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五年間、私は知っておりました
五年間、私は知っておりました
セリオが話し始めたのは、二人が居間に移ってからのことだ。
ヴァルクは暖炉の前の椅子に腰を下ろし、セリオは向かいに座った。給仕を呼ばなかった。この話に、他の耳は要らない。
「婚礼の前日、伯爵家から書状が届きました」
セリオは背筋を伸ばしたまま、静かに切り出した。
「クローヴィア様が出奔されたこと。代わりに次女のイリス様がいらっしゃること。手配の都合上、私だけへの連絡でした」
ヴァルクは何も言わなかった。
「旦那様にすぐお伝えすべきでした。それはわかっておりました。ただ……」
「馬車から降りてきたときの、私の顔を見たのだろう」
セリオが僅かに目を伏せた。
「はい」
ヴァルクは暖炉の炎を見た。
長年待ち望んだ人が来たと信じた、あの朝の自分の顔を、セリオは見ていたのだ。それを前にして、言えなかった。そのことを、今のヴァルクには責める言葉が出なかった。
「それから五年間、機会を探しておりました。ですが旦那様はイリス様を疑うことなく、私も……臆しておりました」
「イリスは、知っていたのか。お前が真実を知っていることを」
「三年目の秋に、イリス様の方から私に聞いてこられました」
ヴァルクは顔を上げた。
「自分から」
「はい。単刀直入に。『なぜ私をイリスと呼ぶのか』と」
ヴァルクは少しの間、黙った。
三年目の秋。自分は何をしていた。遠征から戻り、領地の報告を受け、いつも通りの日々を送っていた。その間、妻は副官に真実を確かめていた。
「イリスは、何と言っていた」
「『今さらどうにもなりません』と」
その言葉が、静かにヴァルクの胸に落ちた。
怒りでも嘆きでもなく、ただそれだけを言って、受け入れていたのか。三年間、一人で抱えて。
*
「もう一つ、申し上げなければならないことがございます」
セリオが続けた。声が、わずかに低くなった。
「クローヴィア様のことでございます」
ヴァルクは黙って先を促した。
「出奔の後、クローヴィア様の行方を独自に調べておりました。旦那様にお伝えする前に、私自身で確かめたかったことがあったため」
「確かめたかったこととは」
セリオは一呼吸置いた。
「クローヴィア様が、雪の森の一件をご存知だったかどうか、です」
ヴァルクの目が、僅かに細くなった。
「……どういうことだ」
「婚約が決まったとき、フェルナ伯爵家の中でその話が出たようです。旦那様が幼少期に森で助けられたこと、それがきっかけで縁談に繋がったこと。家の者は皆、その話を知っていた」
「つまり」
「クローヴィア様も、その話を知っておられた。そして、実際に森にいたのがイリス様であることも、知っておられた可能性が高い」
居間が、しんと静まった。
暖炉の薪が一度爆ぜて、また静かになった。
ヴァルクは炎を見つめたまま、その意味を頭の中で展開した。
クローヴィアは、真実を知っていた。雪の森にいたのは自分ではなく、妹のイリスだと知っていた。それでも婚約を受け入れた。そして直前に逃げた。
「イリスには、伝えなかったのか。自分が婚約を受け入れた経緯を」
「クローヴィア様からイリス様への言葉は、書き置きの一枚だけでした。『幸せになってください』と、それだけです」
ヴァルクは目を閉じた。
幸せになってください。
その言葉が誰に向けられたものだったのか、今となってはわからない。家族への別れの言葉か。あるいは、妹への――
*
「セリオ」
「はい」
「お前は、イリスのことを、どう見ていた」
突然の問いに、セリオは少し目を瞠った。それからゆっくりと、静かに答えた。
「誠実な方でした。この屋敷で最も誠実な方でした」
「それだけか」
「……五年間、一度も崩れなかった。怒りも、悲しみも、表に出さなかった。それがどれほどのことか、私にはわかっておりました。だから、せめて名前だけは正しく呼ぼうと思っておりました」
ヴァルクは何も言わなかった。
セリオの言葉が、胸の中で静かに反響した。五年間、一度も崩れなかった。その重さを、ヴァルクは今ようやく、少しだけ理解し始めていた。
「行き先は、わかるか」
「現時点では」とセリオは言った。「わかりません。ただ……」
「ただ、何だ」
「イリス様は賢い方です。簡単には見つからないようにされると思います」
ヴァルクは立ち上がり、窓の外を見た。
秋の空は高く、雲ひとつなかった。どこまでも続く青の下に、針葉樹の森が広がっている。
イリスは今、どこにいるのか。
その問いに、答えはまだない。ただ、ヴァルクの中に初めて、追わなければならないという確かな衝動が生まれていた。
それが何のためなのかは、まだわからなかった。
ただ、このままではいけないということだけが、骨の芯まで染みていた。
