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番外編(子育て編) 生まれた日
番外編(子育て編) 生まれた日
春の終わり、朝から空はやわらかく晴れていた。
庭の白い花が風に揺れ、鳥たちがいつもより賑やかに鳴いている。
その穏やかな日に、アシュクロフト公爵家本邸はまったく穏やかではなかった。
「お湯を追加で!」
「医師はもう着いております!」
「廊下を走らない!」
執事の叱責が飛ぶ。
侍女たちは慌ただしく行き来し、厨房ではなぜか料理長が祈っていた。
理由は誰にも分からない。
そして屋敷の主人は――。
「旦那様、座ってください」
「落ち着いております」
「先ほどから同じ場所を七往復されています」
セドリックは廊下を歩いていた。
いや、ほぼ巡回だった。
顔色はいつも通り整っている。
だが歩幅が一定ではない。
手元の書類は上下逆さまだった。
完全に落ち着いていない。
「何か必要なものは」
「すべて整っております」
「医師は」
「おります」
「痛みは」
「進んでおります」
執事が完璧に答える。
「……私は何をすれば」
「待つことです」
それが最も苦手そうだった。
レイナは寝室で、陣痛の波に耐えていた。
痛みは想像以上だった。
呼吸を整え、握った布を離し、また握る。
侍女が額の汗を拭い、女医が落ち着いた声で導く。
「とても順調です。奥様、お上手ですよ」
上手とか下手とかあるのだろうか。
そう思う余裕があるうちは、まだ大丈夫だった。
次の波が来る。
「……っ」
痛い。
だが怖くはなかった。
ここには信頼できる人たちがいて、待っている人がいる。
そしてこの先に、会いたい命がいる。
「旦那様は?」
苦しい合間に尋ねると、侍女が少し笑った。
「廊下を歩いておられます」
「まだ?」
「かなり歩いておられます」
想像できてしまい、レイナは痛みの合間に笑った。
昼を過ぎた頃、いよいよ最後の時が近づく。
女医の声が少し強くなる。
「奥様、次で参りましょう」
レイナは頷いた。
痛みの波に合わせ、力を込める。
苦しくて、熱くて、長い一瞬。
そして――
高く澄んだ泣き声が、部屋いっぱいに響いた。
世界が止まったように感じた。
「おめでとうございます!」
侍女たちの声が重なる。
レイナの目から涙があふれた。
終わった安堵と、始まった喜びで胸がいっぱいになる。
「……元気ですか」
「とても元気な男の子ですよ」
そう告げられた瞬間、また涙がこぼれた。
男の子。
自分たちの子。
小さな命が、今ここにいる。
廊下の外では、泣き声が聞こえた瞬間にセドリックが完全停止していた。
「旦那様」
執事が呼ぶ。
反応がない。
「旦那様」
「……今のは」
「お子様です」
数秒後、彼は深く息を吸った。
「レイナは」
「ご無事です」
その言葉で、ようやく肩の力が抜ける。
珍しく壁へ手をつき、目を閉じた。
「……良かった」
それだけで、どれほど張り詰めていたか分かった。
やがて入室を許される。
寝室は静かな幸福に満ちていた。
レイナは疲れた顔をしていたが、晴れやかに笑っている。
その腕には、小さく包まれた赤子。
セドリックは扉の前で足を止めた。
領地の問題にも、社交界の圧にも、眉一つ動かさぬ男が、完全に固まっていた。
「……公爵様?」
レイナが呼ぶ。
ゆっくり近づき、寝台のそばへ膝をつく。
赤子を見つめたまま、何も言わない。
「大丈夫ですか」
「……小さい」
第一声がそれだった。
レイナは笑ってしまう。
「赤ちゃんですから」
「そうでした」
真面目に頷く。
それから恐る恐る指先を差し出すと、赤子の小さな手がきゅっと掴んだ。
その瞬間、セドリックの表情が崩れた。
驚き、戸惑い、そしてどうしようもない愛しさ。
「……握られました」
「見れば分かります」
「離しません」
「それも見れば分かります」
彼は本当に離さなかった。
しばらくして、レイナが静かに言う。
「抱いてみますか」
セドリックの動きが止まる。
「私が?」
「あなた以外に誰が」
「……壊しませんか」
「壊れません」
女医まで笑っている。
丁寧に教わりながら腕へ抱かれた赤子は、不思議なくらい落ち着いていた。
セドリックは呼吸すら慎重になる。
「軽い……」
「でも重いでしょう?」
レイナが言う。
彼は赤子を見つめたまま頷いた。
「ええ。とても」
その言葉に、レイナの胸が熱くなる。
守る責任。
愛する重み。
未来の重さ。
全部込められている気がした。
夕方、屋敷中へ正式に知らせが出た。
後継ぎ誕生。
使用人たちは歓声を上げ、料理長は巨大な祝い菓子を作り始め、執事は静かに頭を抱えた。
寝室では、三人だけの静かな時間が流れていた。
窓から差す夕陽が、赤子の頬をやわらかく照らす。
セドリックがそっと言う。
「ありがとう」
レイナは笑って返す。
「何度目でしょう」
「足りません」
いつもの答えだった。
なら、これから先も何度でも聞いてやろう。
そう思いながら、レイナは眠る我が子を見つめた。
十年耐えた日々の先で、ようやく辿り着いた幸せは、腕の中で静かに息をしていた。
