「五年の契約妻でしたので、更新はいたしません——今さら名前を呼ばれても、私は振り返りません」

まさき

文字の大きさ
1 / 8

第1話 契約満了の朝

第1話 契約満了の朝

「サインは、もういただきました」
 
静かにそう告げた私に、彼は怪訝そうに眉を寄せた。
 
何の話だ、とでも言いたげな表情。
 
——やはり、まだ何も分かっていないのだろう。
 
「……何のことだ」
 
低く落ち着いた声。
 
いつもと変わらない、感情の見えない声だった。
 
その声を聞くだけで、ああ、この人は変わらないのだと理解してしまう。
 
「離縁状です。すでに書類には署名をいただいておりますので、あとは私が屋敷を出るだけです」
 
(内容を確認せずに署名された書類。その中の一枚が離縁状だった)
 
言葉にしてしまえば、あまりにも簡単だった。
 
五年という時間が、たったそれだけの一文に収まってしまうほどに。
 
「……は?」
 
ほんのわずかに、彼の声が揺れた。
 
初めて見る反応かもしれない。
 
けれどそれも、もう私には関係のないことだった。
 
「本日付で契約は満了です。ですので、予定通り——」
 
「待て」
 
短く、鋭い声が私の言葉を遮る。
 
その一言に、思わず足を止めた。
 
振り返ることはしない。
 
振り返ってしまえば、きっと少しだけ、迷ってしまうから。
 
「そんな話は聞いていない」
 
「お聞きになっていないだけです」
 
事実を述べただけだった。
 
この方は、最初から最後まで、私に関心を向けることがなかったのだから。
 
 
——伯爵令嬢クラリスとして生まれた私が、侯爵ルークのもとへ嫁いだのは五年前。
 
それは、家同士の取り決めによる契約結婚だった。
 
——五年で終了と決められていた契約は、今日で満了となる。
 
愛は必要ない。
 
求められるのは、侯爵夫人としての役割だけ。
 
そう言われたわけではない。
 
けれど、最初から分かっていたことだった。
 
だから私は、何も求めなかった。
 
ただ、完璧であろうとした。
 
 
朝は誰よりも早く起き、屋敷のすべてを把握し。
 
使用人たちの管理を行い、社交の場では一切の隙を見せない。
 
夫の隣に立つにふさわしい夫人として、常に微笑み続けた。
 
 
それが、私の役割だったから。
 
 
……ただ一つだけ。
 
最後まで慣れなかったことがある。
 
 
それは——
 
一度も、名前を呼ばれなかったこと。
 
 
「奥様」
 
「侯爵夫人」
 
呼ばれるのは、いつも役割の名前だけ。
 
 
クラリス、と。
 
そう呼ばれることは、一度もなかった。
 
 
最初は、少しだけ寂しいと思った。
 
 
けれど、それもすぐに消えた。
 
 
これは契約なのだから、と。
 
 
そう思えば、納得できたから。
 
 
——そう、思っていた。
 
 
隣国の公爵令嬢が現れてから、この屋敷の空気は確かに変わっていた。
 
それでも私は、何も変えなかった。
 
変えないことこそが、私の役割だったから。
 
 
「……なぜだ」
 
背後から、低く問いかける声がする。
 
 
その問いに、私は一瞬だけ目を伏せた。
 
 
なぜ。
 
 
その答えを、この人は知らない。
 
 
いや、知ろうとしなかったのだ。
 
 
「契約が終わったからです」
 
 
それだけ言って、私は再び歩き出した。
 
 
本来であれば、昨日のうちに屋敷を出る予定だった。
 
けれど最後の整理に時間がかかり、こうして朝になってしまっただけ。
 
 
すべて、予定通り。
 
 
「——クラリス」
 
 
足が止まった。
 
 
——今、なんと呼ばれたのか。
 
 
すぐには理解できなかった。
 
 
五年間、一度も呼ばれなかったその名前が、
 
