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22話 わたしから
22話 わたしから
自分から誘ってもよいか――。
あの言葉を口にした瞬間から、レイナの心は落ち着きを失っていた。
勢いで言ってしまったのではないか。
はしたなかったのではないか。
公爵家当主に令嬢から誘いをかけるなど、軽率と思われなかっただろうか。
帰宅したその夜から、同じ問いが頭の中をぐるぐる巡っている。
「思い出して赤くなっていますね」
侍女が朝の支度をしながら言った。
「なっていません」
「耳まで赤いです」
「鏡を隠してください」
笑いを堪える気配が背後に広がる。
本当に最近、使用人たちが遠慮を失ってきた。
朝食の席では、母まで嬉しそうだった。
「とうとうあなたから言ったのね」
「お母さま、なぜ知っているのですか」
「顔で分かるもの」
そればかりだ。
父は新聞を広げたまま低く咳払いした。
「……自分から望むことは悪くない」
珍しく擁護かと思えば、そのまま続ける。
「ただし相手が公爵でも、気に入らぬことは断れ」
「お父さま」
「念のためだ」
不器用な心配に、レイナは笑ってしまう。
父も最近、少し変わった。
娘の機嫌より、娘の気持ちを気にしてくれる。
それが何より嬉しかった。
問題は、何に誘うかだった。
昼前から机に向かい、便箋を前に考え込む。
散歩。庭園。美術館。茶会。
これまでセドリックに誘われた場所ばかりが浮かぶ。
自分らしい場所とは何だろう。
「お嬢さま」
侍女が花瓶の水を替えながら言う。
「ご自身の好きな場所でよろしいのでは?」
好きな場所。
その言葉で、ふと浮かんだものがあった。
王都南区にある、小さな古書店街。
昔、母に連れられて何度か訪れた通りだ。
華やかではないが、静かな本屋や紙屋が並び、歩くだけで心が落ち着く場所。
「……そこなら」
レイナは小さく呟いた。
「決まりました?」
「ええ」
胸が少し高鳴る。
今度は、自分の好きな景色を見てもらいたかった。
便箋に丁寧に文字を綴る。
――もしご都合が合えば、南区の古書店街をご一緒いただけませんか。
――静かな通りで、わたしの好きな場所です。
書いてから何度も読み返す。
重くないだろうか。
子どもっぽくないだろうか。
それでも最後には、封をした。
出してしまえば戻せない。
まるで婚約破棄の日とは違う意味で、勇気がいる。
返事は翌日に届いた。
藍色の封蝋を見ただけで心臓が跳ねる。
開けば、短い文が並んでいた。
――喜んで。
――あなたの好きな場所を見られるのが楽しみです。
それだけ。
それだけなのに、レイナはしばらく便箋を閉じられなかった。
楽しみ。
その言葉が何度も胸の中で反響する。
「返事は?」
母が後ろから現れる。
最近、気配なく現れるのをやめてほしい。
「……来てくださるそうです」
「まあ」
母は満面の笑みだった。
「良かったわね」
「まだ何も始まっておりません」
「始まっているから困っている顔でしょう」
何も言い返せない。
当日、南区の古書店街は穏やかな曇り空だった。
石畳の道に、古い木造の店々。
紙と革表紙とインクの匂いが風に混じる。
派手な通りではない。
けれどレイナには大切な場所だった。
待ち合わせの角へ行くと、すでにセドリックが立っていた。
今日は濃紺の外套姿で、人混みの少ない通りによく馴染んでいる。
「お待たせしました」
「いや、今来たところだ」
定番の言葉なのに、この人が言うと妙に真面目に聞こえる。
「ここが、あなたの好きな場所か」
「はい。地味でしょう?」
「落ち着く」
即答だった。
それだけで、胸がやわらかくなる。
二人で通りを歩く。
小さな書店に入り、背表紙を眺める。
紙屋で便箋を見比べる。
古地図を扱う店で、セドリックが真剣に見入っているのが可笑しかった。
「地図がお好きなのですか」
「領地の古い境界線が気になる」
「少し難しい趣味ですね」
「笑っているな」
「少しだけ」
最近このやり取りが増えた。
それが嬉しい。
古書店の片隅で、レイナが詩集を手に取ると、セドリックが横から覗いた。
「お好きなのか」
「ええ。昔から」
「意外ではない」
「どういう意味でしょう」
「静かに強いものを好む印象がある」
レイナは言葉を失う。
そんなふうに見られたことがなかった。
ただ大人しい、従順、扱いやすい。
昔はそんな評価ばかりだった。
「……買ってもよろしいでしょうか」
誤魔化すように言うと、彼は小さく頷いた。
「もちろん」
その声もどこかやさしかった。
帰り道、通りの外れに小さな焼き菓子店があった。
窓辺に並ぶ素朴な林檎菓子を見て、レイナが立ち止まる。
「気になるのか」
「昔、母と来た時によく買ったのです」
「では買おう」
自然に店へ入る。
包みを受け取り、外へ出た時、レイナは笑っていた。
「今日は、わたしがご案内できました」
「ええ」
セドリックはまっすぐ見て言う。
「とても良い時間だった」
風が頬を撫でる。
曇り空なのに、世界が明るく見えた。
