『愛されぬ身代わり妻ですが、真実はもう、あの小箱の中に置いてきました』

まさき

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夏の朝、イリスは一つの決断をした

夏の朝、イリスは一つの決断をした
 
 夏が来た。
 
 港町の夏は、北方とは別の生き物のようだった。陽光が石畳を焼き、海の色が深い青に変わった。朝から波止場は活気に満ち、荷船の往来が増え、薬草問屋にも見慣れない顔の商人たちが訪ねてくるようになった。
 
 イリスはその夏を、忙しく過ごした。
 
 仕入れの交渉、在庫の管理、新しい取引先との書状のやり取り。ドラン老人は足が悪くなる一方で、店の実務はほとんどイリスとナーシャが担うようになっていた。
 
 ある夏の朝、仕事を始める前にドラン老人に呼ばれた。
 

 
 老人の部屋は、店の奥の小さな部屋だ。薬草の匂いが染みついた、古い木の家具が並んでいる。ドランは椅子に座り、膝の上に杖を置いていた。
 
「イリスさん、少し話がある」
 
「はい」
 
「この店のことだ」
 
 老人は静かに切り出した。
 
「私はもう長くない、という話ではない。ただ、足がこれ以上動かなくなってきた。仕入れの目利きも、そろそろ限界がある」
 
「……はい」
 
「ナーシャに店を継がせるつもりだ。あの子はそのつもりでいる。ただ、一人では荷が重い」
 
 老人はイリスを真っすぐに見た。
 
「あなたに、共同で店を持つ気はあるか」
 
 イリスは少しの間、黙った。
 
 共同経営。名前を連ねる。この店の一部を、自分のものとして引き受ける。
 
「……考える時間をいただけますか」
 
「もちろん。急がなくていい」
 
 老人はそれだけ言って、杖を手に立ち上がった。
 

 
 その日の仕事を終えて、イリスは一人で埠頭へ出た。
 
 夏の夕暮れの海は、橙と金が混ざり合って燃えるようだった。波止場の喧騒が遠くなり、波の音だけが近くにあった。
 
 石の手すりに手をついて、海を見た。
 
 一年前の自分を思った。
 
 夜明け前に屋敷を出て、乗合馬車に揺られて、この町に着いた。海を初めて見た。広い、と思った。宿を探し、仕事を探し、ナーシャと出会った。自分の名前で呼ばれた。笑い方を取り戻した。泣き方を取り戻した。
 
 それから一年が経つ。
 
 この町が好きだ。仕事が好きだ。ナーシャが好きだ。朝の埠頭の空気も、夕暮れの海の色も、潮風の匂いも、全部好きだ。
 
 ここに、根を下ろしていいのかもしれない。
 
 その考えが浮かんだとき、怖さはなかった。
 
 根を下ろすことが怖かったのは、屋敷にいた頃だ。あそこに根を下ろしてしまえば、自分が完全に「クローヴィアの代わり」になってしまう気がして、ずっと宙ぶらりんのまま生きていた。
 
 ここは違う。ここにいる自分は、イリスだ。
 
 根を下ろしても、消えない。
 

 
 夕陽が水平線に沈んでいく。
 
 海が暗くなり、空が紫から藍へと変わっていく。波止場の灯りが、一つ、また一つと灯り始めた。
 
 イリスは手すりから手を離し、踵を返した。
 
 店に戻ると、ナーシャが夕食の支度をしていた。
 
「おかえり」
 
「ただいま」
 
 その「ただいま」が、自然に出た。
 
 以前はこの言葉を言う場所がなかった。帰る場所がなかった。屋敷に戻るたびに、ここは自分の場所ではないと感じていたから、「ただいま」という言葉が喉の奥で止まっていた。
 
 今は出る。
 
「ナーシャ」
 
「ん?」
 
「お父様のお話、受けようと思います」
 
 ナーシャが振り返った。その顔に、じわりと笑みが広がった。声の大きな笑い方をする人なのに、今夜は静かに笑った。
 
「……よかった」
 
 それだけだった。
 
 イリスも笑った。
 
 小さな台所に、二人の笑い声が重なった。
 
 夜の海から、波の音が聞こえた。
 
 穏やかな、夏の夜の波だった。
 
―― 次話「秋になれば、また海が変わる」
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