「あなたのことは、もう忘れました」

まさき

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第17話「王都のセシル」

第17話「王都のセシル」

 王都の朝は、いつも騒がしかった。
 
 馬車の音。
 商人の怒鳴り声。
 貴族の使用人たちの早足。
 
 セシル・アーノルドは、ヴァルター侯爵家の客間の窓から、その喧騒を眺めていた。
 
 試験から、もう一ヶ月が経つ。
 
 合格した。
 ヴァルター侯爵家の採点委員に、ランドルのノートを渡した見返りとして、特別な配慮があった。
 成績は中位だったが、合格には十分だった。
 
 でも。
 
 魔法師協会への登録は済んだ。
 でも、仕事はない。
 
 ヴァルター侯爵家の魔法師たちは、セシルを必要としていなかった。
 ノートさえ手に入れれば、セシル自身はもう用済みだった。
 
 そんなことは、最初からわかっていた。
 
 わかっていて、やった。
 
 セシルは窓から離れて、椅子に腰を下ろした。
 
 机の上に、羊皮紙が広げられていた。
 魔法陣の練習をしようとして、やめた。
 
 描けなかった。
 
 リアナに教わった基礎は覚えている。
 でも、その先がわからない。
 リアナがいつも「ここをこうすれば」と言って直してくれていた。
 その声がなければ、どこが間違っているのかもわからなかった。
 
 ——リアナはいつもわかってくれた。
 
 子どもの頃、魔法陣の設計図を持っていったとき、ちゃんと見てくれた。
 
 そうだった。
 リアナはいつもわかってくれた。
 セシルの発想を、才能を、努力を——ちゃんと見ていてくれた。
 
 だから。
 
 セシルは羊皮紙を裏返した。
 
 考えたくない。
 
 廊下から足音が聞こえた。
 ヴァルター侯爵家の魔法師の一人が通り過ぎる。
 セシルを見ない。
 挨拶もしない。
 
 この屋敷に来て一ヶ月。
 セシルは誰にも必要とされていなかった。
 
 アーノルド家の借金は、少し減った。
 父が喜んでいた。
 それだけが、セシルがやったことの成果だった。
 
 夜、一人で部屋にいると、あの朝のことを思い出す。
 
 試験の前夜。
 
 リアナの部屋に入ったのは、深夜だった。
 リアナはすでに眠っていた。
 
 机の上のノートを見た。
 三十七冊。
 父のノートから引き継いで、リアナが十年かけて書き足してきたもの。
 
 手に取ったとき、手が震えていた。
 
 怖かった。
 
 でも、やめられなかった。
 
 ——これを渡せば、アーノルド家が救われる。
 ——リアナならまた書ける。
 ——天才なんだから。
 
 自分に言い聞かせながら、ノートを鞄に詰めた。
 
 手紙を書いた。
 
 「ごめんね」と書いた。
 「借りていくね」と書いた。
 「また書けるから」と書いた。
 
 書きながら、涙が出そうになった。
 
 でも泣かなかった。
 泣いたら、やめてしまうから。
 
 部屋を出て、屋敷を出た。
 
 振り返らなかった。
 
 振り返ったら——。
 
 セシルは目を閉じた。
 
 あの夜から、リアナのことを考えない日がなかった。
 
 怒っているだろうか。
 悲しんでいるだろうか。
 泣いているだろうか。
 
 でも——街道筋の噂では、辺境で腕のいい魔法師として働いているという。
 
 泣いていなかった。
 悲しんでいなかった。
 怒りもせずに、ただ前を向いて歩いていた。
 
 それが——セシルには、痛かった。
 
 怒ってくれれば、まだよかった。
 悲しんでくれれば、まだよかった。
 
 でも、リアナはもうセシルのことを——。
 
 廊下からまた足音がした。
 
 今度は止まった。
 
「セシル・アーノルドさんですか」
 
 ヴァルター侯爵家の使用人だった。
 
「侯爵がお呼びです」
 
 セシルは立ち上がった。
 
 ヴァルター侯爵の書斎は、屋敷の奥にあった。
 重厚な扉を開けると、初老の男が書類を見ていた。
 
「来たか。座れ」
 
 セシルは椅子に腰を下ろした。
 
「辺境の件を知っているか」侯爵が書類から目を上げずに言った。
 
「噂は聞いています」
 
「ランドルの娘が辺境で魔法陣師として働いている。我々の協会員を送ったが、カサレス辺境伯に追い払われた」
 
 カサレス辺境伯。
 
 リアナが、辺境伯に守られている。
 
「ランドルのノートには、まだ続きがある可能性がある。娘の頭の中に」
 
 セシルは黙っていた。
 
「お前はランドルの娘と親しかったそうだな」
 
「……以前は」
 
「以前、か」侯爵がようやく顔を上げた。「お前に頼みがある。辺境へ行って、娘を説得してこい」
 
 セシルは侯爵を見た。
 
「説得、ですか」
 
「研究を我々に提供するよう。報酬は出す」
 
 セシルはしばらく黙っていた。
 
 リアナに会いに行く。
 そして、また利用しようとしている。
 
 胸の中で、何かが軋んだ。
 
「……リアナは、断ると思います」
 
「そうかもしれない。でも、お前なら話を聞くかもしれない。昔の友人として」
 
 昔の友人。
 
 その言葉が、刃のように刺さった。
 
「……考えさせてください」
 
「三日以内に返事をしろ」
 
 書斎を出て、廊下を歩いた。
 
 足が重かった。
 
 リアナに会いに行く。
 何と言って会いに行く。
 何と言って顔を見る。
 
 ——あなたのことは、もう忘れました。
 
 そう言われるだろう。
 
 それが、一番怖かった。
 
 怒られることより。
 責められることより。
 
 忘れられていることが——一番怖かった。
 
 自分の部屋に戻って、また窓の外を見た。
 
 王都の空は、建物の隙間にしか見えない。
 狭い空だった。
 
 辺境の空は、どんな空だろう。
 
 リアナは今、どんな空の下にいるだろう。
 
 セシルは窓を閉めた。
 
 机の上の羊皮紙を見た。
 
 白紙のまま、広げられていた。
 
 ペンを手に取った。
 
 何かを描こうとして——やめた。
 
 描けない。
 
 リアナがいなければ、魔法陣は描けない。
 
 それが、セシルの限界だった。
 
 それを、セシルは最初から知っていた。
 
 知っていたから——。
 
 ペンを置いた。
 
 窓の外の狭い空を、また見た。
 
 後悔しても、もう遅い。
 
 でも——後悔していた。
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