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第4話 偶然ですが
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第4話 偶然ですが
東へ向かう道は、思ったより悪くなかった。
舗装された石畳が続いて、時々すれ違う旅人が会釈をしてくれる。
荷馬車を引いた商人が、陽気に手を振ってくれることもあった。
セレナは、そのたびに少し驚いた。
侯爵家の娘として生きていた頃、知らない人間が気軽に声をかけてくることはなかった。
常に身分があり、常に立場があり、常に誰かの視線があった。
今は誰もセレナを知らない。
ただの旅人だった。
それが、思いのほか、心地よかった。
―――
二日目の昼過ぎ。
街道沿いの食堂に馬を止めた。
木造りの、こぢんまりした店だった。
軒先に干し草の飾りがぶら下がっていて、中からスープの匂いがした。
扉を開けると、数人の客がいた。
旅人らしい男たちが二人、地元の農夫らしい老人が一人。
セレナは窓際の席に座った。
「何にしますか」
給仕の娘が声をかけてきた。
セレナより少し年下だろうか。
「スープと、パンをください」
「飲み物は?」
「水で」
注文して、窓の外を見た。
街道を馬が行き交っていた。
雲が流れていた。
のどかだった。
スープが運ばれてきた。
野菜と豆が入った、素朴なものだった。
一口飲んで、温かさが体に広がった。
美味しかった。
二口目を飲もうとした、その時。
食堂の扉が開いた。
セレナは反射的に顔を上げた。
入ってきたのは、旅装束の男だった。
黒に近い濃紺の上着。
整った顔立ち。
感情を映さない目。
昨日、朝市で見かけた男だった。
男はさっと店内を見回した。
セレナと目が合った。
一瞬だけ。
男は特に表情を変えることなく、セレナから一番遠い、入り口近くの席に座った。
給仕の娘に何かを注文して、窓の外に視線を向けた。
こちらを見ていない。
セレナはスープに視線を戻した。
……また同じ男だった。
昨日、朝市にいた。
今日、この食堂にいる。
偶然、ということはあるだろうか。
街道は一本道だ。
同じ方向に向かう旅人が、同じ食堂に入ることは、そう珍しくないかもしれない。
でも。
セレナはもう一度、ちらりと男の方を見た。
男は変わらず窓の外を見ていた。
こちらに関心がないように見えた。
関心がないように、見えた。
……王宮の大広間で、壁際に立っていた男。
あの目に、見覚えがあった。
セレナはスープを飲み干して、パンをかじった。
考えすぎかもしれない。
似ている別人かもしれない。
ただの旅人かもしれない。
セレナは立ち上がって、硬貨をテーブルに置いた。
扉に向かって歩く。
男の横を通り過ぎた。
その瞬間、男が口を開いた。
「良い旅を」
低い、静かな声だった。
セレナは足を止めた。
男の方を見た。
男はこちらを見ていなかった。
運ばれてきたスープに視線を落として、スプーンを手に取っていた。
セレナは二秒ほど、その横顔を見た。
「……ええ」
それだけ答えて、扉を押し開けた。
外の空気が頬に触れた。
馬をつないだ柱まで歩いて、手綱をほどいた。
馬に乗って、街道に出た。
前を向いた。
背中に視線を感じた気がした。
気のせいだ。
そう思うことにした。
―――
その夜。
次の街の宿に泊まった。
二泊目ともなれば、勝手がわかってきた。
宿の選び方、値段の交渉の仕方、荷物の置き方。
少しずつ、旅人らしくなっている気がした。
ベッドに横になって、天井を見た。
今日も悪くなかった。
そう思いかけて、ふと、食堂の男のことが頭に浮かんだ。
「良い旅を」
あの声が、なぜか耳に残っていた。
セレナは首を振った。
気にしなくていい。
自分の旅には関係ない。
目を閉じた。
すぐに眠れた。