どうして今になって、こんなにも簡単に口にされるのか。
 
 
ゆっくりと、振り返る。
 
 
そこには、いつもと同じ無表情の彼がいた。
 
けれど、その瞳だけが、わずかに揺れている。
 
 
「……今、呼びましたか」
 
 
確認するように問うと、彼はわずかに眉を寄せた。
 
 
「名前くらい、呼ぶ」
 
 
——違う。
 
 
違う。
 
 
五年間、一度も呼ばなかった人が。
 
 
どうして、今になって。
 
 
胸の奥が、ひどく静かに冷えていく。
 
 
ああ、と。
 
 
ようやく理解した。
 
 
「遅いのです」
 
 
小さく呟く。
 
 
もう、届かない。
 
 
もう、意味がない。
 
 
「申し訳ありません、旦那様」
 
 
最後に、侯爵夫人としての礼を取る。
 
 
深く、静かに頭を下げた。
 
 
「今まで、お世話になりました」
 
 
それが終わると同時に、顔を上げることなく踵を返す。
 
 
もう、振り返らない。
 
 
振り返る理由が、どこにもない。
 
 
扉の向こうには、新しい朝が待っている。
 
 
侯爵夫人ではない、ただの私としての人生が。
 
 
——五年分の沈黙を置いて。
 
 
私は、屋敷を出た。
感想 0

あなたにおすすめの小説

最愛の人に裏切られ死んだ私ですが、人生をやり直します〜今度は【真実の愛】を探し、元婚約者の後悔を笑って見届ける〜

腐ったバナナ
恋愛
愛する婚約者アラン王子に裏切られ、非業の死を遂げた公爵令嬢エステル。 「二度と誰も愛さない」と誓った瞬間、【死に戻り】を果たし、愛の感情を失った冷徹な復讐者として覚醒する。 エステルの標的は、自分を裏切った元婚約者と仲間たち。彼女は未来の知識を武器に、王国の影の支配者ノア宰相と接触。「私の知性を利用し、絶対的な庇護を」と、大胆な契約結婚を持ちかける。

余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ
恋愛
公爵家に嫁いで三年。 夫アレクシスは義務だけを果たす、冷たい人だった。 愛のない結婚だとわかっていたから、主人公エレノアも期待しないふりをして生きてきた。 けれどある日、彼女は余命半年を宣告される。 原因は長年蓄積した病と、心身を削る公爵家での生活。 残された時間が半年しかないのなら、もう誰にも気を遣わず、自分のために生きたい。そう決意したエレノアは、夫へ静かに告げる。 「あなたの愛など要りませんので、離縁してください」 最初はそれを淡々と受け止めたはずの夫は、彼女が本当に去ろうとした時に初めて、自分が妻を深く愛していたことを知る。 だが気づくのが遅すぎた。 彼女の命は、もう長くない。 遅すぎた愛にすがる夫と、最後まで自分の尊厳を守ろうとする妻。 離縁、後悔、すれ違い、余命。 泣けて苦しくて、それでも最後まで追いたくなる後悔系・溺愛逆転ロマンス。

「婚約発表の場で捨てられたので、幼馴染の村長のところへ行きます〜地味だと笑った元婚約者は、何も知らないようです〜」

まさき
恋愛
婚約発表パーティーの最中、ドミニク公爵は愛人を連れて現れた。 衆目の前で「この方と婚約することにした」と宣言した彼に、セラフィナは顔色ひとつ変えず婚約破棄状を渡して会場を出た。 泣きはしなかった。ただ、疲れただけだ。 行き場のないセラフィナが向かったのは、幼馴染のレインが村長をしている小さな村だった。 父親同士が元冒険者仲間だったころから知っている、地味で穏やかな男。 「来てくれると思ってた」 その一言で、少しだけ息ができた気がした。 ドミニクは後から鼻で笑ったという。 「婚約破棄された男爵令嬢が、村長に拾われたのか。みじめだな」 何も知らないのはどちらだろう、とセラフィナは思った。 今の私には、毎日名前を呼んでくれる人がいる。

