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第12話「逃げ場なし」
第12話「逃げ場なし」
弁護士事務所の会議室は、狭かった。
テーブルを挟んで、慧介と奈々が並んで座った。向かいに弁護士。その隣に、弁護士の補佐らしき若い男が座っていた。窓のない部屋だった。蛍光灯の光が、白々と四人を照らしていた。
弁護士が書類を広げた。
「前回からの宿題を整理しました」
そう言って、A4の紙を慧介と奈々の前に置いた。「取り得る手段の検討」という表題がついていた。箇条書きが並んでいる。
「まず財産の整理から確認します。現在、お二人の資産総額はどのくらいになりますか」
慧介が答えた。預貯金、投資信託、不動産。慧介名義の資産を順番に挙げた。奈々は黙っていた。奈々名義の資産は、ほとんどないはずだった。
弁護士が計算した。
「合算して、およそ三千二百万円ですね」
「はい」
「十億円に対して、三千二百万円」
弁護士は数字を並べただけだった。しかしその並べ方が、すべてを語っていた。
奈々が膝の上で手を組んだ。
「自己破産という選択肢はどうですか」
奈々が口を開いた。弁護士が奈々を見た。
「前回も申し上げましたが、連帯保証債務は自己破産によっても消滅しません」
「でも、少しは楽になるんじゃないですか」
「白石さん——失礼、現在は桐島さんでしたね」
奈々の顔が、わずかに歪んだ。桐島という名前が、今は重さを持っていた。
「自己破産をすれば、慧介さんの資産は整理されます。しかし連帯保証人としての義務は残る。桐島ホールディングスは、残りの債務を慧介さんに請求し続けることができます」
「分割で返すことは」
「債権者が認めれば可能です。しかし桐島ホールディングスが分割払いに応じるかどうかは、先方の判断次第です」
「交渉できませんか」
弁護士が少し間を置いた。
「当事務所から打診することは可能です。ただし」
「ただし?」
「桐島ホールディングスは、すでにこちらの法的手段をすべて想定した上で動いています。打診しても、条件が厳しくなる可能性の方が高い」
慧介は弁護士を見た。
「すべて想定した上で、というのは」
「債権の買い取りのタイミング、内容証明の送付、弁済期限の設定——すべてが法的に隙のない形で組まれています。素人が組める構造ではありません。専門家が、相当な時間をかけて準備したものです」
慧介は黙った。
相当な時間をかけて準備した。
それはつまり、澪の父が、慧介と奈々が入籍するずっと前から、この構造を組み上げていたということだった。
「実家への援助要請は」
今度は慧介が聞いた。
「ご両親に資産がある場合、援助を受けることは可能です。ただし」
「ただし?」
弁護士が補佐の男に目配せした。補佐が別の書類を取り出した。
「慧介さんのご両親の会社ですが、桐島グループとの取引関係があります」
慧介の手が、止まった。
「その取引関係において、桐島側がある程度の影響力を持っています。ご両親が慧介さんへの援助を行った場合、その取引に影響が出る可能性があります」
「それは——」
「脅しではありません。ただの構造的な事実です。桐島ホールディングスが意図したかどうかはわかりません。しかし結果として、そういう状況になっています」
慧介は椅子の背に、静かにもたれた。
実家も、使えない。
自己破産も、意味がない。
分割交渉も、望み薄。
財産整理も、焼け石に水。
弁済期限まで、あと二十三日。
「他に、何か手段はありますか」
慧介は静かに聞いた。
弁護士が少し間を置いた。その間が、答えだった。
「現時点では、桐島ホールディングスと直接交渉するか、弁済期限の延長を申請するか——いずれも先方の判断次第という状況です」
「つまり」
「つまり、慧介さん側に取れる有効な手段は、現時点では限られています」
限られています、という言い方だった。ない、とは言わなかった。しかし意味は同じだった。
奈々が口を開いた。
「桐島澪に、直接話すことはできませんか」
室内が静かになった。
弁護士が奈々を見た。
「元奥様に、ということですか」
「彼女が動いてくれれば、父親も——」
「奈々」
慧介が静かに遮った。
奈々が慧介を見た。
「澪は関係ない」
「でも——」
「澪は、何もしていない。澪に頼むのは筋が違う」
奈々が黙った。
慧介は弁護士を見た。
「わかりました。引き続き、先方との交渉をお願いします」
「承知しました。ただ、期待値は低めに持っていただいた方が」
「わかっています」
慧介は立ち上がった。奈々も立った。
会議室を出ると、廊下が細く続いていた。窓の向こうに、冬の空が見えた。
奈々が慧介の袖を引いた。
「慧介」
「何だ」
「どうするの、これから」
慧介は奈々を見た。
どうするの、これから。それを俺に聞くか、と思った。この状況を作ったのは奈々だった。しかし怒鳴る気にはなれなかった。怒りよりも先に、疲れがあった。
「わからない」
慧介は正直に答えた。
「本当に、わからない」
奈々が慧介の顔を見た。その目に、初めて本物の怯えがあった気がした。計算でも演技でもない、ただの怯え。
