「声に出せなかった五年分の気持ちを、離婚届と一緒に置いていきます」

まさき

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第十二章 返ってこない言葉

第十二章 返ってこない言葉
 
来週の土曜は、来なかった。
 
蓮が金曜の夜に言った。「土曜、急に仕事が入った」と。陽菜は「そっか、しょうがないね」と笑って答えた。
 
しょうがなかった。仕事なのだから。
 
でも土曜の朝、一人でリビングに座りながら、陽菜は窓の外を見た。晴れていた。先週と同じように、青い空だった。
 
先週も晴れていた。あのとき「来週行こう」と蓮が言った。
 
今週も晴れている。でも蓮はいない。
 
陽菜はコーヒーを一人分だけ淹れた。
 
以前は必ず二人分淹れていた。でも最近は、蓮が書斎にこもっているか出勤しているかで、一人分だけ淹れることが増えた。二人分のカップを出す習慣が、少しずつ薄れていた。
 
綾香にメッセージを送ろうとして、やめた。
 
また愚痴になる気がした。綾香はいつも「言った方がいい」と言う。でも陽菜にはまだ、言えなかった。
 
一人で家を出た。
 
特に行くあてはなかった。ただ、家にいたくなかった。蓮がいない家に、一人でいたくなかった。
 
駅前を歩いた。ショーウィンドウを眺めた。カフェに入って、コーヒーを飲んだ。本屋に寄って、気になっていた小説を買った。
 
一人でも、楽しめた。
 
でも帰り道、ふと思った。
 
蓮に「今日こんなところ行ってきた」と話したい。「この本おもしろそうだった」と見せたい。「一緒に来ればよかったね」と笑いたい。
 
そういう気持ちが、まだあった。
 
家に帰ると、蓮の書斎のドアが閉まっていた。
 
「ただいま」
 
声をかけた。
 
返事がなかった。
 
陽菜は少し立ち止まった。聞こえなかったのか、集中していて気づかなかったのか。どちらかわからなかった。
 
もう一度言った。
 
「ただいま」
 
しばらくして、書斎のドアが少し開いた。
 
「おかえり」
 
蓮の声だった。ドアは少しだけ開いたまま、また閉じた。
 
陽菜はコートを脱いで、キッチンへ向かった。
 
「ただいま」という言葉が、返ってくるのに時間がかかった。それだけのことだった。でも胸の奥で、何かが小さく傷ついた。
 
夕食の準備をした。
 
蓮が書斎から出てきたのは、七時過ぎだった。
 
「飯、できてるか?」
 
「今すぐ出せるよ」
 
テーブルに料理を並べた。二人で向かい合って座った。
 
「今日、どこか行ったのか?」
 
蓮が聞いた。
 
「うん。駅前をぶらぶらして、本屋に寄った」
 
「そうか」
 
「本、買ってきた。蓮も好きそうな話だったよ」
 
「どんな話だ?」
 
「会社員が主人公で、仕事と家族の間で悩む話。なんか、リアルで面白そうで」
 
蓮は少し間を置いた。
 
「俺には刺さりそうだな」
 
「でしょ。一緒に読む?」
 
「陽菜が先に読め。感想聞かせてくれ」
 
「わかった」
 
短い会話だった。でも久しぶりに、蓮と本の話ができた。それだけで、少し食卓が明るくなった気がした。
 
食後、陽菜は思い切って言った。
 
「ねえ、蓮」
 
「うん」
 
「今日、一緒に行けたらよかったな」
 
蓮は箸を置いた。
 
「……ごめん」
 
「責めてないよ。ただ、思っただけ」
 
「来週こそ行こう」
 
陽菜は少し間を置いた。
 
「来週も仕事、入らない?」
 
聞いてしまった。聞くつもりはなかった。でも出てしまった。
 
蓮は黙った。
 
「……わからない」
 
正直な答えだった。嘘はなかった。でもその正直さが、今夜は少し痛かった。
 
「そっか」
 
陽菜は笑って答えた。
 
食器を洗いながら、陽菜は考えた。
 
言葉が返ってこない、ということが増えた。
 
「ただいま」がすぐに返ってこない。「来週行こう」という約束が返ってこない。話しかけても「そうか」だけが返ってくる。
 
言葉が、戻ってこない。
 
投げかけても、戻ってこない。
 
でも蓮は悪くない、と陽菜は思った。仕事が忙しいだけだ。悪意はない。
 
でも悪意がなくても、傷つくことはある。
 
そのことに、陽菜はようやく気づき始めていた。
 
ベッドに入って、電気を消した。
 
蓮はまだリビングにいた。
 
「おやすみ」
 
陽菜は声をかけた。
 
「ああ、おやすみ」
 
返ってきた。
 
今夜は、返ってきた。
 
それだけで少し安心した自分が、情けなかった。
 
「おやすみ」が返ってくることに、安心するようになっていた。
 
そこまで来ていた。
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