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第八話「レイナの本性」
第八話「レイナの本性」
八月になった。
東京の夏は、容赦がなかった。
アスファルトから熱気が立ち上って、空気が揺れていた。
セイルはその頃、さらに帰りが遅くなっていた。
深夜に帰ってきて、シャワーを浴びて、寝る。
朝は私が起きる前に出かけていた。
同じ家にいるのに、顔を見ない日が増えた。
それでも私は、毎朝コーヒーをふたつ分淹れた。
セイルの分は、いつも冷めたまま残っていた。
その頃から、セイルとレイナが一緒にいる場面を見ることが増えた。
仕事の場で。
業界のパーティーで。
撮影のあとのミーティングで。
ふたりが並んでいる写真が、業界誌のウェブサイトに載った。
CEILのオーナーと、CEILの専属モデル。
自然な組み合わせだった。
誰も、おかしいとは思わないだろう。
私だけが、おかしいと思っていた。
いや——おかしい、ではなかった。
ただ、痛かった。
その写真を見た夜、私はひとりでワインを飲んだ。
セイルの好きな銘柄ではなく、自分の好きなものを選んだ。
一口飲んで、窓の外を見た。
夏の夜空に、星が出ていた。
綺麗だった。
でも誰かと見たかった。
この景色を——セイルに見せたかった。
でも彼はまだ、帰っていなかった。
グラスを置いて、スマートフォンを閉じた。
もう、業界誌は見ないようにしよう、と思った。
でも翌朝、また開いていた。
そういうものだ、と思った。
やめられないことがある。
やめた方がいいとわかっていても、やめられないことが。
ある夜、業界のパーティーがあった。
会場は都内の高層ホテルの宴会場だった。
私はCEILのドレスを着て、セイルの隣に立った。
微笑み続けた。
完璧な妻として。
挨拶をして、乾杯をして、写真を撮った。
いつもと同じ夜だった。
会場の向こうに、レイナがいた。
今日も太陽みたいな笑顔で、業界の人たちと話していた。
でも今日のレイナは、どこか違った。
笑顔の奥に、何か重いものを抱えているような顔だった。
気のせいかもしれない。
でも私には、わかった。
セイルの視線が、何度かレイナの方へ動いた。
私は気づかないふりをした。
完璧な妻は、気づかない。
パーティーの途中、レイナが私のそばに来た。
「奥様、今日もお綺麗ですね」
「ありがとうございます」
いつもの言葉だった。
いつもの微笑みで返した。
レイナが少しだけ声を落とした。
「奥様、少しだけ外で話せますか」
何かを決意したような顔だった。
「……わかりました」
会場を出て、テラスに向かった。
夜の東京が、眼下に広がっていた。
夜風が、少しだけ涼しかった。
昼間の熱がまだ残っていて、でも風だけは優しかった。
レイナが、夜景を見ながら口を開いた。
「奥様に、正直に話さなければいけないことがあります」
私は黙って、続きを待った。
「私、セイルさんに気持ちを伝えました」
胸の奥が、しんと冷えた。
でも驚かなかった。
わかっていたから。
ずっと、わかっていたから。
「そうですか」
それだけ言った。
声が、思ったより静かだった。
レイナが続けた。
「セイルさんは——断りました」
また、少し間があった。
「『気持ちには応えられない』と言われました」
私はしばらく、夜景を見ていた。
断った。
セイルが、断った。
それが——嬉しいのか、悲しいのか、わからなかった。
嬉しいはずなのに、胸が痛かった。
悲しいはずなのに、涙が出なかった。
セイルが断ったことで——私たちの間に何かが戻るわけではない、とわかっていたから。
問題は、レイナではなかった。
最初から、問題はレイナではなかった。
「奥様に、黙っていられなくて」
レイナの声が、少し震えていた。
「私のせいで、奥様を傷つけてしまったと思います。本当に、ごめんなさい」
まっすぐな謝罪だった。
悪意がない。
ただ、正直だった。
この子はいつも、正直だった。
悪役になれない子だった。
私はしばらく黙っていた。
夜風が頬を撫でた。
東京の夜景が、きらきらと光っていた。
綺麗だった。
でも今はその綺麗さが、少し遠かった。
