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夜明け前に、門をくぐった
夜明け前に、門をくぐった
離縁状を書き終えたのは、夜半を過ぎた頃だった。
羽根ペンを置き、乾いた羊皮紙を丁寧に折りたたむ。封はしなかった。ヴァルクがすぐに開けられるように。
執務机の上に、それを置いた。
次に引き出しを開け、小箱を取り出した。今夜だけは、もう一度だけ、中を確認しておきたかった。
蓋を開ける。
薄青の石が、燭台の灯りを受けてかすかに光った。
イリスはその石を、指先でそっと摘まんだ。
二十二年前の冬のことを思い出す。イリスが七歳で、ヴァルクが十歳だった、あの日のことを。
*
その日、イリスは一人で森に入っていた。
屋敷の外れにある針葉樹の森は、子供が立ち入ることを禁じられていた。けれどあの頃のイリスは、禁じられると余計に踏み込みたくなる子供だった。母が昼寝をしている隙に、こっそり屋敷を抜け出した。
雪が降っていた。
森の中は白く静まり返り、足跡を残しながら歩いていると、遠くから低い唸り声が聞こえた。次の瞬間、木々の陰から影が動いた。
魔物だ、とわかった。小型だったが、子供一人では太刀打ちできない。イリスは咄嗟に走った。
転んだ。雪の中に顔から突っ込んだ。起き上がろうとしたとき、背後に気配があった。
振り返ると、少年が立っていた。
年上だろうか。青みがかった灰色の瞳をした、口元を結んだ少年だ。手に短剣を持ち、後ろの魔物を鋭く見据えていた。
少年は素早い動きで魔物を追い払い、イリスの前に膝をついた。
「怪我は」
「な、ない、です」
「一人で来るな。死ぬぞ」
怒っているのか心配しているのか、よくわからない口調だった。少年は立ち上がり、イリスの手を引いて森の出口まで連れていった。
別れ際、イリスは咄嗟にポケットの中のものを差し出した。
母にもらった護符だった。薄青の魔法石を小さな革袋に入れたもので、「魔物除けになる」と言われて肌身離さず持ち歩いていたものだ。
「貴方が持っていて。貴方の方が、ずっと危ない場所にいるから」
少年は一瞬、目を瞠った。それから無言で受け取り、踵を返して森の奥へ消えていった。
名前も聞かなかった。もう会えないと思った。
それきりだと思っていた。
*
石を箱に戻し、今度は手記の紙を広げた。
七歳のイリスが書いた文字は、今見ても危うい。線が太く、字間がばらばらで、ところどころ滲んでいる。それでも一文字一文字、丁寧に書こうとした跡がある。
書かずにいられなかったのだ、あの頃の自分は。
雪の日に会った少年のことを、誰かに話したかった。でも話せる相手がいなかった。だから紙に書いた。あの日見た灰色の瞳のこと、短い言葉のこと、名前も知らないまま別れたこと。
そして最後の一行。
幼い筆跡で、こう書かれていた。
「あの日、雪の中で貴方をたすけたのは、わたしでした」
イリスは紙を折りたたみ、石の隣に戻した。蓋を閉める。
そして、箱を棚の上に置いた。
ヴァルクが見つけやすい場所に。すぐには目に入らない場所に。離縁状を読んで、それでも何かが残るなら、きっとこの部屋へ来るだろう。そのときに、見つけてほしかった。
――これが、私からの最後の言葉です。
声には出さなかった。出す必要もなかった。
*
旅装束に着替え、荷物を手に取る。小さな鞄ひとつだ。五年間暮らした屋敷の持ち物など、ほとんど持ち出す気になれなかった。
廊下へ出る。階段を下りる。裏庭を抜ける。
勝手口の鍵を開け、夜気の中へ出る。
冷たい空気が頬を刺した。初秋の北方の朝は、今年も早い。
石畳を踏んで、門へ向かう。足音を殺す必要はもうないと思いながら、それでも自然と静かに歩いていた。五年間で染みついた習慣だ。
門の前で、一度だけ立ち止まった。
振り返ろうとして、やめた。
見なくても、わかっている。石造りの屋敷が夜の中に立っている。広間の壁には姉の肖像画がある。棚の上には小さな木箱がある。その中に、二十二年前の真実がある。
それで十分だ。
イリスは門をくぐった。
石畳から街道に出た瞬間、空の端がほんのりと白み始めた。夜明けが来る。
イリスは前を向いたまま、歩き続けた。
この足が向かう先には、まだ名前がない。でもそれでいいと思った。名前のない場所へ、自分の足で行く。それが今、イリスに残された唯一の、本当に自分のものだから。
夜明けの光が、街道の先に伸びていた。
