『愛されぬ身代わり妻ですが、真実はもう、あの小箱の中に置いてきました』

まさき

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世界が、音を立てて崩れた

 世界が、音を立てて崩れた
  
 イリス・フェルナ。
  
 その名前を、ヴァルクは紙の上で何度も目で追った。
  
 幼い筆跡で書かれた六文字。それだけのことなのに、目が離せなかった。頭が、その意味を正確に処理することを拒んでいるようだった。
  
 窓の外で、風が木々を揺らした。
  
 ヴァルクはようやく紙から目を上げ、部屋を見回した。薄暗かった部屋は、今は秋の光で満たされている。書架の本。空の化粧台。誰もいない寝台。
  
 この部屋に五年間、イリスがいた。
  
 イリス・フェルナが。
  
 *
  
 頭の中で、記憶が巻き戻り始めた。
  
 二十二年前の冬。ヴァルクは十歳で、父の許しを得ずに北の森へ入った。魔物の痕跡を自分の目で確かめたかった。子供らしい無謀さだった。
  
 魔物の群れに囲まれたとき、死を覚悟した。
  
 そこへ現れたのが、少女だった。
  
 小さかった。自分より年下に見えた。雪の中に転んで、それでも立ち上がろうとしていた。魔物の注意がその少女に向いた隙に、ヴァルクは短剣で魔物を追い払った。
  
 少女を森の出口まで送り届けた。それだけのつもりだった。
  
 ところが少女は、別れ際に護符を差し出した。
  
「貴方の方が、ずっと危ない場所にいるから」
  
 その言葉が、十歳のヴァルクの胸に刺さった。
  
 誰かに心配されたのは、初めてだった。父は厳しく、感情を見せることを許さなかった。母は早くに亡くなっていた。側近も騎士たちも、ヴァルクを主として扱いこそすれ、一人の子供として気遣う者はいなかった。
  
 だから、あの言葉が忘れられなかった。
  
 少女の名前を聞けばよかった、と後から何度も思った。顔はよく覚えていなかった。雪と混乱の中での出来事だ。ただ、小さな手と、あの言葉だけが、くっきりと記憶に残った。
  
 その後、護符は北の遠征で失った。あの子への唯一の繋がりを失ったと思って、ひどく落ち込んだ。
  
 縁談の話が持ち上がったのは、それから数年後だ。
  
 王都の伯爵家の令嬢。名はクローヴィア・フェルナ。
  
 フェルナ、という名に、ヴァルクは反応した。あの日の少女のことが頭をよぎった。まさかとは思いながら、顔合わせを望んだ。
  
 クローヴィアは美しい女性だった。雪の日の少女の面影があるような気がした。確信はなかったが、ヴァルクはそれを確信にしたかった。
  
 だから婚約した。
  
 *
  
 ヴァルクは手記を膝の上に置き、目を閉じた。
  
 クローヴィアが逃げた。代わりにイリスが来た。イリスとクローヴィアは異母姉妹で、顔が似ていた。ヴァルクはイリスをクローヴィアだと思い込み、五年間そのまま過ごした。
  
 ここまでは、知っていた。
  
 知らなかったのは、その先だ。
  
 二十二年前、雪の森にいたのはクローヴィアではなかった。イリスだった。七歳のイリスが、転んで、それでも立ち上がって、見知らぬ少年に護符を差し出した。
  
 ヴァルクが二十年以上探し続けた相手は、ずっと隣にいた。
  
 五年間、同じ屋敷で食事をとり、同じ廊下を歩き、毎朝毎晩顔を合わせていた。
  
 そして一度も、「イリス」と呼ばなかった。
  
 *
  
 椅子から立ち上がれなかった。
  
 膝の上の手記を見つめたまま、ヴァルクはしばらく動けなかった。胸の中で何かが崩れていく音がした。積み上げてきた何かが、音もなく、しかし確実に、崩れていく音だ。
  
 クローヴィアへの思慕。二十年以上抱き続けた初恋。あの護符と共に育てた、名前のない少女への感謝。
  
 それが全て、ヴァルクの思い違いだった。
  
 クローヴィアは、雪の森にいなかった。ヴァルクを救ったのはクローヴィアではなく、その妹だった。そしてその妹は、五年間「クローヴィア」と呼ばれ続けながら、この部屋で静かに生きていた。
  
 怒っていただろう。
  
 悲しかっただろう。
  
 それでもあの人は、一度も声を荒げなかった。泣き叫ばなかった。笑わなかったが、崩れもしなかった。ただ静かに、毎日をこなし続けた。
  
 そして離縁状を一枚置いて、夜明け前に消えた。
  
 ――私は、何をしていたのだ。
  
 その問いに、答えが出なかった。
  
 出せなかった。
  
 *
  
「旦那様」
  
 扉の外から、セリオの声がした。
  
「……入れ」
  
 自分の声が、いつもより低く出た。セリオが扉を開け、部屋に入った。ヴァルクの手元の手記と木箱を一瞥して、すぐに視線を前に戻した。
  
「何か、わかったか」
  
 セリオは少しの間、黙っていた。
  
「……旦那様に、申し上げなければならないことがございます」
  
 その声が、普段より静かだった。ヴァルクは顔を上げた。
  
 セリオの表情は、いつも通り静かだった。しかしその目の奥に、長い間抱えてきたものを、今日やっと下ろすときが来たような、そんな色があった。
  
「聞こう」
  
 ヴァルクは手記を箱に戻し、セリオを見た。
  
 窓の外で、風がまた木々を揺らした。秋の光が部屋を満たしていた。
  
 この部屋に五年間、イリスがいた。
  
 その事実だけが、ヴァルクの中でまだ、うまく形を成せないでいた。
  
 ―― 次話「五年間、私は知っておりました」
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