でも、夢の中でも、あの低い声が、どこかで聞こえた気がした。
―――
三日目の朝。
宿を出て、厩に向かった。
馬に水をやって、鞍を確認した。
馬が鼻を鳴らした。
「そうね、行きましょうか」
セレナは馬の首を軽く叩いた。
手綱を引いて、街の大通りに出た。
朝の空気は澄んでいた。
石畳が朝露で光っていた。
パン屋が店を開け始めていた。
そしてセレナは、通りの向こうに、見覚えのある人影を見つけた。
濃紺の旅装束。
馬に乗って、ゆっくりと街の方向から出てきたところだった。
男もセレナに気づいた。
目が合った。
今度は、一瞬では終わらなかった。
セレナは馬を止めた。
男も、自然に馬を止めた。
しばらく、二人は無言で見合った。
先に口を開いたのは、セレナだった。
「三度目ですね」
「……そうですね」
男は静かに答えた。
表情が動かなかった。
「偶然ですか」
男は少し間を置いた。
「偶然です」
真顔だった。
どこからどう見ても、嘘をついている顔だった。
セレナは男をじっと見た。
男もセレナをじっと見た。
セレナは息を吐いた。
「……そうですか」
それだけ言って、馬を進めた。
男の横を通り過ぎた。
男は動かなかった。
セレナは前を向いたまま言った。
「つきまとうのはやめてください」
返事はなかった。
セレナは振り返らなかった。
ただ、馬を走らせた。
東へ。
ただ、東へ。
しばらくして、後ろから蹄の音がした。
セレナは眉をひそめた。
振り返らなかった。
蹄の音は、セレナの馬と同じ速さで、少し後ろからついてきていた。
「……」
セレナは前を向いたまま、口を開いた。
「偶然、同じ方向ですか」
「偶然です」
間髪入れず、後ろから声が返ってきた。
セレナは返事をしなかった。
呆れていた。
盛大に呆れていた。
でも、なぜか、怒鳴る気にはなれなかった。
街道は続く。
馬は走る。
後ろから、蹄の音がついてくる。
セレナ・ド・モンテヴェールは、盛大にため息をついた。
―― 第4話 了 ――
第5話へ続く
東へ向かう道は、思ったより悪くなかった。
舗装された石畳が続いて、時々すれ違う旅人が会釈をしてくれる。
荷馬車を引いた商人が、陽気に手を振ってくれることもあった。
セレナは、そのたびに少し驚いた。
侯爵家の娘として生きていた頃、知らない人間が気軽に声をかけてくることはなかった。
常に身分があり、常に立場があり、常に誰かの視線があった。
今は誰もセレナを知らない。
ただの旅人だった。
それが、思いのほか、心地よかった。
―――
二日目の昼過ぎ。
街道沿いの食堂に馬を止めた。
木造りの、こぢんまりした店だった。
軒先に干し草の飾りがぶら下がっていて、中からスープの匂いがした。
扉を開けると、数人の客がいた。
旅人らしい男たちが二人、地元の農夫らしい老人が一人。
セレナは窓際の席に座った。
「何にしますか」
給仕の娘が声をかけてきた。
セレナより少し年下だろうか。
「スープと、パンをください」
「飲み物は?」
「水で」
注文して、窓の外を見た。
街道を馬が行き交っていた。
雲が流れていた。
のどかだった。
スープが運ばれてきた。
野菜と豆が入った、素朴なものだった。
一口飲んで、温かさが体に広がった。
美味しかった。
二口目を飲もうとした、その時。
食堂の扉が開いた。
セレナは反射的に顔を上げた。
入ってきたのは、旅装束の男だった。
黒に近い濃紺の上着。
整った顔立ち。
感情を映さない目。
昨日、朝市で見かけた男だった。
男はさっと店内を見回した。
セレナと目が合った。
一瞬だけ。
男は特に表情を変えることなく、セレナから一番遠い、入り口近くの席に座った。
給仕の娘に何かを注文して、窓の外に視線を向けた。
こちらを見ていない。
セレナはスープに視線を戻した。
……また同じ男だった。
昨日、朝市にいた。
今日、この食堂にいる。
