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第2話 侯爵家の娘として、最後の夜
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第2話 侯爵家の娘として、最後の夜
王宮から侯爵邸まで、馬車で小一時間。
セレナは窓の外を見ていた。
流れていく景色を、ただ、見ていた。
夕暮れが空を橙に染めていた。
綺麗だと思った。
今まで、こんなふうに空を見たことがなかった気がした。
馬車が邸の前に止まった。
御者が扉を開ける。
セレナは静かに降りた。
邸の中は、しんと静まり返っていた。
使用人たちが廊下の端に並び、俯いている。
誰も目を合わせない。
誰も声をかけない。
王宮で何があったか、全員が知っているのだろう。
セレナは気にしなかった。
ただ、まっすぐに自室へ向かった。
廊下を歩いていると、声がした。
「セレナ」
振り返ると、メリッサが立っていた。
薄いピンク色のドレスのまま。
さっきまで王宮にいたはずなのに、自分より早く帰っていたらしい。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
心配そうな笑みでも、申し訳なさそうな笑みでもなかった。
勝ち誇った笑みだった。
ただ、それを隠す薄皮一枚だけが、辛うじて貼り付いていた。
「大丈夫?お姉様」
甘い声だった。
昔から変わらない、人の心に入り込むような声。
「ええ」
セレナは足を止めなかった。
「……王太子殿下を殴るなんて、どうかしてたんじゃないかしら」
「そうかもしれないわね」
「お父様も怒ってらっしゃるわよ」
「そうでしょうね」
歩きながら答えた。
振り返らなかった。
「ねえ、お姉様」
メリッサの声が、少し変わった。
薄皮が、少しだけ剥がれた声。
「悔しくないの」
セレナは、その時だけ足を止めた。
少しだけ考えた。
本当に、悔しいかどうか。
「ないわ」
それだけ言って、また歩き出した。
メリッサが何か言っていたが、もう聞こえなかった。
―――
自室に戻ると、侍女のルーナが待っていた。
二十歳の、栗色の髪をした娘。
セレナが十歳の頃からそばにいる、唯一と言っていい存在だった。
「……お嬢様」
ルーナの目が赤かった。
泣いていたのだと、すぐにわかった。
「泣かなくていいわ」
「でも……っ」
「泣かなくていい」
セレナはもう一度言った。
優しく、でもはっきりと。
ルーナが唇を噛んで、頷いた。
「荷物を手伝って。旅に出るから」
「……旅、ですか」
「ええ」
「どちらへ」
「わからない」
ルーナが目を丸くした。
セレナは構わずクローゼットを開けた。
ドレスが並んでいる。
どれも高価で、どれも美しくて、どれも婚約者として相応しい装いだった。
セレナはそれらを全部無視して、一番奥にあった装束を取り出した。
乗馬用に誂えた、動きやすい一着だ。
これなら旅にも使える。
「これと、着替えを数枚。あとは最低限のものだけ」
「お嬢様……本当に行かれるのですか」
「ええ」
「いつ戻られますか」
セレナは少し考えた。
「わからない」
ルーナがまた泣きそうな顔をした。
セレナはそっと、その肩に手を置いた。
「ルーナ、あなたには本当に世話になったわ」
「……っ、お嬢様」
「あなたがいなかったら、もっとずっとしんどかった。ありがとう」
ルーナが俯いて、肩を震わせた。
声を殺して泣いていた。
セレナはしばらく、その背中をそっと撫でた。
―――
荷物をまとめ終えた頃、扉が叩かれた。
「入りなさい」
扉を開けたのは、執事のマルタンだった。
白髪交じりの、長年侯爵家に仕える老執事。
「旦那様がお呼びです」
セレナは頷いた。
ルーナと目が合った。
ルーナが不安そうな顔をした。
セレナは小さく首を振った。
大丈夫。
そういう意味で。
―――