自分から差し出した時間を、こんなふうに受け取ってもらえたことが嬉しかった。
自分から誘ってもよいか――。
あの言葉を口にした瞬間から、レイナの心は落ち着きを失っていた。
勢いで言ってしまったのではないか。
はしたなかったのではないか。
公爵家当主に令嬢から誘いをかけるなど、軽率と思われなかっただろうか。
帰宅したその夜から、同じ問いが頭の中をぐるぐる巡っている。
「思い出して赤くなっていますね」
侍女が朝の支度をしながら言った。
「なっていません」
「耳まで赤いです」
「鏡を隠してください」
笑いを堪える気配が背後に広がる。
本当に最近、使用人たちが遠慮を失ってきた。
朝食の席では、母まで嬉しそうだった。
「とうとうあなたから言ったのね」
「お母さま、なぜ知っているのですか」
「顔で分かるもの」
そればかりだ。
父は新聞を広げたまま低く咳払いした。
「……自分から望むことは悪くない」
珍しく擁護かと思えば、そのまま続ける。
「ただし相手が公爵でも、気に入らぬことは断れ」
「お父さま」
「念のためだ」
不器用な心配に、レイナは笑ってしまう。
父も最近、少し変わった。
娘の機嫌より、娘の気持ちを気にしてくれる。
それが何より嬉しかった。
問題は、何に誘うかだった。
昼前から机に向かい、便箋を前に考え込む。
散歩。庭園。美術館。茶会。
これまでセドリックに誘われた場所ばかりが浮かぶ。
自分らしい場所とは何だろう。
「お嬢さま」
侍女が花瓶の水を替えながら言う。
「ご自身の好きな場所でよろしいのでは?」
好きな場所。
その言葉で、ふと浮かんだものがあった。
王都南区にある、小さな古書店街。
昔、母に連れられて何度か訪れた通りだ。
華やかではないが、静かな本屋や紙屋が並び、歩くだけで心が落ち着く場所。
「……そこなら」
レイナは小さく呟いた。
「決まりました?」
「ええ」
胸が少し高鳴る。
今度は、自分の好きな景色を見てもらいたかった。
便箋に丁寧に文字を綴る。
――もしご都合が合えば、南区の古書店街をご一緒いただけませんか。
――静かな通りで、わたしの好きな場所です。
書いてから何度も読み返す。
重くないだろうか。
子どもっぽくないだろうか。
それでも最後には、封をした。
出してしまえば戻せない。
まるで婚約破棄の日とは違う意味で、勇気がいる。
返事は翌日に届いた。
藍色の封蝋を見ただけで心臓が跳ねる。
開けば、短い文が並んでいた。
――喜んで。
――あなたの好きな場所を見られるのが楽しみです。
それだけ。
それだけなのに、レイナはしばらく便箋を閉じられなかった。
楽しみ。
その言葉が何度も胸の中で反響する。
「返事は?」
母が後ろから現れる。
最近、気配なく現れるのをやめてほしい。
「……来てくださるそうです」
「まあ」
母は満面の笑みだった。
「良かったわね」
「まだ何も始まっておりません」
「始まっているから困っている顔でしょう」
何も言い返せない。
当日、南区の古書店街は穏やかな曇り空だった。
石畳の道に、古い木造の店々。
紙と革表紙とインクの匂いが風に混じる。
派手な通りではない。
けれどレイナには大切な場所だった。
待ち合わせの角へ行くと、すでにセドリックが立っていた。
今日は濃紺の外套姿で、人混みの少ない通りによく馴染んでいる。
「お待たせしました」
「いや、今来たところだ」
定番の言葉なのに、この人が言うと妙に真面目に聞こえる。
「ここが、あなたの好きな場所か」
「はい。地味でしょう?」
「落ち着く」
即答だった。
それだけで、胸がやわらかくなる。
二人で通りを歩く。
小さな書店に入り、背表紙を眺める。
紙屋で便箋を見比べる。
古地図を扱う店で、セドリックが真剣に見入っているのが可笑しかった。
「地図がお好きなのですか」
「領地の古い境界線が気になる」
「少し難しい趣味ですね」
「笑っているな」
「少しだけ」
最近このやり取りが増えた。
それが嬉しい。
古書店の片隅で、レイナが詩集を手に取ると、セドリックが横から覗いた。
「お好きなのか」
「ええ。昔から」
「意外ではない」
「どういう意味でしょう」
「静かに強いものを好む印象がある」
レイナは言葉を失う。
そんなふうに見られたことがなかった。
ただ大人しい、従順、扱いやすい。
昔はそんな評価ばかりだった。
「……買ってもよろしいでしょうか」
誤魔化すように言うと、彼は小さく頷いた。
「もちろん」
その声もどこかやさしかった。
帰り道、通りの外れに小さな焼き菓子店があった。
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「気になるのか」
「昔、母と来た時によく買ったのです」
「では買おう」
自然に店へ入る。
包みを受け取り、外へ出た時、レイナは笑っていた。
「今日は、わたしがご案内できました」
「ええ」
セドリックはまっすぐ見て言う。
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