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第29話 王都へ
第29話 王都へ
出発の日が決まったのは、それから一週間後だった。
ルシアンが王都への日程を組んだ。カサレス辺境伯として魔法師協会に正式な書状を送り、研究発表の場を申請した。返答は三日で来た。協会側が受け入れた。ボッシュ研究員が内部で動いたのだと、あとでゴードンから聞いた。
「思ったより早かったです」
「ボッシュは、機会を待っていたんだ。こちらが動けば、向こうも動く」
ゴードンが木箱に鍵をかけながら言った。三十年分の記録は、すでに荷造りが終わっていた。リアナの理論の清書も、二週間かけて仕上げた。百二十ページになった。
「親方は、王都へ戻るのは久しぶりですか」
「二十年ぶりだ」
それだけ言って、ゴードンは話を終わらせた。リアナもそれ以上聞かなかった。二十年ぶりの王都に、何を思っているかは、顔に出なかった。出さないようにしているのか、本当に何も出ないのか、リアナにはわからなかった。
出発前日、工房でトーマスとクレイが見送りの準備をしていた。といっても、二人がしたのは作業台の片付けと、リアナの荷物を入り口まで運んでくるという、それだけのことだったが。
「絶対うまくいくから」
トーマスが言った。根拠のない確信だった。でも、嫌いじゃなかった。
「……ありがとうございます」
「なんか、ヴェイルに言われると照れるな」
「うるさい」とクレイが言った。
「お前も何か言えよ」
「……気をつけて行け」
クレイが短く言った。それだけだったが、十分だった。リアナは小さく頷いた。
出発の朝は、曇っていた。
馬車が二台。一台にルシアンとリアナ、もう一台にゴードンと荷物。供の者が数人ついた。カサレス辺境伯の名前で動くということは、それだけの体裁が必要だということだった。
アーシェルの路地を馬車が進む。石畳の上を車輪が転がる音がした。広場を通るとき、リアナは窓から外を見た。
朝市が始まっていた。野菜を並べる人、荷を運ぶ人、井戸で水を汲む人。いつも通りの朝だった。リアナがここへ来た日も、こんな朝だったかもしれない。
最初に工房の扉を叩いた日のことを思い出した。荷物一つで辺境へ来た。行くあてもなかった。ただ、王都にはいられなかった。
それが今、王都へ戻る。
逃げて来た場所へ、立って戻る。
「……緊張しているか」
ルシアンが言った。馬車の向かいに座って、外を見ていた。こちらは見ていなかった。でも、気づいていた。
「少し」
「そうか」
それだけだった。慰めも励ましもなかった。でも、それでよかった。根拠のない言葉は要らなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。馬車の揺れと車輪の音だけがあった。
「ルシアン様は、王都は慣れていますか」
「嫌いだ」
即答だった。リアナは少し驚いた。
「……そうですか」
「華やかすぎる。磨かれすぎている。本音がどこにあるかわからない人間が多い」
リアナは窓の外を見た。アーシェルの外れに出て、街並みが途切れ、草原が広がっていた。
「私も、合いませんでした」
「知っている」
「……いつから知っていましたか」
「最初に会ったときから」
リアナは少し考えた。最初に会ったとき、ルシアンは冷然としていた。言葉が少なかった。値踏みされているような気がしたが、今思えば違ったのかもしれない。
「どこを見てわかったのですか」
「目だ。王都の人間の目をしていなかった」
リアナはそれを、褒め言葉として受け取った。否定する理由がなかった。
王都まで、馬車で三日かかった。
一日目は草原を抜けた。二日目は丘陵地帯を越えた。夜は宿場町に止まった。ゴードンは食事の間もほとんど話さなかった。ルシアンも話さなかった。リアナも話さなかった。三人とも、そういう人間だった。
三日目の昼過ぎ、王都が見えてきた。
馬車の窓から、遠くに城壁が見えた。その向こうに、尖塔が並んでいた。空は晴れていた。王都の上だけ、雲がなかった。
リアナは城壁を見た。
最後に見たのは、夜だった。泣かずに、怒らずに、荷物一つで出た夜だった。あのとき振り返らなかった。今、正面から見ている。
何かが込み上げるかと思った。でも、来なかった。ただ、静かだった。
「……着いたな」
ゴードンの声が、窓越しに聞こえた。もう一台の馬車からだった。低く、短い言葉だった。
リアナは前を向いた。
城壁が近づいてくる。城門をくぐる。石畳の音が変わる。王都の、整備された大通りだった。
人が多かった。看板が並んでいた。着飾った人々が行き交っていた。アーシェルとは全然違う。でも、もう怖くなかった。
ここは、自分が逃げた場所ではない。
自分が戻ってきた場所だった。
馬車が宿に着いた。荷を下ろしながら、ルシアンが言った。
「明日、協会へ挨拶に行く。発表は三日後だ」
「わかりました」
「今夜は休め。明日から忙しくなる」
リアナは頷いた。
宿の部屋に入り、荷物を置いた。窓を開けると、王都の夕暮れが見えた。赤と橙が、屋根の向こうに広がっていた。アーシェルより色が薄かった。空が広くなかった。
でも、綺麗だった。
リアナは窓枠に手をついて、しばらく夕暮れを見ていた。
三日後、すべてが始まる。
父の理論を、父の名前で、この街に刻む。
静かに、そう思った。