―― 次話「サインは、もういただきました」
離縁状を書き終えたのは、夜半を過ぎた頃だった。
羽根ペンを置き、乾いた羊皮紙を丁寧に折りたたむ。封はしなかった。ヴァルクがすぐに開けられるように。
執務机の上に、それを置いた。
次に引き出しを開け、小箱を取り出した。今夜だけは、もう一度だけ、中を確認しておきたかった。
蓋を開ける。
薄青の石が、燭台の灯りを受けてかすかに光った。
イリスはその石を、指先でそっと摘まんだ。
二十二年前の冬のことを思い出す。イリスが七歳で、ヴァルクが十歳だった、あの日のことを。
*
その日、イリスは一人で森に入っていた。
屋敷の外れにある針葉樹の森は、子供が立ち入ることを禁じられていた。けれどあの頃のイリスは、禁じられると余計に踏み込みたくなる子供だった。母が昼寝をしている隙に、こっそり屋敷を抜け出した。
雪が降っていた。
森の中は白く静まり返り、足跡を残しながら歩いていると、遠くから低い唸り声が聞こえた。次の瞬間、木々の陰から影が動いた。
魔物だ、とわかった。小型だったが、子供一人では太刀打ちできない。イリスは咄嗟に走った。
転んだ。雪の中に顔から突っ込んだ。起き上がろうとしたとき、背後に気配があった。
振り返ると、少年が立っていた。
年上だろうか。青みがかった灰色の瞳をした、口元を結んだ少年だ。手に短剣を持ち、後ろの魔物を鋭く見据えていた。
少年は素早い動きで魔物を追い払い、イリスの前に膝をついた。
「怪我は」
「な、ない、です」
「一人で来るな。死ぬぞ」
怒っているのか心配しているのか、よくわからない口調だった。少年は立ち上がり、イリスの手を引いて森の出口まで連れていった。
別れ際、イリスは咄嗟にポケットの中のものを差し出した。
母にもらった護符だった。薄青の魔法石を小さな革袋に入れたもので、「魔物除けになる」と言われて肌身離さず持ち歩いていたものだ。
「貴方が持っていて。貴方の方が、ずっと危ない場所にいるから」
少年は一瞬、目を瞠った。それから無言で受け取り、踵を返して森の奥へ消えていった。
名前も聞かなかった。もう会えないと思った。
それきりだと思っていた。
*
石を箱に戻し、今度は手記の紙を広げた。
七歳のイリスが書いた文字は、今見ても危うい。線が太く、字間がばらばらで、ところどころ滲んでいる。それでも一文字一文字、丁寧に書こうとした跡がある。
書かずにいられなかったのだ、あの頃の自分は。
雪の日に会った少年のことを、誰かに話したかった。でも話せる相手がいなかった。だから紙に書いた。あの日見た灰色の瞳のこと、短い言葉のこと、名前も知らないまま別れたこと。
そして最後の一行。
幼い筆跡で、こう書かれていた。
「あの日、雪の中で貴方をたすけたのは、わたしでした」
イリスは紙を折りたたみ、石の隣に戻した。蓋を閉める。
そして、箱を棚の上に置いた。
ヴァルクが見つけやすい場所に。すぐには目に入らない場所に。離縁状を読んで、それでも何かが残るなら、きっとこの部屋へ来るだろう。そのときに、見つけてほしかった。
――これが、私からの最後の言葉です。
声には出さなかった。出す必要もなかった。
*
旅装束に着替え、荷物を手に取る。小さな鞄ひとつだ。五年間暮らした屋敷の持ち物など、ほとんど持ち出す気になれなかった。
廊下へ出る。階段を下りる。裏庭を抜ける。
勝手口の鍵を開け、夜気の中へ出る。
冷たい空気が頬を刺した。初秋の北方の朝は、今年も早い。
石畳を踏んで、門へ向かう。足音を殺す必要はもうないと思いながら、それでも自然と静かに歩いていた。五年間で染みついた習慣だ。
門の前で、一度だけ立ち止まった。
振り返ろうとして、やめた。
見なくても、わかっている。石造りの屋敷が夜の中に立っている。広間の壁には姉の肖像画がある。棚の上には小さな木箱がある。その中に、二十二年前の真実がある。
それで十分だ。
イリスは門をくぐった。
石畳から街道に出た瞬間、空の端がほんのりと白み始めた。夜明けが来る。
イリスは前を向いたまま、歩き続けた。
この足が向かう先には、まだ名前がない。でもそれでいいと思った。名前のない場所へ、自分の足で行く。それが今、イリスに残された唯一の、本当に自分のものだから。
夜明けの光が、街道の先に伸びていた。
―― 次話「サインは、もういただきました」
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