―― 次話「彼女の痕跡は、領地の端に消えていた」
セリオが話し始めたのは、二人が居間に移ってからのことだ。
ヴァルクは暖炉の前の椅子に腰を下ろし、セリオは向かいに座った。給仕を呼ばなかった。この話に、他の耳は要らない。
「婚礼の前日、伯爵家から書状が届きました」
セリオは背筋を伸ばしたまま、静かに切り出した。
「クローヴィア様が出奔されたこと。代わりに次女のイリス様がいらっしゃること。手配の都合上、私だけへの連絡でした」
ヴァルクは何も言わなかった。
「旦那様にすぐお伝えすべきでした。それはわかっておりました。ただ……」
「馬車から降りてきたときの、私の顔を見たのだろう」
セリオが僅かに目を伏せた。
「はい」
ヴァルクは暖炉の炎を見た。
長年待ち望んだ人が来たと信じた、あの朝の自分の顔を、セリオは見ていたのだ。それを前にして、言えなかった。そのことを、今のヴァルクには責める言葉が出なかった。
「それから五年間、機会を探しておりました。ですが旦那様はイリス様を疑うことなく、私も……臆しておりました」
「イリスは、知っていたのか。お前が真実を知っていることを」
「三年目の秋に、イリス様の方から私に聞いてこられました」
ヴァルクは顔を上げた。
「自分から」
「はい。単刀直入に。『なぜ私をイリスと呼ぶのか』と」
ヴァルクは少しの間、黙った。
三年目の秋。自分は何をしていた。遠征から戻り、領地の報告を受け、いつも通りの日々を送っていた。その間、妻は副官に真実を確かめていた。
「イリスは、何と言っていた」
「『今さらどうにもなりません』と」
その言葉が、静かにヴァルクの胸に落ちた。
怒りでも嘆きでもなく、ただそれだけを言って、受け入れていたのか。三年間、一人で抱えて。
*
「もう一つ、申し上げなければならないことがございます」
セリオが続けた。声が、わずかに低くなった。
「クローヴィア様のことでございます」
ヴァルクは黙って先を促した。
「出奔の後、クローヴィア様の行方を独自に調べておりました。旦那様にお伝えする前に、私自身で確かめたかったことがあったため」
「確かめたかったこととは」
セリオは一呼吸置いた。
「クローヴィア様が、雪の森の一件をご存知だったかどうか、です」
ヴァルクの目が、僅かに細くなった。
「……どういうことだ」
「婚約が決まったとき、フェルナ伯爵家の中でその話が出たようです。旦那様が幼少期に森で助けられたこと、それがきっかけで縁談に繋がったこと。家の者は皆、その話を知っていた」
「つまり」
「クローヴィア様も、その話を知っておられた。そして、実際に森にいたのがイリス様であることも、知っておられた可能性が高い」
居間が、しんと静まった。
暖炉の薪が一度爆ぜて、また静かになった。
ヴァルクは炎を見つめたまま、その意味を頭の中で展開した。
クローヴィアは、真実を知っていた。雪の森にいたのは自分ではなく、妹のイリスだと知っていた。それでも婚約を受け入れた。そして直前に逃げた。
「イリスには、伝えなかったのか。自分が婚約を受け入れた経緯を」
「クローヴィア様からイリス様への言葉は、書き置きの一枚だけでした。『幸せになってください』と、それだけです」
ヴァルクは目を閉じた。
幸せになってください。
その言葉が誰に向けられたものだったのか、今となってはわからない。家族への別れの言葉か。あるいは、妹への――
*
「セリオ」
「はい」
「お前は、イリスのことを、どう見ていた」
突然の問いに、セリオは少し目を瞠った。それからゆっくりと、静かに答えた。
「誠実な方でした。この屋敷で最も誠実な方でした」
「それだけか」
「……五年間、一度も崩れなかった。怒りも、悲しみも、表に出さなかった。それがどれほどのことか、私にはわかっておりました。だから、せめて名前だけは正しく呼ぼうと思っておりました」
ヴァルクは何も言わなかった。
セリオの言葉が、胸の中で静かに反響した。五年間、一度も崩れなかった。その重さを、ヴァルクは今ようやく、少しだけ理解し始めていた。
「行き先は、わかるか」
「現時点では」とセリオは言った。「わかりません。ただ……」
「ただ、何だ」
「イリス様は賢い方です。簡単には見つからないようにされると思います」
ヴァルクは立ち上がり、窓の外を見た。
秋の空は高く、雲ひとつなかった。どこまでも続く青の下に、針葉樹の森が広がっている。
イリスは今、どこにいるのか。
その問いに、答えはまだない。ただ、ヴァルクの中に初めて、追わなければならないという確かな衝動が生まれていた。
それが何のためなのかは、まだわからなかった。
ただ、このままではいけないということだけが、骨の芯まで染みていた。
―― 次話「彼女の痕跡は、領地の端に消えていた」
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