。
閉じてから、また開いた。
澪の筆跡を、もう一度見た。
几帳面で、少し右上がりの文字だ。蒼介はこの文字を、五年間毎日見ていた。付箋に、メモに、ファイルのラベルに。見ていたが、読んでいなかった。
いや、読んでいた。でも、そこに澪がいることを、感じていなかった。
文字は見ていた。人を見ていなかった。
蒼介は修正図面に向き直った。
シャープペンシルを持つ。線を引く。数字を書き込む。それだけのことを、一つずつやった。
深夜になって、修正が終わった。
蒼介は図面を眺めた。正しい仕様になっている。問題は解決した。でも何も解決していない、という感覚が同時にあった。
事務所に亀裂が入っている。
それは外壁の断熱仕様の話ではなく、もっと前から、もっと深いところに入っていた亀裂だ。蒼介がずっと気づかなかっただけで、最初から、そこにあったのかもしれない。
電気を消して、事務所を出た。
鍵を閉める音が、夜の静かな通りに響いた。
(第21話・了)
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