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第十一話:答えの前に、もう一度
第十一話:答えの前に、もう一度
五月になった。
リューエンの春は終わり、街は初夏の気配に変わり始めていた。
市場の花が、白から黄へ、黄から橙へと移ろっていく。
朝の空気が、少しずつ柔らかくなっていた。
カイル様は、まだいた。
あの夜から、十日が過ぎた。
カイル様は食堂に来なかった。
宿からも、ほとんど出ていないらしい。
ヴィクトルが「今朝も宿の前で見かけた。ただ、座っていた」と教えてくれた。
「ただ、座っていた」という言葉が、頭に残った。
あの人が、ただ座っている。
何も命じず、何も裁かず、ただ待っている。
五年前には、想像もできないことだった。
十日間、私はその言葉を頭の隅に置いたまま、仕事をして、眠って、また仕事をした。
答えは出なかった。
でも、何かが少しずつ、動いていた。
ある昼下がり、食堂が落ち着いた頃。
ノラが、カウンターを拭きながら、ぽつりと言った。
「エルゼさん、最近よく窓の外を見てますね」
「……そうかしら」
「そうですよ。三日に一回くらい、街の入口の方を」
私は手を止めた。
「気のせいじゃないかしら」
「気のせいじゃないです。あたし、ちゃんと見てましたから」
ノラは悪びれる様子もなく、にこりとした。
「行ってきたらどうですか。今日は午後、空いてますし」
「……別に、行くところなんて」
「エルゼさん」
ノラが、珍しく真剣な顔で私を見た。
「あたし、エルゼさんが誰かのことを考えてる時の顔、わかりますよ。眉間にしわが寄って、でも目が遠くて」
「……」
「その顔、最近毎日してます」
私は反論できなかった。
ノラはすぐに柔らかい顔に戻って、また布巾を動かし始めた。
「行ってきてください。夕方までには戻ってきてくれれば、大丈夫ですから」
結局、私は午後の光の中を、宿へ向かって歩いていた。
行くつもりはなかった。
でも、足が動いていた。
石畳が、初夏の陽射しを受けてぼんやりと温かい。
あの夜と同じ道だった。
月明かりの中で見た石畳が、昼の光の中では全く違う色をしていた。
宿の前まで来ると、カイル様は本当に、そこにいた。
宿の前の石段に、一人で座っていた。
本を開いていたが、読んでいる様子ではなかった。
ただ、日向に座っていた。
私の足音に気づいて、顔を上げた。
目が合った。
どちらも、何も言わなかった。
私は少し考えてから、隣に腰を下ろした。
カイル様は本を閉じた。
それだけで、しばらく二人とも黙っていた。
「今日は、仕事は」
先に口を開いたのは、カイル様だった。
「午後は空いています」
「そうか」
また、沈黙。
でも、あの夜の沈黙とは少し違った。
張り詰めた感じがなかった。
ただ、二人がそこにいる、というだけの沈黙だった。
「……街は、住みやすいか」
「はい。いい街です」
「そうか」
「カイル様は」
私は石段の前の石畳を見ながら言った。
「十日間、何をしていましたか」
「……待っていた」
「それだけですか」
「それだけだ」
「退屈ではないですか」
カイル様は少し間を置いてから、静かに言った。
「退屈より、後悔の方が重い」
その言葉を、私はしばらく胸の中に置いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「なぜ、追いかけてきたんですか」
カイル様は答えなかった。
しばらく、石畳を見ていた。
「……小箱を見た時、はじめて気づいた」
「何に」
「俺がずっと探していたものが、ずっと隣にあったことに」
私は顔を上げた。
カイル様は石畳を見たまま、続けた。
「エルゼが出て行った朝、執務室がやけに静かだった」
私の胸の奥で、何かが小さく動いた。
あの朝の執務室を、私も覚えている。
重厚なデスク。冷ややかな声。そして、閉めた扉の向こうで、振り返らなかった私。
「……ずっと、静かな方がいいと思っていた。なのに」
カイル様の声が、少し低くなった。
「その静けさが、耐えられなかった。それだけだ」
不器用な言葉だった。
整っていない言葉だった。
