「愛していました。だから、もう行きます」 〜愛した分だけ、遠くへ行く〜

まさき

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第十五話「五年分の微笑み」

第十五話「五年分の微笑み」

 二月になった。
 
 東京に、珍しく雪が降った。
 
 
 朝、目が覚めると窓の外が白かった。
 
 
 静かだった。
 
 
 雪が音を吸い込んで、街がしんと静まり返っていた。
 
 
 私はコーヒーを淹れて、窓の前に立った。
 
 
 浅煎りを。
 
 
 カップは一つだけ。
 
 
 雪の東京を見ながら、思った。
 
 
 今日、話そう。
 
 
 今日、セイルに言おう。
 
 
 五年間——いや、準備してきたのは三ヶ月だ。
 
 
 でも、心の準備は——五年間かかった。
 
 
 叔父と相談して、書類を整えた。
 
 
 代々木のマンションの鍵も、もう手元にある。
 
 
 荷物も、少しずつ移し始めていた。
 
 
 自分で買ったもの、自分が好きなもの、自分のためのものだけを。
 
 
 それだけで、段ボール二箱しかなかった。
 
 
 五年間暮らした家なのに、自分のものは段ボール二箱分しかなかった。
 
 
 それが——少し、おかしくて。
 
 
 笑えなかったけれど、泣きもしなかった。
 
 
 コーヒーを飲み干して、引き出しを開けた。
 
 
 離婚届が、静かにそこにあった。
 
 
 手に取って、テーブルの上に置いた。
 
 
 深呼吸をした。
 
 
 その日の朝、セイルは珍しく家にいた。
 
 
 雪のせいで、予定が変わったのだろう。
 
 
 書斎でPCを開いていた。
 
 
 書斎のドアをノックした。
 
 
「少し、いいですか」
 
 
「何だ」
 
 
「話があります」
 
 
 セイルがPCから目を上げた。
 
 
 私の顔を見て、少し表情が変わった。
 
 
 何かを察したのかもしれない。
 
 
「リビングに来てもらえますか」
 
 
「……わかった」
 
 
 ふたりでリビングに移った。
 
 
 私はテーブルの上の離婚届を、セイルの前に置いた。
 
 
 セイルがそれを見た。
 
 
 少し間があった。
 
 
「……離婚届か」
 
 
「はい」
 
 
 静かだった。
 
 
 私の声も、セイルの声も、静かだった。
 
 
「離婚してください」
 
 
 言葉にすると、思ったより静かだった。
 
 
 震えなかった。
 
 
 泣かなかった。
 
 
 ただ、静かだった。
 
 
 セイルがしばらく、離婚届を見ていた。
 
 
 窓の外で、雪がまだ降っていた。
 
 
「……理由は」
 
 
「たくさんあります。でも——一言で言うなら」
 
 
 少し間を置いた。
 
 
「もう十分だと思ったから、です」
 
 
 セイルが少し間を置いた。
 
 
「十分、とは」
 
 
「五年間、頑張りました。完璧な妻を演じ続けました。でも——もう十分です」
 
 
 セイルがまた、少し黙った。
 
 
 反論しなかった。
 
 
 引き止めなかった。
 
 
 ただ、黙っていた。
 
 
 窓の外で、雪が静かに積もっていた。
 
 
「……引き止めていいか」
 
 
 セイルが静かに言った。
 
 
 私は少し間を置いた。
 
 
「引き止めてもいいです。でも——気持ちは変わりません」
 
 
「なぜ変わらない」
 
 
 私は少し考えた。
 
 
「愛していたからです」
 
 
 セイルが少しだけ目を細めた。
 
 
「愛していた——過去形か」
 
 
「今も、好きですよ。でも——愛していたから、もう行けるんです」
 
 
 セイルがしばらく黙っていた。
 
 
 私も黙っていた。
 
 
 雪が、窓を白く染めていた。
 
 
「……わかった」
 
 
 セイルが静かに言った。
 
 
 それだけだった。
 
 
 反対しなかった。
 
 
 泣かなかった。
 
 
 ただ、「わかった」と言った。
 
 
 私はペンを差し出した。
 
 
 セイルはそれを受け取って——しばらく、離婚届を見ていた。
 
 
 窓の外の雪を、一度だけ見た。
 
 
 それからゆっくりと、サインをした。
 
 
 ペンを置いた。
 
 
 私はその離婚届を、手に取った。
 
 
 セイルのサインが、そこにあった。
 
 
 静かな字だった。
 
 
 この人らしい字だった。
 
 
「ありがとうございます」
 
 
 私は静かに言った。
 
 
 セイルが少し間を置いた。
 
 
「……すまなかった」
 
 
「大丈夫ですよ」
 
 
 また、大丈夫。
 
 
 でも今回の「大丈夫ですよ」は——本当に、大丈夫だった。
 
 
 セイルが立ち上がった。
 
 
 書斎へ戻ろうとして——ドアの前で、立ち止まった。
 
 
 振り返らなかった。
 
 
 でも、声がした。
 
 
「……五年間、ありがとう」
 
 
 私は少し間を置いた。
 
 
「こちらこそ」
 
 
 セイルが書斎に消えた。
 
 
 ドアが静かに閉まった。
 
 
 私はリビングにひとりで立っていた。
 
 
 手の中に、離婚届があった。
 
 
 セイルのサインが入った、離婚届。
 
 
 泣くかと思った。
 
 
 でも、泣かなかった。
 
 
 ただ、静かだった。
 
 
 窓の外を見た。
 
 
 雪がまだ降っていた。
 
 
 白くて、静かで、綺麗だった。
 
 
 私はその雪を見ながら、思った。
 
 
 五年間、頑張った。
 
 
 完璧な妻を、演じ続けた。
 
 
 嫉妬も、飲み込んだ。
 
 
 寂しさも、飲み込んだ。
 
 
 名前を呼ばれなくても、笑い続けた。
 
 
 誕生日に花束の送り主が「社長」でも、微笑み続けた。
 
 
 でも今日で——終わりだ。
 
 
 終わりは、思ったより静かだった。
 
 
 嵐ではなかった。
 
 
 雪みたいに、静かだった。
 
 
 離婚届をバッグにしまって、コートを羽織った。
 
 
 役所に提出しに行こうと思った。
 
 
 玄関で靴を履きながら、ふと立ち止まった。
 
 
 五年間、この玄関でセイルの帰りを待った。
 
 
 「おかえりなさい」と言い続けた。
 
 
 笑顔で。
 
 
 完璧な妻として。
 
 
 ありがとう、と心の中で言った。
 
 
 怨んでいない。
 
 
 本当に、怨んでいない。
 
 
 愛していた。
 
 
 だから、行く。
 
 
 ドアを開けると、雪の冷たい空気が頬を撫でた。
 
 
 深呼吸をした。
 
 
 白い息が、空気の中に溶けていった。
 
 
 歩き出した。
 
 
 雪の上を、一歩ずつ。
 
 
 足跡が、白い雪の上に残っていった。
 
 
 振り返らなかった。
 
 
 振り返らなかった。
 
 
 愛していました。
 
 
 だから、もう行きます。
 
 
 愛した分だけ——遠くへ。
 
 
(第十五話 了)
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