「五年の契約妻でしたので、更新はいたしません——今さら名前を呼ばれても、私は振り返りません」

まさき

文字の大きさ
2 / 9

第2話 何もなかった部屋

第2話 何もなかった部屋


屋敷を出たあとも、足取りは変わらなかった。
 
迷うことなく門を抜け、用意していた馬車へ向かう。
 
振り返らない。
 
振り返る理由がないと、自分に言い聞かせるように。
 
 
「奥様——……いえ、クラリス様」
 
控えめな声に、足を止めた。
 
振り返ると、そこには一人の侍女が立っている。
 
長年、私の身の回りを任せていた女性だった。
 
「見送りは不要と伝えたはずですが」
 
「……それでも、と思いまして」
 
少しだけ困ったように微笑む。
 
その表情を見て、胸の奥がわずかに揺れた。
 
 
この屋敷で、私個人を見てくれていた数少ない人の一人。
 
 
「……最後くらい、お名前でお呼びしてもよろしいでしょうか」
 
 
その一言に、わずかに目を見開く。
 
 
ああ、と。
 
 
こんなにも簡単なことだったのかと、思ってしまう。
 
 
「ええ、構いません」
 
 
短く答えると、侍女はほっとしたように息をついた。
 
 
「どうか、お元気で、クラリス様」
 
 
その呼び方が、不思議と胸に残った。
 
 
「ええ、あなたも」
 
 
それ以上は何も言わない。
 
 
言えば、きっと何かが崩れてしまうから。
 
 
私はそのまま馬車へと乗り込む。
 
 
扉が閉まる音が、小さく響いた。
 
 
それだけで、すべてが終わったのだと実感する。
 
 
「出してください」
 
 
御者に告げると、馬車はゆっくりと動き出した。
 
 
石畳を進む振動が、かすかに身体を揺らす。
 
 
窓の外に見える景色は、見慣れた王都のもの。
 
 
何度も通った道。
 
何度も見た街並み。
 
 
けれど、もう二度と戻ることはない。
 
 
 
ふと、胸の奥にわずかな空白を感じた。
 
 
けれどそれが何なのか、考える前に目を閉じる。
 
 
考えてしまえば、きっと立ち止まる。
 
 
だから——考えない。
 
 
 
——その頃。
 
 
「……どういうことだ」
 
 
低く押し殺した声が、静まり返った執務室に落ちた。
 
 
ルークは机の上に置かれた書類を見下ろしている。
 
 
その中の一枚。
 
 
——離縁届。
 
 
確かにそこには、自分の署名があった。
 
 
「これは……いつのものだ」
 
 
「数日前に、ご確認いただいた書類の中に含まれていたかと」
 
 
淡々と答えたのは、執事長だった。
 
 
「そのような説明は受けていない」
 
 
「……失礼ながら、内容をお読みにならずに署名されておりましたので」
 
 
わずかな沈黙。
 
 
ルークは何も言い返さなかった。
 
 
いや、言い返せなかった。
 
 
確かに最近、書類の確認は最低限しかしていなかった。
 
 
必要なものだけを処理し、それ以外は流し見るだけ。
 
 
それで問題はなかった。
 
 
——今までは。
 
 
「……あの女は——」
 
 
言いかけて、言葉が止まる。
 
 
……違う。
 
 
先ほど、自分はその名を呼んだはずだ。
 
 
だが、それがどうしても口に馴染まない。
 
 
五年間、一度も呼ばなかった名前。
 
 
それを、今さらどう扱えばいいのか分からなかった。
 
 
「……どこへ行った」
 
 
結局、名前は出てこなかった。
 
 
「行き先については、報告を受けておりません」
 
 
「なぜだ」
 
 
「奥様のご指示です」
 
 
淡々とした返答。
 
 
まるで、最初からすべて決まっていたかのように。
 
 
「……ふざけるな」
 
 
小さく吐き捨てる。
 
 
だが、その声には力がなかった。
 
 
 
部屋を見渡す。
 
 
いつもと同じ執務室。
 
 
何も変わっていないはずの空間。
 
 
なのに——
 
 
何かが、決定的に欠けている。
 
 
「……」
 
 
机の端に視線が止まる。
 
 
そこには、いつも整えられていた書類の束がない。
 
 
インクも、ペンも、微妙に位置が違う。
 
 
些細な違い。
 
 
だが、それがやけに目についた。
 
 
——誰が整えていたのか。
 
 
考えるまでもない。
 
 
「……なぜだ」
 
 
小さく呟く。
 
 
——なぜ、こんなにも静かなのか。
 
 
これまで、この部屋は——もっと整っていたはずだ。
 
 
 
無意識に、眉間に皺が寄る。
 
 
それだけではない。
 
 
この部屋だけではない。
 
 
屋敷全体が、どこか歪んでいるように感じる。
 
 
完璧だった均衡が、崩れ始めている。
 
 
「……ルーク様」
 
 
執事長が、わずかに躊躇いながら声をかける。
 
 
「なんだ」
 
 
「本日のご予定ですが——」
 
 
「後にしろ」
 
 
即座に切り捨てる。
 
 
今は、それどころではない。
 
 
なぜか。
 
 
その理由は分からない。
 
 
だが、このままではいけないと、どこかで理解していた。
 
 
「……探せ」
 
 
低く呟く。
 
 
「は?」
 
 
「行き先を調べろ。すぐにだ」
 
 
命じてから、ほんのわずかに間が空いた。
 
 
執事長は驚いたように目を見開いている。
 
 
当然だろう。
 
 
自分でも理解していなかった。
 
 
なぜそんなことを言ったのか。
 
 
 