父の書斎は、邸の奥にあった。
重い木の扉を開けると、暖炉の前にガスパールが立っていた。
五十代半ば、白髪が混じり始めた頭。
鋭い目。
感情を映さない顔。
セレナが部屋に入っても、振り返らなかった。
暖炉の火が揺れている。
しばらく、それだけが音を立てていた。
「王太子殿下を殴ったそうだな」
低い声だった。
怒鳴らない。
怒鳴るより、ずっと冷たい声。
「ええ」
「恥をさらした」
「そうですね」
ガスパールがようやく振り返った。
その目が、セレナを見た。
娘を見る目ではなかった。
駒を見る目だった。
使えなくなった駒を、値踏みする目。
「お前はもう用済みだ」
セレナは何も感じなかった。
知っていたから。
ずっと前から、知っていたから。
「旅に出ます」
「勝手にしろ」
それだけだった。
引き止めもしない。
心配もしない。
行き先も聞かない。
セレナは深々と礼をした。
父に対する、最後の礼を。
「今までお世話になりました」
ガスパールは答えなかった。
暖炉の方へ、また視線を戻した。
セレナは扉を閉めた。
廊下に出た瞬間、気づいた。
胸が、少しも痛くなかった。
悲しくなかった。
寂しくもなかった。
ただ、確認しただけだった。
この人は最後まで、こういう人だった。
それだけのことだった。
―――
夜明け前、セレナは邸を出た。
荷物はひとつの革鞄だけ。
馬は一頭。
供は誰もいない。
邸の前に、ルーナが立っていた。
目が赤い。
それでも、泣いていなかった。
「お嬢様」
「ええ」
「……お元気で」
「あなたもね」
それだけだった。
セレナは馬に乗った。
手綱を握った。
前を向いた。
空が、少しずつ明るくなり始めていた。
夜明けの色だった。
セレナ・ド・モンテヴェールは、侯爵家の娘として生まれた邸を、振り返らずに出発した。
どこへ行くかは、まだわからない。
何をするかも、まだわからない。
でも、馬の足取りは軽かった。
自分の足取りも、軽かった。
初めて、自分だけの朝だった。
―― 第2話 了 ――
第3話へ続く
王宮から侯爵邸まで、馬車で小一時間。
セレナは窓の外を見ていた。
流れていく景色を、ただ、見ていた。
夕暮れが空を橙に染めていた。
綺麗だと思った。
今まで、こんなふうに空を見たことがなかった気がした。
馬車が邸の前に止まった。
御者が扉を開ける。
セレナは静かに降りた。
邸の中は、しんと静まり返っていた。
使用人たちが廊下の端に並び、俯いている。
誰も目を合わせない。
誰も声をかけない。
王宮で何があったか、全員が知っているのだろう。
セレナは気にしなかった。
ただ、まっすぐに自室へ向かった。
廊下を歩いていると、声がした。
「セレナ」
振り返ると、メリッサが立っていた。
薄いピンク色のドレスのまま。
さっきまで王宮にいたはずなのに、自分より早く帰っていたらしい。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
心配そうな笑みでも、申し訳なさそうな笑みでもなかった。
勝ち誇った笑みだった。
ただ、それを隠す薄皮一枚だけが、辛うじて貼り付いていた。
「大丈夫?お姉様」
甘い声だった。
昔から変わらない、人の心に入り込むような声。
「ええ」
セレナは足を止めなかった。
「……王太子殿下を殴るなんて、どうかしてたんじゃないかしら」
「そうかもしれないわね」
「お父様も怒ってらっしゃるわよ」
「そうでしょうね」
歩きながら答えた。
振り返らなかった。
「ねえ、お姉様」
メリッサの声が、少し変わった。
薄皮が、少しだけ剥がれた声。
「悔しくないの」
セレナは、その時だけ足を止めた。
少しだけ考えた。
本当に、悔しいかどうか。
「ないわ」
それだけ言って、また歩き出した。
メリッサが何か言っていたが、もう聞こえなかった。
―――
自室に戻ると、侍女のルーナが待っていた。