出発の日が決まったのは、それから一週間後だった。
ルシアンが王都への日程を組んだ。カサレス辺境伯として魔法師協会に正式な書状を送り、研究発表の場を申請した。返答は三日で来た。協会側が受け入れた。ボッシュ研究員が内部で動いたのだと、あとでゴードンから聞いた。
「思ったより早かったです」
「ボッシュは、機会を待っていたんだ。こちらが動けば、向こうも動く」
ゴードンが木箱に鍵をかけながら言った。三十年分の記録は、すでに荷造りが終わっていた。リアナの理論の清書も、二週間かけて仕上げた。百二十ページになった。
「親方は、王都へ戻るのは久しぶりですか」
「二十年ぶりだ」
それだけ言って、ゴードンは話を終わらせた。リアナもそれ以上聞かなかった。二十年ぶりの王都に、何を思っているかは、顔に出なかった。出さないようにしているのか、本当に何も出ないのか、リアナにはわからなかった。
出発前日、工房でトーマスとクレイが見送りの準備をしていた。といっても、二人がしたのは作業台の片付けと、リアナの荷物を入り口まで運んでくるという、それだけのことだったが。
「絶対うまくいくから」
トーマスが言った。根拠のない確信だった。でも、嫌いじゃなかった。
「……ありがとうございます」
「なんか、ヴェイルに言われると照れるな」
「うるさい」とクレイが言った。
「お前も何か言えよ」
「……気をつけて行け」
クレイが短く言った。それだけだったが、十分だった。リアナは小さく頷いた。
出発の朝は、曇っていた。
馬車が二台。一台にルシアンとリアナ、もう一台にゴードンと荷物。供の者が数人ついた。カサレス辺境伯の名前で動くということは、それだけの体裁が必要だということだった。
アーシェルの路地を馬車が進む。石畳の上を車輪が転がる音がした。広場を通るとき、リアナは窓から外を見た。
朝市が始まっていた。野菜を並べる人、荷を運ぶ人、井戸で水を汲む人。いつも通りの朝だった。リアナがここへ来た日も、こんな朝だったかもしれない。
最初に工房の扉を叩いた日のことを思い出した。荷物一つで辺境へ来た。行くあてもなかった。ただ、王都にはいられなかった。
それが今、王都へ戻る。
逃げて来た場所へ、立って戻る。
「……緊張しているか」
ルシアンが言った。馬車の向かいに座って、外を見ていた。こちらは見ていなかった。でも、気づいていた。
「少し」
「そうか」
それだけだった。慰めも励ましもなかった。でも、それでよかった。根拠のない言葉は要らなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。馬車の揺れと車輪の音だけがあった。
「ルシアン様は、王都は慣れていますか」
「嫌いだ」
即答だった。リアナは少し驚いた。
「……そうですか」
「華やかすぎる。磨かれすぎている。本音がどこにあるかわからない人間が多い」
リアナは窓の外を見た。アーシェルの外れに出て、街並みが途切れ、草原が広がっていた。
「私も、合いませんでした」
「知っている」
「……いつから知っていましたか」
「最初に会ったときから」
リアナは少し考えた。最初に会ったとき、ルシアンは冷然としていた。言葉が少なかった。値踏みされているような気がしたが、今思えば違ったのかもしれない。
「どこを見てわかったのですか」
「目だ。王都の人間の目をしていなかった」
リアナはそれを、褒め言葉として受け取った。否定する理由がなかった。
王都まで、馬車で三日かかった。
一日目は草原を抜けた。二日目は丘陵地帯を越えた。夜は宿場町に止まった。ゴードンは食事の間もほとんど話さなかった。ルシアンも話さなかった。リアナも話さなかった。三人とも、そういう人間だった。
三日目の昼過ぎ、王都が見えてきた。
馬車の窓から、遠くに城壁が見えた。その向こうに、尖塔が並んでいた。空は晴れていた。王都の上だけ、雲がなかった。
リアナは城壁を見た。
最後に見たのは、夜だった。泣かずに、怒らずに、荷物一つで出た夜だった。あのとき振り返らなかった。今、正面から見ている。
何かが込み上げるかと思った。でも、来なかった。ただ、静かだった。
「……着いたな」
ゴードンの声が、窓越しに聞こえた。もう一台の馬車からだった。低く、短い言葉だった。
リアナは前を向いた。
城壁が近づいてくる。城門をくぐる。石畳の音が変わる。王都の、整備された大通りだった。
人が多かった。看板が並んでいた。着飾った人々が行き交っていた。アーシェルとは全然違う。でも、もう怖くなかった。
ここは、自分が逃げた場所ではない。
自分が戻ってきた場所だった。
馬車が宿に着いた。荷を下ろしながら、ルシアンが言った。
「明日、協会へ挨拶に行く。発表は三日後だ」
「わかりました」
「今夜は休め。明日から忙しくなる」
リアナは頷いた。
宿の部屋に入り、荷物を置いた。窓を開けると、王都の夕暮れが見えた。赤と橙が、屋根の向こうに広がっていた。アーシェルより色が薄かった。空が広くなかった。
でも、綺麗だった。
リアナは窓枠に手をついて、しばらく夕暮れを見ていた。
三日後、すべてが始まる。
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静かに、そう思った。
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