「レイナさん」
「はい」
「あなたは悪くない」
レイナが少しだけ目を潤ませた。
「でも奥様は——」
「悪くないんです」
もう一度、静かに言った。
「恋をすることは、悪いことじゃない。あなたはただ、正直だっただけです」
レイナが唇を震わせた。
「奥様……」
「でも私も——」
少し間を置いた。
「もう戻れない、という気がしています」
言葉にすると、思ったより静かだった。
泣くかと思った。
でも、泣かなかった。
ただ、静かに、確かだった。
レイナが涙をこらえながら言った。
「奥様は、強い」
また、その言葉だった。
強い。
今回は——少しだけ、その言葉が違って聞こえた。
哀れみではなく。
本当に、強いと思ってくれているような言葉だった。
「ありがとう」
今度は、「ありがとうございます」ではなく。
「ありがとう」と言えた。
レイナが少しだけ微笑んだ。
泣きそうな笑顔だった。
ふたりでしばらく、夜景を見ていた。
言葉はなかった。
でも、静かだった。
悪くない沈黙だった。
会場に戻ると、セイルが私を探していた。
「どこにいた」
「テラスで少し風に当たっていました」
「そうか」
それだけだった。
セイルはレイナを見た。
レイナは微笑んで、軽く頭を下げた。
セイルも、少しだけ頷いた。
三人の間に、静かな空気が流れた。
私はその空気の中で、微笑んだ。
完璧な微笑みで。
でも今夜の微笑みは——少しだけ、前と違う気がした。
完璧なだけじゃない。
何か、別のものが混じっていた。
帰りの車の中、セイルと並んで座っていた。
外に夜の東京が流れていく。
私は窓の外を見ながら、静かに思った。
問題は、レイナじゃなかった。
最初から、そうだった。
問題は——私たちのあいだにあった。
埋まらない距離。
呼ばれない名前。
冷めたままの料理。
届かない言葉。
それが五年間、積み重なっていた。
レイナが現れる前から、もう始まっていたことだった。
私はそっと目を閉じた。
もう十分だ、と思った。
泣きながらではなく。
怒りながらでもなく。
ただ、静かに。
もう、十分だった。
(第八話 了)
八月になった。
東京の夏は、容赦がなかった。
アスファルトから熱気が立ち上って、空気が揺れていた。
セイルはその頃、さらに帰りが遅くなっていた。
深夜に帰ってきて、シャワーを浴びて、寝る。
朝は私が起きる前に出かけていた。
同じ家にいるのに、顔を見ない日が増えた。
それでも私は、毎朝コーヒーをふたつ分淹れた。
セイルの分は、いつも冷めたまま残っていた。
その頃から、セイルとレイナが一緒にいる場面を見ることが増えた。
仕事の場で。
業界のパーティーで。
撮影のあとのミーティングで。
ふたりが並んでいる写真が、業界誌のウェブサイトに載った。
CEILのオーナーと、CEILの専属モデル。
自然な組み合わせだった。
誰も、おかしいとは思わないだろう。
私だけが、おかしいと思っていた。
いや——おかしい、ではなかった。
ただ、痛かった。
その写真を見た夜、私はひとりでワインを飲んだ。
セイルの好きな銘柄ではなく、自分の好きなものを選んだ。
一口飲んで、窓の外を見た。
夏の夜空に、星が出ていた。
綺麗だった。
でも誰かと見たかった。
この景色を——セイルに見せたかった。
でも彼はまだ、帰っていなかった。
グラスを置いて、スマートフォンを閉じた。
もう、業界誌は見ないようにしよう、と思った。
でも翌朝、また開いていた。
そういうものだ、と思った。
やめられないことがある。
やめた方がいいとわかっていても、やめられないことが。
ある夜、業界のパーティーがあった。
会場は都内の高層ホテルの宴会場だった。
私はCEILのドレスを着て、セイルの隣に立った。
微笑み続けた。
完璧な妻として。
挨拶をして、乾杯をして、写真を撮った。
いつもと同じ夜だった。
会場の向こうに、レイナがいた。
今日も太陽みたいな笑顔で、業界の人たちと話していた。
でも今日のレイナは、どこか違った。
笑顔の奥に、何か重いものを抱えているような顔だった。
気のせいかもしれない。
でも私には、わかった。
セイルの視線が、何度かレイナの方へ動いた。
