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第二十七章 最後の朝食
第二十七章 最後の朝食
置いていく日を、陽菜は決めていた。
一月の終わり、蓮が日帰り出張に行く日だった。朝早く出て、夜遅く帰ってくる日。その間に、荷物をまとめて、離婚届を置いて、出ていく。綾香に頼んで、しばらく泊めてもらうことにした。
綾香には話した。
「決めたんだね」
「うん」
「わかった。いつでもおいで」
それだけだった。綾香は引き止めなかった。泣かなかった。ただ、受け取ってくれた。それが陽菜には一番ありがたかった。
出張の前日の夜、陽菜は夕食を丁寧に作った。
蓮の好きなものを作った。肉じゃが、だし巻き卵、きのこの味噌汁。特別な料理じゃなかった。でも蓮が美味しそうに食べるものを、全部作った。
蓮は帰ってきて、テーブルを見た。
「なんか多いな」
「作りすぎた」
「いいけど」
二人で食べた。蓮はいつもより少し嬉しそうだった。だし巻き卵を一口食べて、美味いな、と言った。陽菜はそれを見ながら、この顔を覚えておこうと思った。
最後の夕食だった。
でもそれは、蓮には言わなかった。
翌朝、陽菜はいつもより早く起きた。
まだ暗い時間だった。キッチンに立って、朝食を作り始めた。トーストを焼いて、スクランブルエッグを作って、サラダを用意して、コーヒーをいれた。蓮が好きな、少し濃いめのコーヒーを。
蓮が起きてきた。
「早いな、今日」
「出張でしょ。ちゃんと食べてから行った方がいいと思って」
「ありがとう」
蓮は椅子に引いて座った。陽菜も向かいに座った。
「いただきます」
「いただきます」
二人で食べ始めた。
陽菜はゆっくり食べた。蓮の食べる様子を見た。トーストにバターを塗る手を見た。コーヒーカップを持ち上げる指を見た。窓から差し込む朝の光の中で、蓮の横顔を見た。
覚えておこうと思った。
全部、覚えておこうと思った。
「今日、何時ごろ帰れそう?」
陽菜は聞いた。
「遅くなると思う。終電になるかも」
「そっか」
終電。それなら時間は十分あった。荷物をまとめて、手紙を書いて、出ていける。
「陽菜は今日、仕事?」
「休み取った」
「そうか。ゆっくりしてろ」
「うん」
ゆっくりしてろ、と蓮は言った。今日陽菜が何をするか、知らないまま言った。
陽菜はコーヒーを一口飲んだ。濃くて、温かかった。
「蓮」
「ん」
「出張、気をつけてね」
「ああ」
それだけだった。
他に言いたいことは、たくさんあった。五年間ありがとう。嫌いになったわけじゃない。ただ、限界だった。そういうことを言いたかった。でも言えなかった。言ったら、全部崩れる気がした。今朝だけは、普通の朝でいたかった。
最後の朝食が終わった。
蓮は席を立って、スーツの上着を着た。鞄を持って、玄関に向かった。陽菜も立ち上がって、ついていった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
蓮がドアを開けた。
陽菜は、もう一度だけ蓮の顔を見た。
いつもの顔だった。少し眠そうで、少し疲れていて、でも今日の仕事のことを考えている顔。この顔を、今日最後に見た。
「じゃあ」
「うん」
ドアが閉まった。
足音が遠ざかった。
エレベーターの音がして、静かになった。
陽菜は玄関に立ったまま、閉まったドアを見た。
しばらく、動けなかった。
泣かなかった。
泣いたら動けなくなると思った。だから泣かなかった。ただ、ドアを見ていた。蓮がいなくなった、そのドアを。
深呼吸をした。
リビングに戻った。テーブルの上に、二人分の食器が残っていた。コーヒーカップが二つ。トーストの皿が二つ。
二つ、だった。
今日からは、一つになる。
陽菜は食器を片づけた。丁寧に洗った。蓮のカップも、蓮の皿も、丁寧に洗って、拭いて、棚に戻した。
棚に戻した蓮のカップを、少しだけ見た。
それから、引き出しを開けた。
離婚届があった。
取り出して、テーブルの上に置いた。
今日、置いていく。
声に出せなかった五年分の気持ちを、この紙と一緒に置いていく。