偶然、ということはあるだろうか。
街道は一本道だ。
同じ方向に向かう旅人が、同じ食堂に入ることは、そう珍しくないかもしれない。
でも。
セレナはもう一度、ちらりと男の方を見た。
男は変わらず窓の外を見ていた。
こちらに関心がないように見えた。
関心がないように、見えた。
……王宮の大広間で、壁際に立っていた男。
あの目に、見覚えがあった。
セレナはスープを飲み干して、パンをかじった。
考えすぎかもしれない。
似ている別人かもしれない。
ただの旅人かもしれない。
セレナは立ち上がって、硬貨をテーブルに置いた。
扉に向かって歩く。
男の横を通り過ぎた。
その瞬間、男が口を開いた。
「良い旅を」
低い、静かな声だった。
セレナは足を止めた。
男の方を見た。
男はこちらを見ていなかった。
運ばれてきたスープに視線を落として、スプーンを手に取っていた。
セレナは二秒ほど、その横顔を見た。
「……ええ」
それだけ答えて、扉を押し開けた。
外の空気が頬に触れた。
馬をつないだ柱まで歩いて、手綱をほどいた。
馬に乗って、街道に出た。
前を向いた。
背中に視線を感じた気がした。
気のせいだ。
そう思うことにした。
―――
その夜。
次の街の宿に泊まった。
二泊目ともなれば、勝手がわかってきた。
宿の選び方、値段の交渉の仕方、荷物の置き方。
少しずつ、旅人らしくなっている気がした。
ベッドに横になって、天井を見た。
今日も悪くなかった。
そう思いかけて、ふと、食堂の男のことが頭に浮かんだ。
「良い旅を」
あの声が、なぜか耳に残っていた。
セレナは首を振った。
気にしなくていい。
自分の旅には関係ない。
目を閉じた。
すぐに眠れた。
でも、夢の中でも、あの低い声が、どこかで聞こえた気がした。
―――
三日目の朝。
宿を出て、厩に向かった。
馬に水をやって、鞍を確認した。
馬が鼻を鳴らした。
「そうね、行きましょうか」
セレナは馬の首を軽く叩いた。
手綱を引いて、街の大通りに出た。
朝の空気は澄んでいた。
石畳が朝露で光っていた。
パン屋が店を開け始めていた。
そしてセレナは、通りの向こうに、見覚えのある人影を見つけた。
濃紺の旅装束。
馬に乗って、ゆっくりと街の方向から出てきたところだった。
男もセレナに気づいた。
目が合った。
今度は、一瞬では終わらなかった。
セレナは馬を止めた。
男も、自然に馬を止めた。
しばらく、二人は無言で見合った。
先に口を開いたのは、セレナだった。
「三度目ですね」
「……そうですね」
男は静かに答えた。
表情が動かなかった。
「偶然ですか」
男は少し間を置いた。
「偶然です」
真顔だった。
どこからどう見ても、嘘をついている顔だった。
セレナは男をじっと見た。
男もセレナをじっと見た。
セレナは息を吐いた。
「……そうですか」
それだけ言って、馬を進めた。
男の横を通り過ぎた。
男は動かなかった。
セレナは前を向いたまま言った。
「つきまとうのはやめてください」
返事はなかった。
セレナは振り返らなかった。
ただ、馬を走らせた。
東へ。
ただ、東へ。
しばらくして、後ろから蹄の音がした。
セレナは眉をひそめた。
振り返らなかった。
蹄の音は、セレナの馬と同じ速さで、少し後ろからついてきていた。
「……」
セレナは前を向いたまま、口を開いた。
「偶然、同じ方向ですか」
「偶然です」
間髪入れず、後ろから声が返ってきた。
セレナは返事をしなかった。
呆れていた。
盛大に呆れていた。
でも、なぜか、怒鳴る気にはなれなかった。
街道は続く。
馬は走る。
後ろから、蹄の音がついてくる。
セレナ・ド・モンテヴェールは、盛大にため息をついた。
―― 第4話 了 ――
第5話へ続く
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