1 / 10
第1話「愛人を連れた夫、その翌朝」
目が覚めたとき、隣は空だった。
もっとも、最初からそうだったから、驚きはない。クレアは静かに身を起こし、カーテンの隙間から差し込む朝の光を見つめた。
今日も、いい天気だ。
侯爵家に嫁いで、三年が経つ。
夫であるダリウス・モルガンとの暮らしは、婚礼の夜から既に終わっていた。彼は妻に関心がなかった。社交の場では隣に立たせ、屋敷では存在を無視する。それがこの三年間のすべてだった。
最初は悲しかった。次第に慣れた。そしていつからか、何も感じなくなった。
異変があったのは、昨夜のことだ。
馬車の音で目が覚めた。深夜に帰宅するのは珍しくない。だが今回は違った。玄関ホールに響く、高い笑い声。女の声だった。
クレアは部屋を出なかった。出る必要がないと思った。けれど廊下を歩く侍女のリナが、青ざめた顔で扉を叩いてきた。
「奥様……旦那様が、女性を連れて……」
それだけで十分だった。
クレアは夜明けまで、静かに考えた。
泣かなかった。怒りもなかった。ただ、ひとつのことだけが頭の中でゆっくりと形になっていった。
――ああ、終わりにしよう。
朝になった。
クレアは丁寧に身支度を整えた。いつもと変わらぬ薄いブルーのドレス。髪は簡単にまとめる。化粧は薄く。鏡の中の自分は、三年前より少し痩せていた。
机に向かい、便箋を一枚取り出した。
書いたのは短い文章だ。長々と綴る気持ちはなかった。ただ、事実だけを記した。
――私、クレア・モルガンは、本日をもって離縁を申し出ます。
署名をして、ダリウスの執務室の前に置いた。封もしなかった。読まれなくても構わなかった。
荷物はほとんど持たなかった。
嫁入り道具のほとんどは侯爵家のものだ。持ち出せるのは、実家から持ってきた小さな宝石箱と、数着の私物だけ。リナが泣きながら手伝ってくれた。
「奥様、本当によろしいのですか」
「ええ」
「お一人で、どちらへ……」
「大丈夫よ」
クレアは微笑んだ。嘘ではなかった。不思議と、心は凪いでいた。
屋敷を出る前、一度だけ振り返った。
三年間暮らした場所だ。広くて、冷たくて、いつも静かだった。庭の薔薇だけが毎年きれいに咲いた。それだけが好きだった。
引き止める者は、誰もいなかった。
ダリウスはまだ眠っているのだろう。使用人たちは目を伏せていた。クレアは小さく息を吐いて、門へと向かった。
重い鉄の門が、ゆっくりと開く。
一歩、外へ出た。
春の朝の空気が、頬に触れた。冷たくて、澄んでいた。三年ぶりに、本当の外の空気を吸った気がした。
――これで、終わった。
そう思ったとき。
「待っていました」
低く、静かな声がした。
クレアは顔を上げた。
門の前に、一人の男が立っていた。騎士団の制服を身につけ、まっすぐにクレアを見ている。日の光の中で、その顔は変わらず、穏やかだった。
「……ルーカス」
幼い頃から知っている顔だ。伯爵家の隣の屋敷で育った、一つ年上の幼馴染。今は王国騎士団長の地位にある。
「この屋敷の警護を担当していたの?」
「はい。この三年間、ずっと」
あまりにも静かな答えだった。
クレアはしばらく言葉が出なかった。三年間。この屋敷の外に、ずっと彼がいた。それを知らなかった。気づかなかった。
「知らせてくれればよかったのに」
「あなたが出てくるまで、声をかけるつもりはありませんでした」
ルーカスはそう言って、わずかに表情を和らげた。
「やっと迎えに来れた」
その一言が、三年間凍りついていた何かを、静かに溶かしていった。
視界がじわりと滲んだ。泣かないと決めていたのに。
「……馬鹿ね」
「そうかもしれません」
「三年も、待つことないでしょう」
「あなたが決めるまで待つと、昔から決めていましたから」
朝の光の中で、ルーカスがそっと手を差し伸べた。
クレアはその手を見つめた。大きくて、武骨で、でも温かそうな手だった。
少しだけ迷って――その手を取った。
もっとも、最初からそうだったから、驚きはない。クレアは静かに身を起こし、カーテンの隙間から差し込む朝の光を見つめた。
今日も、いい天気だ。
侯爵家に嫁いで、三年が経つ。
夫であるダリウス・モルガンとの暮らしは、婚礼の夜から既に終わっていた。彼は妻に関心がなかった。社交の場では隣に立たせ、屋敷では存在を無視する。それがこの三年間のすべてだった。
最初は悲しかった。次第に慣れた。そしていつからか、何も感じなくなった。
異変があったのは、昨夜のことだ。
馬車の音で目が覚めた。深夜に帰宅するのは珍しくない。だが今回は違った。玄関ホールに響く、高い笑い声。女の声だった。
クレアは部屋を出なかった。出る必要がないと思った。けれど廊下を歩く侍女のリナが、青ざめた顔で扉を叩いてきた。
「奥様……旦那様が、女性を連れて……」
それだけで十分だった。
クレアは夜明けまで、静かに考えた。
泣かなかった。怒りもなかった。ただ、ひとつのことだけが頭の中でゆっくりと形になっていった。
