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第七話「空いた馬車の隣」
第七話「空いた馬車の隣」
七月に入った。
東京の夏は、息が詰まるほど暑い。
朝から湿気が体にまとわりついて、夜になっても熱が引かない。
セイルはその頃、帰りがさらに遅くなっていた。
日付が変わってから帰ってくることも、珍しくなくなった。
私は夕食を作って、冷蔵庫に入れて、先に寝た。
翌朝、冷蔵庫を開けると、料理には手がついていなかった。
そういう夜が、増えていった。
ある朝、セイルが言った。
「来週、パリへ行く。コレクションの最終確認だ」
「わかりました。何日ほどですか」
「十日ほど」
私は少し間を置いた。
「私も、同行してもいいですか」
聞こうとして——また、飲み込んだ。
去年のパリを思い出したから。
ひとりでルーヴルを歩いた日を。
「気をつけて行ってきてください」
代わりに、そう言った。
「ああ」
セイルはコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
玄関で靴を履いて、ドアを開けた。
振り返らなかった。
ドアが閉まった。
私はテーブルの上のセイルのカップを見た。
飲み干されていた。
コーヒーは、飲んでくれた。
それだけで、今日は十分だと思った。
そういう自分が、少し怖かった。
セイルが出張している十日間、私はひとりで過ごした。
仕事に出て、帰ってきて、料理を作って、食べた。
誰かのために作る料理ではなく、自分のために作る料理だった。
好きな食材を選んで、好きな味付けをした。
浅煎りのコーヒーを淹れた。
静かで、穏やかな十日間だった。
寂しかった。
でも——どこか、楽だった。
その感覚が、怖かった。
夫がいない方が楽だと感じる自分が、怖かった。
十日目の夜、セイルが帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ああ」
いつもと同じ返事だった。
スーツケースを引きながら、シャワーを浴びに行った。
私はキッチンで温かいスープを作って、テーブルに置いた。
セイルがシャワーを終えて出てきた。
テーブルのスープを見て、少し間を置いた。
「……ありがとう」
珍しかった。
ありがとう、という言葉を、初めて聞いた気がした。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「お疲れ様でした。パリはどうでしたか」
「問題なく終わった」
「そうですか。よかった」
それだけだった。
でも今夜は、それ以上を聞いてみようと思った。
「パリ、綺麗でしたか」
セイルが少しだけ手を止めた。
「……綺麗だったな」
少し間があった。
「君も好きだろう、パリは」
私は少し驚いた。
セイルが私の好みについて、何かを言ったのは初めてだった。
「好きです。新婚旅行のとき、ルーヴルに行きました」
「そうだったな」
覚えていた。
あの三日間のことを、覚えていた。
それだけで、胸が痛かった。
覚えていたなら——なぜ、あのとき一緒に行ってくれなかったのだろう。
覚えていたなら——なぜ、今まで何も言わなかったのだろう。
でもその言葉は、口には出さなかった。
出せなかった。
「また行けるといいですね」
そう言って、微笑んだ。
「……ああ」
セイルが静かに言った。
その「ああ」は、いつもと少し違う気がした。
温度が、あった。
気のせいかもしれない。
でも私は、その温度をずっと覚えていた。
翌朝、目が覚めるとセイルはまだ眠っていた。
珍しかった。
出張の疲れだろう。
私はそっとベッドを出て、キッチンへ向かった。
今日は——浅煎りのコーヒーを淹れようと思った。
でも手が止まった。
セイルも、今日は家にいるかもしれない。
一緒に飲むなら、深煎りにしようか。
そう思った自分に、少し驚いた。
まだ、気にかけている。
まだ、この人のことを思って、コーヒーを選んでいる。
深煎りの豆を取り出して、コーヒーを淹れた。
カップをふたつ用意した。
でもセイルは、起きてこなかった。
私はひとりで、深煎りのコーヒーを飲んだ。
苦かった。
でも、温かかった。
その日の午後、仕事から帰る途中でスマートフォンが鳴った。
橘さんからだった。
「来月、雑誌の取材があります。テーマが『モデルの素顔』で、プライベートな話も聞かれると思います」
「わかりました」
「ご結婚のこと、ご主人のことも聞かれるかもしれません。どこまで話しますか」
私は少し考えた。
「幸せです、とだけ言います」
橘さんが少し間を置いた。
「……わかりました」
電話を切った。
幸せです、と言った。
嘘ではなかった。
でも——本当でもなかった。
どちらでもなかった。
タクシーの窓から、夏の東京が見えた。
照りつける太陽の下、みんな汗をかきながら歩いていた。
私もいつか、あんなふうに歩けるだろうか。
誰かの隣ではなく。
誰かのためでもなく。
ただ、自分のために。
汗をかきながら、でも自由に。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
家に帰ると、セイルがリビングにいた。
珍しかった。
ソファに座って、PCを開いていた。
「おかえり」
おかえり、と言った。
おかえりなさい、ではなく。
おかえり、だった。
私は少し、動けなかった。
たった一言の違いだった。
でも、全然違った。
「ただいまです」
そう言いながら、胸の奥が静かに揺れた。
この人は——こういう言葉を、持っていたのだ。
どうして今まで、使わなかったのだろう。
どうして今日だけ、使ったのだろう。
わからなかった。
でも、嬉しかった。
嬉しくて——少しだけ、悲しかった。
こんな小さなことで、こんなに揺れてしまう自分が。
まだ、愛しているのだと思った。
まだ——愛していた。
