「愛していると、一度も言わなかったあなたへ」 ~十年間泣いていたことを、あなたは知らない~

まさき

文字の大きさ
40 / 40

第40話「大団円」

夏になった。
 グレイの夏は、相変わらず清々しかった。湿気が少なく、風が涼しかった。朝、窓を開けると、薬草の香りが入ってきた。ルツ老女の店から漂ってくる香りだった。
 レナがグレイに来て、三年が経った。
 正確には、三年と少し。あの冬の朝に指輪を置いて屋敷を出てから、三年と少しが経った。
 長かった。
 でも、あっという間でもあった。
 朝、叔母と朝食を食べた。
 いつも通りの朝食だった。パンと、温かいスープと。叔母が「今日は何件来るの」と聞いた。レナが「二件かな」と答えた。叔母が「イナちゃんは?」と聞いた。レナが「午後から来る」と答えた。
 それだけの会話だった。
 でも、それが好きだった。
 特別なことは何もない。ただ、ここにいる。それだけの朝が、今のレナには全てだった。
 工房を開けた。
 棚に並んだ瓶を確認した。薬草の在庫を確かめた。作業台を拭いた。窓を開けた。
 グレイの朝の空気が入ってきた。
 看板を見た。
 「香り工房 レナ」
 叔母の文字だった。グレイに来て最初の頃、叔母が書いてくれた文字だった。三年経っても、同じ看板がここにあった。
 色は少し褪せていたが、文字は変わらなかった。
 レナはその看板を、しばらく見ていた。
 ここから始まった。全部、ここから始まった。
 最初の依頼人が来たのは、昼前だった。
 二十代くらいの、若い男性だった。少し緊張した様子で、入り口に立っていた。
「レナさんですか」
「はい。どうぞ」
 中に通した。お茶を出した。向かいに座った。
 男性はしばらく黙っていた。何から話せばいいか、迷っているようだった。
 レナは急かさなかった。ただ、待った。
 やがて男性が口を開いた。
「祖父の香りを作ってほしくて」
「話してください。お祖父様のことを」
 男性は話してくれた。
 祖父は農夫だった。寡黙な人だったが、孫の自分にだけは優しかった。子供の頃、畑に連れて行ってもらった。土の香りがした。汗の香りがした。昼になると、祖父が持ってきた握り飯を一緒に食べた。その握り飯が、世界で一番美味しかった。
 祖父は去年亡くなった。最後まで畑に出ていた。
「あの頃の香りを、ずっと覚えていたくて」
 男性の声が、少し震えた。
 レナは静かに聞いていた。
 土の香り。汗の温かさ。昼の光。握り飯の素朴な匂い。祖父と孫の、言葉のない時間。
 輪郭が、見えてきた。
「作ります」
 男性が少し離れて待っている間、レナは作業を始めた。
 土に近い香りをベースにした。体温に近い温かみを重ねた。昼の光——清潔で、明るい香りを少し足した。
 握り飯の素朴さは、どう出すか。
 華やかな香りではなく、ただそこにある、という感じ。主張しない。でも確かにある。
 そういう香りを、少し加えた。
 全体を嗅いだ。
 畑があった。土があった。昼の光があった。そして——言葉のない、でも確かな愛情があった。
 これだ、と思った。
 男性に渡した。
 男性は瓶を受け取って、蓋をゆっくりと開けた。
 しばらく、何も言わなかった。
 それから、静かに言った。
「……いました。ここに、おじいちゃんが」
 レナは何も言わなかった。
 男性はしばらく目を閉じていた。それから、目を開けて、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、話してくださってありがとうございました」
 男性が出て行った後、レナはしばらく作業台の前に座っていた。
 いつも通りだった。
 でも、いつも通りが、今のレナには全てだった。
 午後、イナが来た。
 二件目の依頼は、イナが担当した。レナは少し離れたところで、作業をしながら聞いていた。
 イナの聞き方が、最初の頃とは全然違っていた。急かさなかった。まとめなかった。依頼人が話したいように、話させていた。
 香りを作るときも、迷いがなかった。自分のやり方で、自分の答えを出していた。
 依頼人が香りを受け取ったとき、イナが静かに微笑んだ。
 レナはその顔を見て、思った。
 もう、大丈夫だ。
 夕方、ルツ老女の店に寄った。
 老女はいつも通り作業をしていた。
 レナが入っても、手を止めなかった。
「今日はどうだった」
「二件、来ました」
「うまくいったか」
「はい。イナも、うまくやっていました」
 老女は何も言わなかった。しばらく作業を続けた。
 やがて、老女が言った。
「お前が来たとき、覚えているか」
「はい」
「市場で足を止めて、香りを嗅いでいた。鼻がいい、と思った」
「覚えています」
「まさかこうなるとは思わなかった」
 レナは少し驚いた。老女がそういうことを言うのは珍しかった。
「そうですか」
「思っていたより、遠くに行った」
「遠くに、ですか」
「王都まで行って、教える会まで開いた。私が教えたことが、王都まで広まった」
 老女はそれだけ言って、また作業に戻った。
 レナは老女の横顔を見た。
 褒めているのか、ただ事実を言っているのか、相変わらずわからなかった。でも、それでよかった。
「ルツさん」
「何だ」
「来てよかったです。グレイに」
 老女は手を止めなかった。
「そうか」
 それだけだった。
 それだけで、十分だった。
 夜、叔母の家に戻った。
 夕食を食べた。叔母と話した。
 食後、暖炉の前に座った。父のノートを開いた。
 最後のページを見た。
 香りは、人と人を繋ぐものだ。
 その言葉が、今日も変わらずそこにあった。
 マリアが瓶を胸に抱いた瞬間。ゴードンの目が赤くなった瞬間。ヴァルター侯爵の母が「これが、私ね」と言った瞬間。今日の男性が「おじいちゃんがいました」と言った瞬間。
 全部、人と人が繋がった瞬間だった。
 レナはノートを閉じた。
 窓の外で、グレイの夜が静かに続いていた。
 星が出ていた。
 あの朝、レナは指輪を置いて出て行った。泣かなかった。怒らなかった。ただ、歩いた。
 あの朝から、ここまで来た。
 遠かった。でも、一歩ずつ来た。
 工房がある。看板がある。イナがいる。叔母がいる。ルツ老女がいる。依頼人たちがいる。父のノートがある。
 全部、あの朝から始まった。
 レナは目を閉じた。
 明日も、工房を開ける。
 依頼人が来るかもしれない。来ないかもしれない。
 どちらでもよかった。
 工房はここにある。レナはここにいる。
 それだけが、今のレナには全てだった。
 おやすみなさい、と思った。
 誰に言うともなく。
 自分に言えば、十分だった。
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