でも、だからこそ、胸に落ちた。
「カイル様」
「ああ」
「私は、まだあなたを許したわけではないんです」
「……わかっている」
「ただ」
初夏の風が、石畳を渡っていく。
言葉が、うまく出てこなかった。
整えようとするたびに、するりと逃げていく。
「……あなたが来てくれたことを、無駄だとは、思えなくなってきています」
カイル様は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……それで、十分だ」
十分、という言葉が、思ったより柔らかく聞こえた。
以前のカイル様の「十分」は、打ち切りの言葉だった。
今のそれは、違った。
私はそれに気づいて、少し目を伏せた。
日が傾いて、石畳の影が長くなった頃、私は立ち上がった。
「そろそろ戻ります」
「ああ」
「また……来るかもしれません」
言ってから、少し驚いた。
自分がそう言うとは、思っていなかった。
カイル様も少し目を見開いたが、すぐに静かな顔に戻った。
「待っている」
私は頷いて、踵を返した。
数歩歩いてから、ふと思って振り返った。
カイル様は、また石段に座って、日向の中にいた。
ただ、今度は本を開いていなかった。
私が歩いていく方向を、静かに見ていた。
私はそれを一瞬だけ見て、また前を向いた。
リューエン亭に戻ると、ノラが玄関で待ち構えていた。
「どうでしたか!」
「……どうって、何が」
「顔が、さっきより柔らかいです」
「……仕事をしなさい」
「はーい」
ノラはけろりとして厨房に消えた。
私はエプロンを結びながら、口の端が少し上がっているのに気づいた。
いつからだろう。
……わからなかった。
でも、悪くはなかった。
夜、窓を開けると、初夏の風が流れ込んできた。
若い葉の匂いがした。
机の上の小箱を手に取った。
蓋を開けて、カフスボタンを見た。
返す必要は、もうないかもしれない。
でも、受け取り直す日が来るかもしれない。
まだ、もう少し。
私はラベンダーの石鹸を手に取った。
柔らかな匂いが広がった。
窓の外で、初夏の風がまだ吹いていた。
五月になった。
リューエンの春は終わり、街は初夏の気配に変わり始めていた。
市場の花が、白から黄へ、黄から橙へと移ろっていく。
朝の空気が、少しずつ柔らかくなっていた。
カイル様は、まだいた。
あの夜から、十日が過ぎた。
カイル様は食堂に来なかった。
宿からも、ほとんど出ていないらしい。
ヴィクトルが「今朝も宿の前で見かけた。ただ、座っていた」と教えてくれた。
「ただ、座っていた」という言葉が、頭に残った。
あの人が、ただ座っている。
何も命じず、何も裁かず、ただ待っている。
五年前には、想像もできないことだった。
十日間、私はその言葉を頭の隅に置いたまま、仕事をして、眠って、また仕事をした。
答えは出なかった。
でも、何かが少しずつ、動いていた。
ある昼下がり、食堂が落ち着いた頃。
ノラが、カウンターを拭きながら、ぽつりと言った。
「エルゼさん、最近よく窓の外を見てますね」
「……そうかしら」
「そうですよ。三日に一回くらい、街の入口の方を」
私は手を止めた。
「気のせいじゃないかしら」
「気のせいじゃないです。あたし、ちゃんと見てましたから」
ノラは悪びれる様子もなく、にこりとした。
「行ってきたらどうですか。今日は午後、空いてますし」
「……別に、行くところなんて」
「エルゼさん」
ノラが、珍しく真剣な顔で私を見た。
「あたし、エルゼさんが誰かのことを考えてる時の顔、わかりますよ。眉間にしわが寄って、でも目が遠くて」
「……」
「その顔、最近毎日してます」
私は反論できなかった。
ノラはすぐに柔らかい顔に戻って、また布巾を動かし始めた。
「行ってきてください。夕方までには戻ってきてくれれば、大丈夫ですから」
結局、私は午後の光の中を、宿へ向かって歩いていた。
行くつもりはなかった。
でも、足が動いていた。
石畳が、初夏の陽射しを受けてぼんやりと温かい。
あの夜と同じ道だった。
月明かりの中で見た石畳が、昼の光の中では全く違う色をしていた。
宿の前まで来ると、カイル様は本当に、そこにいた。
