亡き姉の身代わりとして嫁いだ私ですが、離縁状を置いた翌朝、夫が私の「真実」に気づいたようです』

まさき

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第三話:リューエンの朝、はじめての仕事

第三話:リューエンの朝、はじめての仕事
 
 リューエンに着いたのは、出発から二日目の夕暮れだった。
 二日間、ひたすら北へ歩いた。
 初日は興奮が足を動かしてくれたが、二日目の昼を過ぎた頃には、靴の中に小石が入っているのも気づかないくらい、ただ無心で歩いていた。
 それでも、街の輪郭が見えた時、不思議と足が軽くなった。
 女将さんの言った通り、こじんまりとした街だった。
 王都のような煌びやかさはない。石畳も、建物も、どこか素朴で、少し古い。
 でも、街の入口に差し掛かった時、パン屋の窓から温かい匂いが漂ってきて、私は思わず足を止めた。
 いい匂いだ、とただそれだけを思った。
 それだけで、なぜかこの街を好きになった。
 宿を探して街の中ほどまで歩くと、『空き部屋あり』と書かれた板を掲げた小さな宿屋が目に入った。
 『リューエン亭』
 扉を押して中に入ると、カウンターの向こうで帳簿を睨んでいた初老の男性が顔を上げた。
 目が細く、口髭が立派で、一見すると気難しそうな顔をしている。
 「一人か?」
 「はい。しばらく泊めていただけますか」
 男性は私をしばらく無言で眺めた。
 旅装の娘が一人。みすぼらしくはないが、特別裕福にも見えない。
 「……一週間、前払いで銀貨三枚。食事は朝だけついてる」
 私は財布を取り出した。
 銀貨三枚。手持ちの半分近くになる。
 払えば、残りは多くない。でも、ここを断って次を探す体力が、今の私にはもうなかった。
 一瞬だけ迷って、それから硬貨を差し出した。
 男性は少し眉を上げた。
 「即決か。……名前は」
 「エルゼ、です」
 苗字は言わなかった。
 男性も聞かなかった。
 「俺はガード。この宿の主だ。部屋は二階の突き当たり。風呂は夕方だけ使える。ルールはそれだけだ」
 そう言って、無造作に鍵を渡してくる。
 「……ありがとうございます」
 「礼はいい。静かにしてくれるならそれでいい」
 不愛想だけれど、嫌な感じはしなかった。
 私はそれだけでもう、十分だった。
 部屋は小さかった。
 ベッドと小さな机と、一つの窓。
 窓の外には、夕焼けに染まる街の屋根が並んでいる。
 私はトランクを床に置き、窓を少し開けた。
 冷たい空気と一緒に、どこかから夕食の匂いが流れてきた。
 誰かが、今日も誰かのために、ご飯を作っている。
 それだけのことが、胸の奥にじんわりと沁みた。
 さて。
 私は窓を閉め、財布を開いた。
 残りの硬貨を並べて数える。
 一週間で尽きる。
 つまり、一週間以内に仕事を見つけなければならない。
 不思議と、焦りはなかった。
 ただ、やるべきことがある、という感覚が、むしろ清々しかった。
 五年間、私は何もしなくてよかった。
 何もしなくていい代わりに、何者でもなかった。
 でも今は違う。
 明日から、エルゼとして、自分の手で生きていく。
 翌朝、宿の食堂で朝食を取っていると、給仕の女の子が忙しそうに走り回っていた。
 年は十五か十六か。赤毛をざっくりと束ねた、小柄な娘だ。
 テーブルを拭きながら、カウンターへ走り、また戻ってくる。
 見ているだけで目が回りそうだった。
 しばらく眺めているうちに、気づいたら口が動いていた。
 「……一人でやっているんですか?」
 思わず声をかけてから、少し驚いた。
 こんなふうに、自分から誰かに話しかけたのは、いつぶりだろう。
 女の子はびくりと肩を震わせた。
 「あ、す、すみません! 何かご不満でしたか!?」
 「いいえ、そういうわけじゃなくて……大変そうだと思って」
 女の子は少し呆気に取られた顔をしてから、ため息をついた。
 「もう一人いたんですけど、昨日急に辞めちゃって。あたし、ノラっていうんですけど、今日だけでもう三回転びそうになりました」
 「……よかったら、手伝いましょうか」
 「え?」
 「お客さんだから変ですか。でも、仕事を探しているんです。今朝だけでも、見てもらえれば」
 ノラは数秒固まった後、カウンターの方に向かって大声を上げた。
 「お父さん! お客さんが手伝いたいって!」
 ガードは胡散臭そうな目で私を見た。
 「給仕の仕事をしたことはあるか」
 「……正直に言うと、ありません」
 「字は読めるか」
 「はい」
 「計算は」
 「できます」
 ガードはしばらく私を眺めてから、ぼそりと言った。
 「今日一日、試しにやってみろ。使えると思ったら雇う。ダメなら、それだけだ」
 「ありがとうございます」
 「礼はいい。エプロンはカウンターの裏だ」
 ノラが嬉しそうに駆け寄ってきた。
 「よかった! じゃあエルゼさん、まずここのメニューから教えますね!」
 エルゼさん、と呼ばれた。
 苗字も、肩書きも、姉の名前も何もない、ただの「エルゼさん」。
 その呼ばれ方が、胸の真ん中に、小さな火を灯すみたいだった。
 その日一日、私は走り続けた。
 給仕の仕事は、思っていたより体力がいる。
 重い皿を運び、注文を聞き、テーブルを拭き、釣り銭を数える。
 二度ほど皿を危うく落としそうになり、一度は注文を聞き間違えた。
 それでも、昼過ぎには少し慣れてきた。
 客の顔を覚えて、よく頼むものを先読みするようにしたら、ガードが一度だけ小さく頷いた。
 その一度が、静かに胸に落ちた。
 夕方、客が引けた後。
 ガードがカウンターに銅貨を数枚置いた。
 「今日の分だ」
 「……雇っていただけるんですか」
 「使えないとは言ってない。明日も来い」
 それだけ言って、帳簿に目を戻す。
 私は銅貨を手のひらに乗せた。
 重くはない。
 公爵夫人として受け取っていた手当と比べれば、並べることも馬鹿らしいほど少ない金額だ。
 でも、この銅貨は私のものだった。
 誰かの身代わりでもなく、誰かの憐れみでもなく、私が今日、私の足で立って、私の手で稼いだもの。
 しばらく、手のひらの上の硬貨をただ見つめていた。
 「……ありがとうございます」
 声が少し、詰まった。
 ガードは顔を上げなかった。
 でも、口髭の奥で、少しだけ口の端が上がったような気がした。
 夜、部屋に戻って窓の外を見ると、リューエンの街に灯りが点り始めていた。
 小さな、あたたかい灯りが、あちこちに散らばっている。
 私は窓枠に頬杖をついて、しばらくその光を眺めた。
 疲れた。
 身体中が痛い。
 でも、今夜は確かに眠れる気がした。
 昨日より少しだけ、「エルゼ」という名前が、自分のものになってきたような気がしたから。
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