あい
2026.04.28 あい

「ライルが来る」の時の未練のなさは素晴らしい!!
このまま断り続けてくれればいいが……。すぐに絆され許して最後は中途半端に戻ってハッピーエンドが多いから油断出来ない……(´・ω・`)

解除

あなたにおすすめの小説

幼馴染しか見えない婚約者と白い結婚したので、夜明け前にさよならしました

ゆぷしろん
恋愛
公爵令嬢レティシアは、家同士の都合で伯爵アルフレッドに嫁ぐ。 けれど夫は結婚後もずっと幼馴染のシルヴィばかりを優先し、婚礼の夜から夫婦として触れ合おうともしなかった。名ばかりの妻として伯爵家を支え、領地経営まで立て直しても、彼にとってレティシアは“都合のいい伯爵夫人”でしかない。 やがて結婚一周年の夜、アルフレッドが自分を手放す気はない一方で、幼馴染を屋敷に迎え入れようとしている会話を聞いてしまったレティシアは、ついに決意する。 ――もう、この結婚には見切りをつけよう。 夜明け前、彼女は離縁の準備を整え、伯爵邸を出奔。 身を寄せた北の港町で薬舗を手伝いながら、自分の力で生きる穏やかな日々を手に入れていく。そこで出会ったのは、身分ではなく一人の女性として彼女を尊重してくれる青年医師ノアだった。 一方、都合よく尽くしてくれる妻を失ったアルフレッドは、ようやく自分が何を失ったのかを思い知ることになる。 幼馴染ばかりを優先する婚約者との白い結婚に終止符を打ち、傷ついた公爵令嬢が新天地で本当の幸せを掴む、離縁から始まる逆転ラブストーリー。

旦那様は私の親友が好きなようです

葛葉
恋愛
旦那様は私に冷たい。 なのに私の親友とは仲良く笑い合っている。 私は旦那様に離縁を突きつけることにした。 ※完結まで予約投稿済みです。

余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ
恋愛
公爵家に嫁いで三年。 夫ヴィルレオは義務だけを果たす、冷たい人だった。 愛のない結婚だとわかっていたから、主人公リュゼリアも期待しないふりをして生きてきた。 けれどある日、彼女は余命半年を宣告される。 原因は長年蓄積した病と、心身を削る公爵家での生活。 残された時間が半年しかないのなら、もう誰にも気を遣わず、自分のために生きたい。そう決意したリュゼリアは、夫へ静かに告げる。 「あなたの愛など要りませんので、離縁してください」 最初はそれを淡々と受け止めたはずの夫は、彼女が本当に去ろうとした時に初めて、自分が妻を深く愛していたことを知る。 だが気づくのが遅すぎた。 彼女の命は、もう長くない。 遅すぎた愛にすがる夫と、最後まで自分の尊厳を守ろうとする妻。 離縁、後悔、すれ違い、余命。 泣けて苦しくて、それでも最後まで追いたくなる後悔系・溺愛逆転ロマンス。

