「愛していました。だから、もう行きます」 〜愛した分だけ、遠くへ行く〜

まさき

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第十七話「サインの朝」

第十七話「サインの朝」

 翌朝、目が覚めた。
 
 窓の外がまだ暗かった。
 
 
 時計を見ると、午前五時だった。
 
 
 隣を見ると——セイルはまだいた。
 
 
 珍しかった。
 
 
 いつもなら、私が起きる前に出かけている。
 
 
 穏やかな寝息が聞こえた。
 
 
 静かな、深い寝息だった。
 
 
 五年間、毎晩聞いた寝息だった。
 
 
 今日が、最後だ。
 
 
 そう思っても——泣かなかった。
 
 
 ただ、静かだった。
 
 
 私はそっとベッドを出た。
 
 
 音を立てないように、静かに。
 
 
 キッチンへ向かった。
 
 
 コーヒーを淹れた。
 
 
 浅煎りを。
 
 
 カップは一つだけ。
 
 
 マグカップを両手で包んで、窓の前に立った。
 
 
 東京の夜明けが、ゆっくりと明けていく。
 
 
 空の端が、少しずつ明るくなっていた。
 
 
 橙色と、紫と、少しだけ青が混じった色だった。
 
 
 綺麗だった。
 
 
 今日も——綺麗だと思えた。
 
 
 コーヒーを一口飲んだ。
 
 
 浅煎りの、優しい味がした。
 
 
 これが好きだ、と思った。
 
 
 この味が、私の好きな味だ。
 
 
 五年間、深煎りを飲み続けた。
 
 
 セイルの好みに合わせて、毎朝深煎りを淹れた。
 
 
 でも今日から——ずっと、浅煎りを飲める。
 
 
 それだけのことが、少し嬉しかった。
 
 
 コーヒーを飲み終えて、荷物の確認をした。
 
 
 寝室に戻って、クローゼットを開けた。
 
 
 段ボールが二箱、隅に積んであった。
 
 
 これは昨日、業者に頼んで代々木のマンションに運んでもらう手配をしていた。
 
 
 今日持っていくのは——スーツケース一つ分だけ。
 
 
 スーツケースを出して、丁寧に詰めた。
 
 
 好きな本。
 
 
 母にもらったアクセサリー。
 
 
 澪と撮った写真。
 
 
 浅煎りの豆。
 
 
 日記。
 
 
 それだけで、スーツケースはちょうど埋まった。
 
 
 ジッパーを閉めながら、思った。
 
 
 これが、私のものだ。
 
 
 五年間で残った、水城ソフィアのものだ。
 
 
 多くはなかった。
 
 
 でも——全部、大切なものだった。
 
 
 リビングに戻って、もう一度コーヒーを淹れた。
 
 
 今度は——ゆっくり飲もうと思った。
 
 
 この部屋で飲む、最後のコーヒー。
 
 
 ソファに座って、窓の外を見た。
 
 
 夜明けが、もう終わりかけていた。
 
 
 空が、青くなっていた。
 
 
 雲が少しだけ流れていた。
 
 
 五年間、この窓から東京を見た。
 
 
 綺麗だと思えなかった日が、たくさんあった。
 
 
 いつも隣に誰もいなかったから。
 
 
 でも今朝は——綺麗だった。
 
 
 ひとりで見ても、綺麗だった。
 
 
 遠くにスカイツリーが見えた。
 
 
 五年間、何度も眺めた景色。
 
 
 今日が最後だ、と思っても——寂しくなかった。
 
 
 むしろ——清々しかった。
 
 
 コーヒーを飲み干した。
 
 
 マグカップをシンクに置いた。
 
 
 洗おうとして、やめた。
 
 
 これは置いていく。
 
 
 私が買ったものじゃないから。
 
 
 部屋をぐるりと見回した。
 
 
 忘れ物はない。
 
 
 というより、忘れていくものしかない。
 
 
 CEILのドレスたち。
 
 
 セイルが選んだ家具。
 
 
 深煎りのコーヒー豆。
 
 
 全部、置いていく。
 
 
 全部——「黒瀬セイルの妻」として必要だったものだから。
 
 
 コートを羽織った。
 
 
 スーツケースを引いて、玄関へ向かった。
 
 
 靴を履きながら、ふと立ち止まった。
 
 
 五年間、この玄関でセイルの帰りを待った。
 
 
 深夜に帰ってくるたびに、「おかえりなさい」と言った。
 
 
 笑顔で。
 
 
 完璧な妻として。
 
 
 一度だけ、本当のことを言いそうになった夜がある。
 
 
「寂しかった」と。
 
 
「もっと話したい」と。
 
 
「私の名前を呼んでほしい」と。
 
 
 でも彼の疲れた顔を見て、飲み込んだ。
 
 
 それからずっと、飲み込み続けた。
 
 
 五年分の言葉が、今も胸の中に沈んでいる。
 
 
 一度だけ、振り返った。
 
 
 広いリビング。
 
 
 大きな窓。
 
 
 スカイツリーが見える景色。
 
 
 五年間の舞台だった場所。
 
 
 ありがとう、と心の中で言った。
 
 
 怨んでいない。
 
 
 本当に、怨んでいない。
 
 
 愛していた。
 
 
 だから、行く。
 
 
 ドアノブに手をかけた。
 
 
 開けようとした、その瞬間。
 
 
 寝室のドアが、静かに開いた。
 
 
 セイルが立っていた。
 
 
 寝起きのままの顔だった。
 
 
 スーツを着ていなかった。
 
 
 珍しかった。
 
 
 こんなふうに、素のままのセイルを見たのは——いつ以来だろう。
 
 
 目が合った。
 
 
 無言だった。
 
 
 セイルの表情が——いつもと違った。
 
 
 何かを言おうとしているような顔だった。
 
 
 でも、言葉が出ないようだった。
 
 
 喉が動いた。
 
 
 唇が、少しだけ開いた。
 
 
 でも——声にならなかった。
 
 
 あのときも、呼ぼうとして、呼べなかった。
 
 
 この人は——ずっと、こういう人だったのだ。
 
 
 気づかなくて。
 
 
 気づいても、できなくて。
 
 
 それでも、しようとする。
 
 
 私は微笑んだ。
 
 
 完璧な微笑みではなかった。
 
 
 でも——今まで一番、自分らしい微笑みだった。
 
 
「お世話になりました」
 
 
 そう言って、ドアを開けた。
 
 
 廊下に朝の光が満ちていた。
 
 
 エレベーターのボタンを押した。
 
 
 扉が開いた。
 
 
 スーツケースを引きながら中に入って、一階のボタンを押した。
 
 
 扉が閉まりかけたその瞬間。
 
 
 遠くから声がした。
 
 
「ソフィア!」
 
 
 五年間、一度も呼ばれなかった名前だった。
 
 
 扉は、静かに閉まった。
 
 
 私は前を向いたまま、動かなかった。
 
 
 瞳の奥が、じわりと熱くなった。
 
 
 でも泣かなかった。
 
 
 泣かなかった。
 
 
 ただ、唇だけが——かすかに、震えていた。
 
 
(第十七話 了)
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