二十歳の、栗色の髪をした娘。
セレナが十歳の頃からそばにいる、唯一と言っていい存在だった。
「……お嬢様」
ルーナの目が赤かった。
泣いていたのだと、すぐにわかった。
「泣かなくていいわ」
「でも……っ」
「泣かなくていい」
セレナはもう一度言った。
優しく、でもはっきりと。
ルーナが唇を噛んで、頷いた。
「荷物を手伝って。旅に出るから」
「……旅、ですか」
「ええ」
「どちらへ」
「わからない」
ルーナが目を丸くした。
セレナは構わずクローゼットを開けた。
ドレスが並んでいる。
どれも高価で、どれも美しくて、どれも婚約者として相応しい装いだった。
セレナはそれらを全部無視して、一番奥にあった装束を取り出した。
乗馬用に誂えた、動きやすい一着だ。
これなら旅にも使える。
「これと、着替えを数枚。あとは最低限のものだけ」
「お嬢様……本当に行かれるのですか」
「ええ」
「いつ戻られますか」
セレナは少し考えた。
「わからない」
ルーナがまた泣きそうな顔をした。
セレナはそっと、その肩に手を置いた。
「ルーナ、あなたには本当に世話になったわ」
「……っ、お嬢様」
「あなたがいなかったら、もっとずっとしんどかった。ありがとう」
ルーナが俯いて、肩を震わせた。
声を殺して泣いていた。
セレナはしばらく、その背中をそっと撫でた。
―――
荷物をまとめ終えた頃、扉が叩かれた。
「入りなさい」
扉を開けたのは、執事のマルタンだった。
白髪交じりの、長年侯爵家に仕える老執事。
「旦那様がお呼びです」
セレナは頷いた。
ルーナと目が合った。
ルーナが不安そうな顔をした。
セレナは小さく首を振った。
大丈夫。
そういう意味で。
―――
父の書斎は、邸の奥にあった。
重い木の扉を開けると、暖炉の前にガスパールが立っていた。
五十代半ば、白髪が混じり始めた頭。
鋭い目。
感情を映さない顔。
セレナが部屋に入っても、振り返らなかった。
暖炉の火が揺れている。
しばらく、それだけが音を立てていた。
「王太子殿下を殴ったそうだな」
低い声だった。
怒鳴らない。
怒鳴るより、ずっと冷たい声。
「ええ」
「恥をさらした」
「そうですね」
ガスパールがようやく振り返った。
その目が、セレナを見た。
娘を見る目ではなかった。
駒を見る目だった。
使えなくなった駒を、値踏みする目。
「お前はもう用済みだ」
セレナは何も感じなかった。
知っていたから。
ずっと前から、知っていたから。
「旅に出ます」
「勝手にしろ」
それだけだった。
引き止めもしない。
心配もしない。
行き先も聞かない。
セレナは深々と礼をした。
父に対する、最後の礼を。
「今までお世話になりました」
ガスパールは答えなかった。
暖炉の方へ、また視線を戻した。
セレナは扉を閉めた。
廊下に出た瞬間、気づいた。
胸が、少しも痛くなかった。
悲しくなかった。
寂しくもなかった。
ただ、確認しただけだった。
この人は最後まで、こういう人だった。
それだけのことだった。
―――
夜明け前、セレナは邸を出た。
荷物はひとつの革鞄だけ。
馬は一頭。
供は誰もいない。
邸の前に、ルーナが立っていた。
目が赤い。
それでも、泣いていなかった。
「お嬢様」
「ええ」
「……お元気で」
「あなたもね」
それだけだった。
セレナは馬に乗った。
手綱を握った。
前を向いた。
空が、少しずつ明るくなり始めていた。
夜明けの色だった。
セレナ・ド・モンテヴェールは、侯爵家の娘として生まれた邸を、振り返らずに出発した。
どこへ行くかは、まだわからない。
何をするかも、まだわからない。
でも、馬の足取りは軽かった。
自分の足取りも、軽かった。
初めて、自分だけの朝だった。
―― 第2話 了 ――
第3話へ続く
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