――ああ、終わりにしよう。
朝になった。
クレアは丁寧に身支度を整えた。いつもと変わらぬ薄いブルーのドレス。髪は簡単にまとめる。化粧は薄く。鏡の中の自分は、三年前より少し痩せていた。
机に向かい、便箋を一枚取り出した。
書いたのは短い文章だ。長々と綴る気持ちはなかった。ただ、事実だけを記した。
――私、クレア・モルガンは、本日をもって離縁を申し出ます。
署名をして、ダリウスの執務室の前に置いた。封もしなかった。読まれなくても構わなかった。
荷物はほとんど持たなかった。
嫁入り道具のほとんどは侯爵家のものだ。持ち出せるのは、実家から持ってきた小さな宝石箱と、数着の私物だけ。リナが泣きながら手伝ってくれた。
「奥様、本当によろしいのですか」
「ええ」
「お一人で、どちらへ……」
「大丈夫よ」
クレアは微笑んだ。嘘ではなかった。不思議と、心は凪いでいた。
屋敷を出る前、一度だけ振り返った。
三年間暮らした場所だ。広くて、冷たくて、いつも静かだった。庭の薔薇だけが毎年きれいに咲いた。それだけが好きだった。
引き止める者は、誰もいなかった。
ダリウスはまだ眠っているのだろう。使用人たちは目を伏せていた。クレアは小さく息を吐いて、門へと向かった。
重い鉄の門が、ゆっくりと開く。
一歩、外へ出た。
春の朝の空気が、頬に触れた。冷たくて、澄んでいた。三年ぶりに、本当の外の空気を吸った気がした。
――これで、終わった。
そう思ったとき。
「待っていました」
低く、静かな声がした。
クレアは顔を上げた。
門の前に、一人の男が立っていた。騎士団の制服を身につけ、まっすぐにクレアを見ている。日の光の中で、その顔は変わらず、穏やかだった。
「……ルーカス」
幼い頃から知っている顔だ。伯爵家の隣の屋敷で育った、一つ年上の幼馴染。今は王国騎士団長の地位にある。
「この屋敷の警護を担当していたの?」
「はい。この三年間、ずっと」
あまりにも静かな答えだった。
クレアはしばらく言葉が出なかった。三年間。この屋敷の外に、ずっと彼がいた。それを知らなかった。気づかなかった。
「知らせてくれればよかったのに」
「あなたが出てくるまで、声をかけるつもりはありませんでした」
ルーカスはそう言って、わずかに表情を和らげた。
「やっと迎えに来れた」
その一言が、三年間凍りついていた何かを、静かに溶かしていった。
視界がじわりと滲んだ。泣かないと決めていたのに。
「……馬鹿ね」
「そうかもしれません」
「三年も、待つことないでしょう」
「あなたが決めるまで待つと、昔から決めていましたから」
朝の光の中で、ルーカスがそっと手を差し伸べた。
クレアはその手を見つめた。大きくて、武骨で、でも温かそうな手だった。
少しだけ迷って――その手を取った。
あなたにおすすめの小説
余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します
なつめ
恋愛
公爵家に嫁いで三年。
夫アレクシスは義務だけを果たす、冷たい人だった。
愛のない結婚だとわかっていたから、主人公エレノアも期待しないふりをして生きてきた。
けれどある日、彼女は余命半年を宣告される。
原因は長年蓄積した病と、心身を削る公爵家での生活。
残された時間が半年しかないのなら、もう誰にも気を遣わず、自分のために生きたい。そう決意したエレノアは、夫へ静かに告げる。
「あなたの愛など要りませんので、離縁してください」
最初はそれを淡々と受け止めたはずの夫は、彼女が本当に去ろうとした時に初めて、自分が妻を深く愛していたことを知る。
だが気づくのが遅すぎた。
彼女の命は、もう長くない。
遅すぎた愛にすがる夫と、最後まで自分の尊厳を守ろうとする妻。
離縁、後悔、すれ違い、余命。
泣けて苦しくて、それでも最後まで追いたくなる後悔系・溺愛逆転ロマンス。
白い結婚の行方
宵森みなと
恋愛
「この結婚は、形式だけ。三年経ったら、離縁して養子縁組みをして欲しい。」
そう告げられたのは、まだ十二歳だった。
名門マイラス侯爵家の跡取りと、書面上だけの「夫婦」になるという取り決め。
愛もなく、未来も誓わず、ただ家と家の都合で交わされた契約だが、彼女にも目的はあった。
この白い結婚の意味を誰より彼女は、知っていた。自らの運命をどう選択するのか、彼女自身に委ねられていた。
冷静で、理知的で、どこか人を寄せつけない彼女。
誰もが「大人びている」と評した少女の胸の奥には、小さな祈りが宿っていた。
結婚に興味などなかったはずの青年も、少女との出会いと別れ、後悔を経て、再び運命を掴もうと足掻く。
これは、名ばかりの「夫婦」から始まった二人の物語。
偽りの契りが、やがて確かな絆へと変わるまで。
交差する記憶、巻き戻る時間、二度目の選択――。
真実の愛とは何かを、問いかける静かなる運命の物語。
──三年後、彼女の選択は、彼らは本当に“夫婦”になれるのだろうか?