——クラリス。
 
 
その名前が、ふと頭に浮かぶ。
 
 
先ほど、確かに口にしたはずの名前。
 
 
だがそれは、妙に馴染まない響きだった。
 
 
まるで、初めて発音する言葉のように。
 
 
「……」
 
 
胸の奥に、わずかな違和感が残る。
 
 
それが何なのかは、まだ分からない。
 
 
ただ一つ、確かなことがある。
 
 
 
——何かを、間違えた。
 
 
 
その感覚だけが、静かに広がっていた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた

歩人
ファンタジー
侯爵家に嫁いで五年。ルチアは夫エミルの領地会計・社交・使用人管理を全て一人で担ってきた。だがエミルはいつも幼馴染のアリーチェを優先する。「アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う」——その言葉を百回聞いた日、ルチアは微笑んで離縁届に署名した。「ええ、私は丈夫ですから。どうぞ幼馴染様をお大事に」。翌朝、エミルが目にしたのは——税務報告の締切、領民からの陳情の山、そして紅茶の淹れ方すら知らない自分。三ヶ月後、かつて「地味な妻」と呼ばれたルチアは、辺境伯の財務顧問として辣腕を振るっていた。

「静かで、退屈な婚約者だった」と切り捨てられたので、最後くらい全部言って去ることにしました

桃我タロー
恋愛
「静かで、退屈な婚約者だった」 婚約破棄のその日、王太子は広間でそう言い捨てた。 三年間、失言を隠し、場を整え、黙って支えてきたのに。 どうやら私に必要だったのは婚約者ではなく、“便利な人”という役割だけだったらしい。 しかも隣には、つい三日前まで殿下の従兄に求婚していた令嬢まで立っていて――。 ならばもう、黙っている理由はない。 これは、最後まで笑って終わるつもりだった令嬢が、自分の声を取り戻す話。

冷徹な姉と健気な妹……?

しゃーりん
恋愛
ハルモニア伯爵家の長女パトリシアは学園で『冷徹な姉』と言われている。 その原因は、自分を『健気な妹』だと演出するイゾベラのせいであり、パトリシアの婚約者リチャードがイゾベラを信じているから。 しかし、パトリシアはリチャードとの婚約解消を願っているため、イゾベラの言動は大歓迎だった。 リチャードは自分が結婚する相手が次期ハルモニア伯爵になるのだと思っており、パトリシアと婚約解消してイゾベラと結婚すると言うが、そもそもイゾベラはパトリシアの妹ではないというお話です。

五度目の人生でも「君を愛することはない」と言われたので、私も愛を捨てました

たると
恋愛
「ルチア、私は君を愛することはない。この婚約は単なる義務だ」 冷徹な公爵、アルベルトの声が夜会会場の片隅で響く。 これで、五度目だ。 私は深く、そして軽やかに一礼した。 「承知いたしました。では、今後はそのように」 これまでは泣いて縋り、彼を振り向かせようと必死に尽くしてきた。 だが、死に戻りを五回も繰り返せば、流石に飽きる。 私は彼を愛することを、きっぱりと辞めた。

離縁され隣国の王太子と海釣りをしていたら旦那様が泣きついてきた。私は別の隣国の王太子と再婚します。

唯崎りいち
恋愛
「真実の愛を見つけた」と言って、旦那様に一方的に離縁された侯爵令嬢。だが彼女の正体は、大陸最大級の鉄鋼財閥の後継であり、莫大な資産と魔力を持つ規格外の存在だった。 離縁成立から数時間後、彼女はすでに隣国の王太子と海の上でカジキ釣りを楽しんでいた。 一方、元旦那は後になって妻の正体と家の破産寸前の現実を知り、必死に追いすがるが——時すでに遅し。 「旦那様? もう釣りの邪魔はしないでくださいね」 恋愛より釣り、結婚より自由。 隣国王太子たちを巻き込みながら、自由奔放な令嬢の人生は加速していく。

最愛の人に裏切られ死んだ私ですが、人生をやり直します〜今度は【真実の愛】を探し、元婚約者の後悔を笑って見届ける〜

腐ったバナナ
恋愛
愛する婚約者アラン王子に裏切られ、非業の死を遂げた公爵令嬢エステル。 「二度と誰も愛さない」と誓った瞬間、【死に戻り】を果たし、愛の感情を失った冷徹な復讐者として覚醒する。 エステルの標的は、自分を裏切った元婚約者と仲間たち。彼女は未来の知識を武器に、王国の影の支配者ノア宰相と接触。「私の知性を利用し、絶対的な庇護を」と、大胆な契約結婚を持ちかける。

もう無理だ…婚約を解消して欲しい

山葵
恋愛
「アリアナ、すまない。私にはもう無理だ…。婚約を解消して欲しい」 突然のランセル様の呼び出しに、急いで訪ねてみれば、謝りの言葉からの婚約解消!?

"病弱な幼馴染"を完治させたら、なぜか怒られました

ばぅ
恋愛
「ルードル様、大変です!レニ様がまたお倒れに!」  婚約者であるルードルには「灰白病」という厄介な病気を抱えた幼馴染のレニがいる。甘いデートはいつも彼女の急な呼び出しによって邪魔され、その度フラウはずっと我慢を強いられていた。しかし、フラウはただの令嬢ではなく、薬師でもあるのだ。ある日ついに、彼女は灰白病の特効薬を完成させた。これで終わりかと思いきや、幼馴染は再び倒れる。  そこでフラウは、ある作戦を実行することにした――。