『夫のスマホの中で、私は“都合のいい妻”だった』——だから私は、静かに消えることにした

まさき

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第18話「広がるもの」 

第18話「広がるもの」 

 翌日。
 夫は、いつもより早く家を出た。
 何も言わずに。
 顔も見ずに。
 ただ、逃げるみたいに。
 ドアの閉まる音が、少しだけ強かった。
 私はそれを、静かに聞いていた。
 ——昼過ぎ。
 スマホが震える。
 画面を見る。
 知らない番号。
 一瞬だけ、指が止まる。
 でも、そのまま通話を取る。
「はい」
 短く答える。
『……あの』
 女の声。
 少しだけ、震えている。
『奥さん、ですよね』
 確信のある言い方。
 私は少しだけ目を細める。
「誰ですか?」
 分かっていて、聞く。
 それが一番いい。
『……美咲です』
 小さな声。
 でも、はっきりとした名前。
 やっぱり、と思う。
 タイミングが早い。
 でも——想定内。
「そう」
 それだけ返す。
 感情は乗せない。
 沈黙が、少しだけ流れる。
『あの……』
 言葉を探している。
 必死に。
『会社で……ちょっと……噂になってて』
 そこで一度、言葉が止まる。
 そして——
『誰かが、見たって話が回ってて……』
 小さく付け足される。
 その一言で、流れが繋がる。
 私は何も言わない。
 ただ、続きを待つ。
『その……関係……とか……』
 濁した言い方。
 でも、十分伝わる。
 不倫。
 その言葉は出さない。
 でも、もう隠れていない。
「そう」
 私は小さく頷く。
 見えない相手に向かって。
『あの、これ……誤解で……』
 必死な声。
 でも——弱い。
 自分でも分かっている声。
「誤解?」
 私はその言葉を繰り返す。
 静かに。
『はい……その……』
 続かない。
 言葉が、崩れていく。
 沈黙。
 電話越しでも分かる。
 追い詰められている空気。
「……何を言いたいの?」
 私は短く問う。
 核心だけを。
『……その……彼に、聞いてませんか?』
 回りくどい。
 でも、必死。
「何を?」
 あえて、聞き返す。
 逃げ場を削る。
『その……関係のこと……』
 ようやく出てきた言葉。
 曖昧なまま。
 でも、それで十分。
「聞いたよ」
 私は即答する。
 迷いなく。
 電話の向こうで、息を飲む音がした。
『……え』
 小さな声。
 予想していなかった反応。
「全部」
 一言、付け足す。
 それだけで、意味は伝わる。
 沈黙。
 長い沈黙。
『……あの……』
 また、言葉を探している。
 でも、もう遅い。
「何?」
 私は同じように返す。
『……ごめんなさい』
 小さな声。
 震えている。
 でも、それは謝罪じゃない。
 ただの保身。
 私は少しだけ視線を落とす。
 そして、静かに言った。
「私に言うことじゃないよね」
 淡々と。
 冷たくもなく、優しくもなく。
 ただ、事実として。
『……』
 返事はない。
 言葉が、出てこない。
「会社のことも」
 私は続ける。
「私、まだ“何もしてない”から」
 静かに言う。
 でも、その一言には確かな意味がある。
 電話の向こうで、息が詰まる。
『……え』
「勝手に広がっただけでしょ」
 静かに言い切る。
 逃げ場を、完全に消す。
『……』
 沈黙。
 完全な沈黙。
 もう、何も言えない。
「じゃあ」
 私は短く区切る。
「これ以上、連絡いらないから」
 はっきりと線を引く。
『……』
 返事はない。
 でも、それで十分。
 私はそのまま通話を切った。
 部屋は、静かだった。
 でも——
 確実に、何かが広がっている。
 もう、止められない形で。
 私はスマホをテーブルに置く。
 画面は、黒いまま。
 映るのは、自分の顔だけ。
 表情は、変わらない。
 何も。
 ただ——
 静かに、終わりへ向かっているだけ。
 私はゆっくりと息を吐く。
 そして——
 小さく、呟いた。
 ——もう、隠せない。
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