陽菜は荷造りを始めた。
置いていく日を、陽菜は決めていた。
一月の終わり、蓮が日帰り出張に行く日だった。朝早く出て、夜遅く帰ってくる日。その間に、荷物をまとめて、離婚届を置いて、出ていく。綾香に頼んで、しばらく泊めてもらうことにした。
綾香には話した。
「決めたんだね」
「うん」
「わかった。いつでもおいで」
それだけだった。綾香は引き止めなかった。泣かなかった。ただ、受け取ってくれた。それが陽菜には一番ありがたかった。
出張の前日の夜、陽菜は夕食を丁寧に作った。
蓮の好きなものを作った。肉じゃが、だし巻き卵、きのこの味噌汁。特別な料理じゃなかった。でも蓮が美味しそうに食べるものを、全部作った。
蓮は帰ってきて、テーブルを見た。
「なんか多いな」
「作りすぎた」
「いいけど」
二人で食べた。蓮はいつもより少し嬉しそうだった。だし巻き卵を一口食べて、美味いな、と言った。陽菜はそれを見ながら、この顔を覚えておこうと思った。
最後の夕食だった。
でもそれは、蓮には言わなかった。
翌朝、陽菜はいつもより早く起きた。
まだ暗い時間だった。キッチンに立って、朝食を作り始めた。トーストを焼いて、スクランブルエッグを作って、サラダを用意して、コーヒーをいれた。蓮が好きな、少し濃いめのコーヒーを。
蓮が起きてきた。
「早いな、今日」
「出張でしょ。ちゃんと食べてから行った方がいいと思って」
「ありがとう」
蓮は椅子に引いて座った。陽菜も向かいに座った。
「いただきます」
「いただきます」
二人で食べ始めた。
陽菜はゆっくり食べた。蓮の食べる様子を見た。トーストにバターを塗る手を見た。コーヒーカップを持ち上げる指を見た。窓から差し込む朝の光の中で、蓮の横顔を見た。
覚えておこうと思った。
全部、覚えておこうと思った。
「今日、何時ごろ帰れそう?」
陽菜は聞いた。
「遅くなると思う。終電になるかも」
「そっか」
終電。それなら時間は十分あった。荷物をまとめて、手紙を書いて、出ていける。
「陽菜は今日、仕事?」
「休み取った」
「そうか。ゆっくりしてろ」
「うん」
ゆっくりしてろ、と蓮は言った。今日陽菜が何をするか、知らないまま言った。
陽菜はコーヒーを一口飲んだ。濃くて、温かかった。
「蓮」
「ん」
「出張、気をつけてね」
「ああ」
それだけだった。
他に言いたいことは、たくさんあった。五年間ありがとう。嫌いになったわけじゃない。ただ、限界だった。そういうことを言いたかった。でも言えなかった。言ったら、全部崩れる気がした。今朝だけは、普通の朝でいたかった。
最後の朝食が終わった。
蓮は席を立って、スーツの上着を着た。鞄を持って、玄関に向かった。陽菜も立ち上がって、ついていった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
蓮がドアを開けた。
陽菜は、もう一度だけ蓮の顔を見た。
いつもの顔だった。少し眠そうで、少し疲れていて、でも今日の仕事のことを考えている顔。この顔を、今日最後に見た。
「じゃあ」
「うん」
ドアが閉まった。
足音が遠ざかった。
エレベーターの音がして、静かになった。
陽菜は玄関に立ったまま、閉まったドアを見た。
しばらく、動けなかった。
泣かなかった。
泣いたら動けなくなると思った。だから泣かなかった。ただ、ドアを見ていた。蓮がいなくなった、そのドアを。
深呼吸をした。
リビングに戻った。テーブルの上に、二人分の食器が残っていた。コーヒーカップが二つ。トーストの皿が二つ。
二つ、だった。
今日からは、一つになる。
陽菜は食器を片づけた。丁寧に洗った。蓮のカップも、蓮の皿も、丁寧に洗って、拭いて、棚に戻した。
棚に戻した蓮のカップを、少しだけ見た。
それから、引き出しを開けた。
離婚届があった。
取り出して、テーブルの上に置いた。
今日、置いていく。
声に出せなかった五年分の気持ちを、この紙と一緒に置いていく。
陽菜は荷造りを始めた。
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