「婚約を奪われた私を、殿下はずっと待っていてくださいました」~政略婚の侯爵夫人、幼馴染の王太子に迎えられる~

まさき
恋愛
幼い頃から共に育った王太子アルノーと、ずっと婚約していた。 それが突然終わったのは、エリーゼが十六歳の春だった。 「政略上の都合だ」——父はそう言った。 翌月、エリーゼはルシアン侯爵に嫁いだ。 侯爵は優しかった。悪い人ではなかった。 ただ、彼の心には最初から別の女性がいた。 そしてエリーゼの心にも、ずっと消えない名前があった。 五年後、王太子妃選定の夜会。 久しぶりに見たアルノーは、以前より美しく、以前より冷たい顔をしていた。 ——それなのに、エリーゼだけを見ていた。 「待っていた。ずっと、おまえだけを」 引き離された五年間。 殿下の心には、私だけがいた。

愛想を尽かした女と尽かされた男

火野村志紀
恋愛
※全16話となります。 「そうですか。今まであなたに尽くしていた私は側妃扱いで、急に湧いて出てきた彼女が正妃だと? どうぞ、お好きになさって。その代わり私も好きにしますので」

【改稿版】光を忘れたあなたに、永遠の後悔を

桜野なつみ
恋愛
幼き日より、王と王妃は固く結ばれていた。 政略ではなく、互いに慈しみ育んだ、真実の愛。 二人の間に生まれた双子は王国の希望であり、光だった。 だが国に流行病が蔓延したある日、ひとりの“聖女”が現れる。 聖女が癒やしの奇跡を見せたとされ、国中がその姿に熱狂する。 その熱狂の中、王は次第に聖女に惹かれていく。 やがて王は心を奪われ、王妃を遠ざけてゆく…… ーーーーーーーー 初作品です。 自分の読みたい要素をギュッと詰め込みました。

「三年間、誕生日のたびに記録していたら、彼氏より先に幸せになれました」 ──全部、メモしてたんで。

まさき
恋愛
三年間、瀬川凛は笑い続けた。 誕生日のディナーを予約しても、記念日にプレゼントを用意しても——彼氏の柊悠樹は、幼馴染の水瀬奈々からLINEが届くたびに、「すぐ戻る」と言って消えた。 戻ってくるのは、いつも二〜三時間後。 「大丈夫だよ、気にしないで」 凛はそう言い続けた。ただし——スマホのメモには、全部記録していた。 日付、時刻、状況。感情は一切書かなかった。ただ、事実だけを。 三年分の記録が積み重なったころ、悠樹は言った。 「奈々と付き合いたい。別れよう」 凛は静かに微笑んで、答えた。 「——わかった」 そしてその翌週、悠樹の会社のライバル企業への転職が決まった。 内定通知は、別れ話の一ヶ月前に届いていた。 泣かなかったのは、強かったからじゃない。 ずっと、準備していたからだ。

【完結】恋人との子を我が家の跡取りにする? 冗談も大概にして下さいませ

水月 潮
恋愛
侯爵家令嬢アイリーン・エヴァンスは遠縁の伯爵家令息のシリル・マイソンと婚約している。 ある日、シリルの恋人と名乗る女性・エイダ・バーク男爵家令嬢がエヴァンス侯爵邸を訪れた。 なんでも彼の子供が出来たから、シリルと別れてくれとのこと。 アイリーンはそれを承諾し、二人を追い返そうとするが、シリルとエイダはこの子を侯爵家の跡取りにして、アイリーンは侯爵家から出て行けというとんでもないことを主張する。 ※設定は緩いので物語としてお楽しみ頂けたらと思います ☆HOTランキング20位(2021.6.21) 感謝です*.* HOTランキング5位(2021.6.22)