『愛されぬ身代わり妻ですが、真実はもう、あの小箱の中に置いてきました』

まさき
恋愛
「サインはいただきました。あとは私が、この屋敷を出るだけです」 五年間の結婚生活。 イリス・フェルナが演じ続けたのは、婚約直前に出奔した異母姉・クローヴィアの「身代わり」という役だった。 辺境大公ヴァルクが愛していたのは、幼い頃に魔物の群れから自分を救ってくれた少女——それがクローヴィアだと信じていた彼は、顔の似た妹イリスを娶りながらも、一度たりとて彼女を「イリス」と呼ぶことはなかった。 冷淡な視線、クローヴィアと比べられる日々。 屋敷にはいまも姉の肖像画が飾られ、食卓には姉の好物が並んだ。 「君はどこまでいっても、クローヴィアにはなれない」 その言葉を最後に、イリスは静かに離縁状を書き、小さな箱をひとつ棚に残して、夜明け前に屋敷を去った。 翌朝、箱を開けたヴァルクが見つけたのは—— 幼い頃、命の恩人の少女に預けたはずの護符と、 少女の手で綴られた、あまりにも小さな真実の手記だった。 ――「雪の森で貴方を抱きしめていたのは、お姉様ではなく、私でした」 真実を知り、はじめて「イリス」という名を叫びながら彼女を追うヴァルク。 だが、すべてを置いて「自分」を取り戻したイリスは、もう二度と、誰かの身代わりとして微笑む妻には戻らない。 これは、名前を奪われた女が自由を掴み、愚かな夫が真実の愛を失うまでの——静かで鮮やかな再生の物語。

真実の愛を見つけたから離婚してくれ」と笑う夫へ。あなたの愛する彼女、私の実家で天文学的な借金の保証人になってますけど、大丈夫ですか?

まさき
恋愛
夫に「真実の愛を見つけた」と離婚を告げられた日、桐島澪は微笑んだ。「いいですよ」——その一言に、すべての準備が込められていた。 澪の実家は、不倫相手・白石奈々が10億円の借金を抱えていることを把握し、その債権をすでに買い取っていた。慧介は入籍前に、奈々に騙されて連帯保証人の書類にサインしていた——内容を確認しないまま。 逃げ場はない。奈々の本性が剥がれ、二人の愛の生活は崩壊していく。 一方の澪は静かな日々を取り戻し、叔父・桐島冬司との距離が少しずつ縮まっていく。経済界に「氷の桐島」と呼ばれる男が、澪の前でだけ眼光を和らげる——本人も気づかないまま。 「俺でいいのか」「いいですよ」 今度の答えは、本物だった。

私がいなくなってから「実は愛していた」なんて、滑稽にもほどがあります。どうぞそのまま、空っぽの部屋で後悔なさってください。

葉山 乃愛
恋愛
「君を愛することはない」と言ったのは、貴方の方でしたよね? 結婚して三年間、一度も寝室を訪れず、愛人との噂を隠そうともしなかった公爵。 離縁状を置いて私が城を去った後、なぜか彼は狂ったように私を探しているらしい。 今さら愛に気づいた? ──ふふ、滑稽ですこと。 私はもう、新しい国で最高の隣人に囲まれて、笑って過ごしているんですから。

【完結】あなたの隣に私は必要ですか?

らんか
恋愛
政略結婚にて、3年前より婚約し、学園卒業と共に嫁ぐ予定であったアリーシア。 しかし、諸事情により結婚式は延期され、次の結婚式の日取りさえなかなか決められない状況であった。 そんなアリーシアの婚約者ルートヴィッヒは、護衛対象である第三王女ミーアの傍を片時も離れようとしない。 月1回の婚約者同士のお茶会もすぐに切り上げてしまい、夜会へのエスコートすらしてもらった事がない。 そんな状況で、アリーシアは思う。 私はあなたの隣に必要でしょうか? あなたが求めているのは別の人ではないのでしょうかと。 * 短編です。 ご感想欄は都合により、閉じさせて頂きます。