春の終わり、朝から空はやわらかく晴れていた。
庭の白い花が風に揺れ、鳥たちがいつもより賑やかに鳴いている。
その穏やかな日に、アシュクロフト公爵家本邸はまったく穏やかではなかった。
「お湯を追加で!」
「医師はもう着いております!」
「廊下を走らない!」
執事の叱責が飛ぶ。
侍女たちは慌ただしく行き来し、厨房ではなぜか料理長が祈っていた。
理由は誰にも分からない。
そして屋敷の主人は――。
「旦那様、座ってください」
「落ち着いております」
「先ほどから同じ場所を七往復されています」
セドリックは廊下を歩いていた。
いや、ほぼ巡回だった。
顔色はいつも通り整っている。
だが歩幅が一定ではない。
手元の書類は上下逆さまだった。
完全に落ち着いていない。
「何か必要なものは」
「すべて整っております」
「医師は」
「おります」
「痛みは」
「進んでおります」
執事が完璧に答える。
「……私は何をすれば」
「待つことです」
それが最も苦手そうだった。
レイナは寝室で、陣痛の波に耐えていた。
痛みは想像以上だった。
呼吸を整え、握った布を離し、また握る。
侍女が額の汗を拭い、女医が落ち着いた声で導く。
「とても順調です。奥様、お上手ですよ」
上手とか下手とかあるのだろうか。
そう思う余裕があるうちは、まだ大丈夫だった。
次の波が来る。
「……っ」
痛い。
だが怖くはなかった。
ここには信頼できる人たちがいて、待っている人がいる。
そしてこの先に、会いたい命がいる。
「旦那様は?」
苦しい合間に尋ねると、侍女が少し笑った。
「廊下を歩いておられます」
「まだ?」
「かなり歩いておられます」
想像できてしまい、レイナは痛みの合間に笑った。
昼を過ぎた頃、いよいよ最後の時が近づく。
女医の声が少し強くなる。
「奥様、次で参りましょう」
レイナは頷いた。
痛みの波に合わせ、力を込める。
苦しくて、熱くて、長い一瞬。
そして――
高く澄んだ泣き声が、部屋いっぱいに響いた。
世界が止まったように感じた。
「おめでとうございます!」
侍女たちの声が重なる。
レイナの目から涙があふれた。
終わった安堵と、始まった喜びで胸がいっぱいになる。
「……元気ですか」
「とても元気な男の子ですよ」
そう告げられた瞬間、また涙がこぼれた。
男の子。
自分たちの子。
小さな命が、今ここにいる。
廊下の外では、泣き声が聞こえた瞬間にセドリックが完全停止していた。
「旦那様」
執事が呼ぶ。
反応がない。
「旦那様」
「……今のは」
「お子様です」
数秒後、彼は深く息を吸った。
「レイナは」
「ご無事です」
その言葉で、ようやく肩の力が抜ける。
珍しく壁へ手をつき、目を閉じた。
「……良かった」
それだけで、どれほど張り詰めていたか分かった。
やがて入室を許される。
寝室は静かな幸福に満ちていた。
レイナは疲れた顔をしていたが、晴れやかに笑っている。
その腕には、小さく包まれた赤子。
セドリックは扉の前で足を止めた。
領地の問題にも、社交界の圧にも、眉一つ動かさぬ男が、完全に固まっていた。
「……公爵様?」
レイナが呼ぶ。
ゆっくり近づき、寝台のそばへ膝をつく。
赤子を見つめたまま、何も言わない。
「大丈夫ですか」
「……小さい」
第一声がそれだった。
レイナは笑ってしまう。
「赤ちゃんですから」
「そうでした」
真面目に頷く。
それから恐る恐る指先を差し出すと、赤子の小さな手がきゅっと掴んだ。
その瞬間、セドリックの表情が崩れた。
驚き、戸惑い、そしてどうしようもない愛しさ。
「……握られました」
「見れば分かります」
「離しません」
「それも見れば分かります」
彼は本当に離さなかった。
しばらくして、レイナが静かに言う。
「抱いてみますか」
セドリックの動きが止まる。
「私が?」
「あなた以外に誰が」
「……壊しませんか」
「壊れません」
女医まで笑っている。
丁寧に教わりながら腕へ抱かれた赤子は、不思議なくらい落ち着いていた。
セドリックは呼吸すら慎重になる。
「軽い……」
「でも重いでしょう?」
レイナが言う。
彼は赤子を見つめたまま頷いた。
「ええ。とても」
その言葉に、レイナの胸が熱くなる。
守る責任。
愛する重み。
未来の重さ。
全部込められている気がした。
夕方、屋敷中へ正式に知らせが出た。
後継ぎ誕生。
使用人たちは歓声を上げ、料理長は巨大な祝い菓子を作り始め、執事は静かに頭を抱えた。
寝室では、三人だけの静かな時間が流れていた。
窓から差す夕陽が、赤子の頬をやわらかく照らす。
セドリックがそっと言う。
「ありがとう」
レイナは笑って返す。
「何度目でしょう」
「足りません」
いつもの答えだった。
なら、これから先も何度でも聞いてやろう。
そう思いながら、レイナは眠る我が子を見つめた。
十年耐えた日々の先で、ようやく辿り着いた幸せは、腕の中で静かに息をしていた。
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