(第七話 了)
七月に入った。
東京の夏は、息が詰まるほど暑い。
朝から湿気が体にまとわりついて、夜になっても熱が引かない。
セイルはその頃、帰りがさらに遅くなっていた。
日付が変わってから帰ってくることも、珍しくなくなった。
私は夕食を作って、冷蔵庫に入れて、先に寝た。
翌朝、冷蔵庫を開けると、料理には手がついていなかった。
そういう夜が、増えていった。
ある朝、セイルが言った。
「来週、パリへ行く。コレクションの最終確認だ」
「わかりました。何日ほどですか」
「十日ほど」
私は少し間を置いた。
「私も、同行してもいいですか」
聞こうとして——また、飲み込んだ。
去年のパリを思い出したから。
ひとりでルーヴルを歩いた日を。
「気をつけて行ってきてください」
代わりに、そう言った。
「ああ」
セイルはコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
玄関で靴を履いて、ドアを開けた。
振り返らなかった。
ドアが閉まった。
私はテーブルの上のセイルのカップを見た。
飲み干されていた。
コーヒーは、飲んでくれた。
それだけで、今日は十分だと思った。
そういう自分が、少し怖かった。
セイルが出張している十日間、私はひとりで過ごした。
仕事に出て、帰ってきて、料理を作って、食べた。
誰かのために作る料理ではなく、自分のために作る料理だった。
好きな食材を選んで、好きな味付けをした。
浅煎りのコーヒーを淹れた。
静かで、穏やかな十日間だった。
寂しかった。
でも——どこか、楽だった。
その感覚が、怖かった。
夫がいない方が楽だと感じる自分が、怖かった。
十日目の夜、セイルが帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ああ」
いつもと同じ返事だった。
スーツケースを引きながら、シャワーを浴びに行った。
私はキッチンで温かいスープを作って、テーブルに置いた。
セイルがシャワーを終えて出てきた。
テーブルのスープを見て、少し間を置いた。
「……ありがとう」
珍しかった。
ありがとう、という言葉を、初めて聞いた気がした。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「お疲れ様でした。パリはどうでしたか」
「問題なく終わった」
「そうですか。よかった」
それだけだった。
でも今夜は、それ以上を聞いてみようと思った。
「パリ、綺麗でしたか」
セイルが少しだけ手を止めた。
「……綺麗だったな」
少し間があった。
「君も好きだろう、パリは」
私は少し驚いた。
セイルが私の好みについて、何かを言ったのは初めてだった。
「好きです。新婚旅行のとき、ルーヴルに行きました」
「そうだったな」
覚えていた。
あの三日間のことを、覚えていた。
それだけで、胸が痛かった。
覚えていたなら——なぜ、あのとき一緒に行ってくれなかったのだろう。
覚えていたなら——なぜ、今まで何も言わなかったのだろう。
でもその言葉は、口には出さなかった。
出せなかった。
「また行けるといいですね」
そう言って、微笑んだ。
「……ああ」
セイルが静かに言った。
その「ああ」は、いつもと少し違う気がした。
温度が、あった。
気のせいかもしれない。
でも私は、その温度をずっと覚えていた。
翌朝、目が覚めるとセイルはまだ眠っていた。
珍しかった。
出張の疲れだろう。
私はそっとベッドを出て、キッチンへ向かった。
今日は——浅煎りのコーヒーを淹れようと思った。
でも手が止まった。
セイルも、今日は家にいるかもしれない。
一緒に飲むなら、深煎りにしようか。
そう思った自分に、少し驚いた。
まだ、気にかけている。
まだ、この人のことを思って、コーヒーを選んでいる。
深煎りの豆を取り出して、コーヒーを淹れた。
カップをふたつ用意した。
でもセイルは、起きてこなかった。
私はひとりで、深煎りのコーヒーを飲んだ。
苦かった。
でも、温かかった。
その日の午後、仕事から帰る途中でスマートフォンが鳴った。
橘さんからだった。
「来月、雑誌の取材があります。テーマが『モデルの素顔』で、プライベートな話も聞かれると思います」
「わかりました」
「ご結婚のこと、ご主人のことも聞かれるかもしれません。どこまで話しますか」
私は少し考えた。
「幸せです、とだけ言います」
橘さんが少し間を置いた。
「……わかりました」
電話を切った。
幸せです、と言った。
嘘ではなかった。
でも——本当でもなかった。
どちらでもなかった。
タクシーの窓から、夏の東京が見えた。
照りつける太陽の下、みんな汗をかきながら歩いていた。
私もいつか、あんなふうに歩けるだろうか。
誰かの隣ではなく。
誰かのためでもなく。
ただ、自分のために。
汗をかきながら、でも自由に。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
家に帰ると、セイルがリビングにいた。
珍しかった。
ソファに座って、PCを開いていた。
「おかえり」
おかえり、と言った。
おかえりなさい、ではなく。
おかえり、だった。
私は少し、動けなかった。
たった一言の違いだった。
でも、全然違った。
「ただいまです」
そう言いながら、胸の奥が静かに揺れた。
この人は——こういう言葉を、持っていたのだ。
どうして今まで、使わなかったのだろう。
どうして今日だけ、使ったのだろう。
わからなかった。
でも、嬉しかった。
嬉しくて——少しだけ、悲しかった。
こんな小さなことで、こんなに揺れてしまう自分が。
まだ、愛しているのだと思った。
まだ——愛していた。
(第七話 了)
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