大嫌いな幼馴染の皇太子殿下と婚姻させられたので、白い結婚をお願いいたしました
柴野
恋愛
「これは白い結婚ということにいたしましょう」
結婚初夜、そうお願いしたジェシカに、夫となる人は眉を顰めて答えた。
「……ああ、お前の好きにしろ」
婚約者だった隣国の王弟に別れを切り出され嫁ぎ先を失った公爵令嬢ジェシカ・スタンナードは、幼馴染でありながら、たいへん仲の悪かった皇太子ヒューパートと王命で婚姻させられた。
ヒューパート皇太子には陰ながら想っていた令嬢がいたのに、彼女は第二王子の婚約者になってしまったので長年婚約者を作っていなかったという噂がある。それだというのに王命で大嫌いなジェシカを娶ることになったのだ。
いくら政略結婚とはいえ、ヒューパートに抱かれるのは嫌だ。子供ができないという理由があれば離縁できると考えたジェシカは白い結婚を望み、ヒューパートもそれを受け入れた。
そのはず、だったのだが……?
離縁を望みながらも徐々に絆されていく公爵令嬢と、実は彼女のことが大好きで仕方ないツンデレ皇太子によるじれじれラブストーリー。
※こちらの作品は小説家になろうにも重複投稿しています。
【完】愛していますよ。だから幸せになってくださいね!
さこの
恋愛
「僕の事愛してる?」
「はい、愛しています」
「ごめん。僕は……婚約が決まりそうなんだ、何度も何度も説得しようと試みたけれど、本当にごめん」
「はい。その件はお聞きしました。どうかお幸せになってください」
「え……?」
「さようなら、どうかお元気で」
愛しているから身を引きます。
*全22話【執筆済み】です( .ˬ.)"
ホットランキング入りありがとうございます
2021/09/12
※頂いた感想欄にはネタバレが含まれていますので、ご覧の際にはお気をつけください!
2021/09/20
お姉さまが家を出て行き、婚約者を譲られました
さこの
恋愛
姉は優しく美しい。姉の名前はアリシア私の名前はフェリシア
姉の婚約者は第三王子
お茶会をすると一緒に来てと言われる
アリシアは何かとフェリシアと第三王子を二人にしたがる
ある日姉が父に言った。
アリシアでもフェリシアでも婚約者がクリスタル伯爵家の娘ならどちらでも良いですよね?
バカな事を言うなと怒る父、次の日に姉が家を、出た
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
【完結】不倫をしていると勘違いして離婚を要求されたので従いました〜慰謝料をアテにして生活しようとしているようですが、慰謝料請求しますよ〜
よどら文鳥
恋愛
※当作品は全話執筆済み&予約投稿完了しています。
夫婦円満でもない生活が続いていた中、旦那のレントがいきなり離婚しろと告げてきた。
不倫行為が原因だと言ってくるが、私(シャーリー)には覚えもない。
どうやら騎士団長との会話で勘違いをしているようだ。
だが、不倫を理由に多額の金が目当てなようだし、私のことは全く愛してくれていないようなので、離婚はしてもいいと思っていた。
離婚だけして慰謝料はなしという方向に持って行こうかと思ったが、レントは金にうるさく慰謝料を請求しようとしてきている。
当然、慰謝料を払うつもりはない。
あまりにもうるさいので、むしろ、今までの暴言に関して慰謝料請求してしまいますよ?
「婚約発表の場で捨てられたので、幼馴染の村長のところへ行きます〜地味だと笑った元婚約者は、何も知らないようです〜」
まさき
恋愛
婚約発表パーティーの最中、ドミニク公爵は愛人を連れて現れた。
衆目の前で「この方と婚約することにした」と宣言した彼に、セラフィナは顔色ひとつ変えず婚約破棄状を渡して会場を出た。
泣きはしなかった。ただ、疲れただけだ。
行き場のないセラフィナが向かったのは、幼馴染のレインが村長をしている小さな村だった。
父親同士が元冒険者仲間だったころから知っている、地味で穏やかな男。
「来てくれると思ってた」
その一言で、少しだけ息ができた気がした。
ドミニクは後から鼻で笑ったという。
「婚約破棄された男爵令嬢が、村長に拾われたのか。みじめだな」
何も知らないのはどちらだろう、とセラフィナは思った。
今の私には、毎日名前を呼んでくれる人がいる。