宿の前の石段に、一人で座っていた。
本を開いていたが、読んでいる様子ではなかった。
ただ、日向に座っていた。
私の足音に気づいて、顔を上げた。
目が合った。
どちらも、何も言わなかった。
私は少し考えてから、隣に腰を下ろした。
カイル様は本を閉じた。
それだけで、しばらく二人とも黙っていた。
「今日は、仕事は」
先に口を開いたのは、カイル様だった。
「午後は空いています」
「そうか」
また、沈黙。
でも、あの夜の沈黙とは少し違った。
張り詰めた感じがなかった。
ただ、二人がそこにいる、というだけの沈黙だった。
「……街は、住みやすいか」
「はい。いい街です」
「そうか」
「カイル様は」
私は石段の前の石畳を見ながら言った。
「十日間、何をしていましたか」
「……待っていた」
「それだけですか」
「それだけだ」
「退屈ではないですか」
カイル様は少し間を置いてから、静かに言った。
「退屈より、後悔の方が重い」
その言葉を、私はしばらく胸の中に置いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「なぜ、追いかけてきたんですか」
カイル様は答えなかった。
しばらく、石畳を見ていた。
「……小箱を見た時、はじめて気づいた」
「何に」
「俺がずっと探していたものが、ずっと隣にあったことに」
私は顔を上げた。
カイル様は石畳を見たまま、続けた。
「エルゼが出て行った朝、執務室がやけに静かだった」
私の胸の奥で、何かが小さく動いた。
あの朝の執務室を、私も覚えている。
重厚なデスク。冷ややかな声。そして、閉めた扉の向こうで、振り返らなかった私。
「……ずっと、静かな方がいいと思っていた。なのに」
カイル様の声が、少し低くなった。
「その静けさが、耐えられなかった。それだけだ」
不器用な言葉だった。
整っていない言葉だった。
でも、だからこそ、胸に落ちた。
「カイル様」
「ああ」
「私は、まだあなたを許したわけではないんです」
「……わかっている」
「ただ」
初夏の風が、石畳を渡っていく。
言葉が、うまく出てこなかった。
整えようとするたびに、するりと逃げていく。
「……あなたが来てくれたことを、無駄だとは、思えなくなってきています」
カイル様は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……それで、十分だ」
十分、という言葉が、思ったより柔らかく聞こえた。
以前のカイル様の「十分」は、打ち切りの言葉だった。
今のそれは、違った。
私はそれに気づいて、少し目を伏せた。
日が傾いて、石畳の影が長くなった頃、私は立ち上がった。
「そろそろ戻ります」
「ああ」
「また……来るかもしれません」
言ってから、少し驚いた。
自分がそう言うとは、思っていなかった。
カイル様も少し目を見開いたが、すぐに静かな顔に戻った。
「待っている」
私は頷いて、踵を返した。
数歩歩いてから、ふと思って振り返った。
カイル様は、また石段に座って、日向の中にいた。
ただ、今度は本を開いていなかった。
私が歩いていく方向を、静かに見ていた。
私はそれを一瞬だけ見て、また前を向いた。
リューエン亭に戻ると、ノラが玄関で待ち構えていた。
「どうでしたか!」
「……どうって、何が」
「顔が、さっきより柔らかいです」
「……仕事をしなさい」
「はーい」
ノラはけろりとして厨房に消えた。
私はエプロンを結びながら、口の端が少し上がっているのに気づいた。
いつからだろう。
……わからなかった。
でも、悪くはなかった。
夜、窓を開けると、初夏の風が流れ込んできた。
若い葉の匂いがした。
机の上の小箱を手に取った。
蓋を開けて、カフスボタンを見た。
返す必要は、もうないかもしれない。
でも、受け取り直す日が来るかもしれない。
まだ、もう少し。
私はラベンダーの石鹸を手に取った。
柔らかな匂いが広がった。
窓の外で、初夏の風がまだ吹いていた。
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