私は気づかないふりをした。
完璧な妻は、気づかない。
パーティーの途中、レイナが私のそばに来た。
「奥様、今日もお綺麗ですね」
「ありがとうございます」
いつもの言葉だった。
いつもの微笑みで返した。
レイナが少しだけ声を落とした。
「奥様、少しだけ外で話せますか」
何かを決意したような顔だった。
「……わかりました」
会場を出て、テラスに向かった。
夜の東京が、眼下に広がっていた。
夜風が、少しだけ涼しかった。
昼間の熱がまだ残っていて、でも風だけは優しかった。
レイナが、夜景を見ながら口を開いた。
「奥様に、正直に話さなければいけないことがあります」
私は黙って、続きを待った。
「私、セイルさんに気持ちを伝えました」
胸の奥が、しんと冷えた。
でも驚かなかった。
わかっていたから。
ずっと、わかっていたから。
「そうですか」
それだけ言った。
声が、思ったより静かだった。
レイナが続けた。
「セイルさんは——断りました」
また、少し間があった。
「『気持ちには応えられない』と言われました」
私はしばらく、夜景を見ていた。
断った。
セイルが、断った。
それが——嬉しいのか、悲しいのか、わからなかった。
嬉しいはずなのに、胸が痛かった。
悲しいはずなのに、涙が出なかった。
セイルが断ったことで——私たちの間に何かが戻るわけではない、とわかっていたから。
問題は、レイナではなかった。
最初から、問題はレイナではなかった。
「奥様に、黙っていられなくて」
レイナの声が、少し震えていた。
「私のせいで、奥様を傷つけてしまったと思います。本当に、ごめんなさい」
まっすぐな謝罪だった。
悪意がない。
ただ、正直だった。
この子はいつも、正直だった。
悪役になれない子だった。
私はしばらく黙っていた。
夜風が頬を撫でた。
東京の夜景が、きらきらと光っていた。
綺麗だった。
でも今はその綺麗さが、少し遠かった。
「レイナさん」
「はい」
「あなたは悪くない」
レイナが少しだけ目を潤ませた。
「でも奥様は——」
「悪くないんです」
もう一度、静かに言った。
「恋をすることは、悪いことじゃない。あなたはただ、正直だっただけです」
レイナが唇を震わせた。
「奥様……」
「でも私も——」
少し間を置いた。
「もう戻れない、という気がしています」
言葉にすると、思ったより静かだった。
泣くかと思った。
でも、泣かなかった。
ただ、静かに、確かだった。
レイナが涙をこらえながら言った。
「奥様は、強い」
また、その言葉だった。
強い。
今回は——少しだけ、その言葉が違って聞こえた。
哀れみではなく。
本当に、強いと思ってくれているような言葉だった。
「ありがとう」
今度は、「ありがとうございます」ではなく。
「ありがとう」と言えた。
レイナが少しだけ微笑んだ。
泣きそうな笑顔だった。
ふたりでしばらく、夜景を見ていた。
言葉はなかった。
でも、静かだった。
悪くない沈黙だった。
会場に戻ると、セイルが私を探していた。
「どこにいた」
「テラスで少し風に当たっていました」
「そうか」
それだけだった。
セイルはレイナを見た。
レイナは微笑んで、軽く頭を下げた。
セイルも、少しだけ頷いた。
三人の間に、静かな空気が流れた。
私はその空気の中で、微笑んだ。
完璧な微笑みで。
でも今夜の微笑みは——少しだけ、前と違う気がした。
完璧なだけじゃない。
何か、別のものが混じっていた。
帰りの車の中、セイルと並んで座っていた。
外に夜の東京が流れていく。
私は窓の外を見ながら、静かに思った。
問題は、レイナじゃなかった。
最初から、そうだった。
問題は——私たちのあいだにあった。
埋まらない距離。
呼ばれない名前。
冷めたままの料理。
届かない言葉。
それが五年間、積み重なっていた。
レイナが現れる前から、もう始まっていたことだった。
私はそっと目を閉じた。
もう十分だ、と思った。
泣きながらではなく。
怒りながらでもなく。
ただ、静かに。
もう、十分だった。
(第八話 了)
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