慧介はそれを見て、何も感じなかった。
感じるべき何かが、もう残っていなかった。
「行こう」
慧介は歩き出した。奈々が後をついてきた。
エレベーターを待つ間、二人は何も言わなかった。
扉が開いた。乗り込んだ。扉が閉まった。
鏡張りのエレベーターの中で、慧介は自分の顔を見た。
知らない人間の顔だった。
第12話 了
弁護士事務所の会議室は、狭かった。
テーブルを挟んで、慧介と奈々が並んで座った。向かいに弁護士。その隣に、弁護士の補佐らしき若い男が座っていた。窓のない部屋だった。蛍光灯の光が、白々と四人を照らしていた。
弁護士が書類を広げた。
「前回からの宿題を整理しました」
そう言って、A4の紙を慧介と奈々の前に置いた。「取り得る手段の検討」という表題がついていた。箇条書きが並んでいる。
「まず財産の整理から確認します。現在、お二人の資産総額はどのくらいになりますか」
慧介が答えた。預貯金、投資信託、不動産。慧介名義の資産を順番に挙げた。奈々は黙っていた。奈々名義の資産は、ほとんどないはずだった。
弁護士が計算した。
「合算して、およそ三千二百万円ですね」
「はい」
「十億円に対して、三千二百万円」
弁護士は数字を並べただけだった。しかしその並べ方が、すべてを語っていた。
奈々が膝の上で手を組んだ。
「自己破産という選択肢はどうですか」
奈々が口を開いた。弁護士が奈々を見た。
「前回も申し上げましたが、連帯保証債務は自己破産によっても消滅しません」
「でも、少しは楽になるんじゃないですか」
「白石さん——失礼、現在は桐島さんでしたね」
奈々の顔が、わずかに歪んだ。桐島という名前が、今は重さを持っていた。
「自己破産をすれば、慧介さんの資産は整理されます。しかし連帯保証人としての義務は残る。桐島ホールディングスは、残りの債務を慧介さんに請求し続けることができます」
「分割で返すことは」
「債権者が認めれば可能です。しかし桐島ホールディングスが分割払いに応じるかどうかは、先方の判断次第です」
「交渉できませんか」
弁護士が少し間を置いた。
「当事務所から打診することは可能です。ただし」
「ただし?」
「桐島ホールディングスは、すでにこちらの法的手段をすべて想定した上で動いています。打診しても、条件が厳しくなる可能性の方が高い」
慧介は弁護士を見た。
「すべて想定した上で、というのは」
「債権の買い取りのタイミング、内容証明の送付、弁済期限の設定——すべてが法的に隙のない形で組まれています。素人が組める構造ではありません。専門家が、相当な時間をかけて準備したものです」
慧介は黙った。
相当な時間をかけて準備した。
それはつまり、澪の父が、慧介と奈々が入籍するずっと前から、この構造を組み上げていたということだった。
「実家への援助要請は」
今度は慧介が聞いた。
「ご両親に資産がある場合、援助を受けることは可能です。ただし」
「ただし?」
弁護士が補佐の男に目配せした。補佐が別の書類を取り出した。
「慧介さんのご両親の会社ですが、桐島グループとの取引関係があります」
慧介の手が、止まった。
「その取引関係において、桐島側がある程度の影響力を持っています。ご両親が慧介さんへの援助を行った場合、その取引に影響が出る可能性があります」
「それは——」
「脅しではありません。ただの構造的な事実です。桐島ホールディングスが意図したかどうかはわかりません。しかし結果として、そういう状況になっています」
慧介は椅子の背に、静かにもたれた。
実家も、使えない。
自己破産も、意味がない。
分割交渉も、望み薄。
財産整理も、焼け石に水。
弁済期限まで、あと二十三日。
「他に、何か手段はありますか」
慧介は静かに聞いた。
弁護士が少し間を置いた。その間が、答えだった。
「現時点では、桐島ホールディングスと直接交渉するか、弁済期限の延長を申請するか——いずれも先方の判断次第という状況です」
「つまり」
「つまり、慧介さん側に取れる有効な手段は、現時点では限られています」
限られています、という言い方だった。ない、とは言わなかった。しかし意味は同じだった。
奈々が口を開いた。
「桐島澪に、直接話すことはできませんか」
室内が静かになった。
弁護士が奈々を見た。
「元奥様に、ということですか」
「彼女が動いてくれれば、父親も——」
「奈々」
慧介が静かに遮った。
奈々が慧介を見た。
「澪は関係ない」
「でも——」
「澪は、何もしていない。澪に頼むのは筋が違う」
奈々が黙った。
慧介は弁護士を見た。
「わかりました。引き続き、先方との交渉をお願いします」
「承知しました。ただ、期待値は低めに持っていただいた方が」
「わかっています」
慧介は立ち上がった。奈々も立った。
会議室を出ると、廊下が細く続いていた。窓の向こうに、冬の空が見えた。
奈々が慧介の袖を引いた。
「慧介」
「何だ」
「どうするの、これから」
慧介は奈々を見た。
どうするの、これから。それを俺に聞くか、と思った。この状況を作ったのは奈々だった。しかし怒鳴る気にはなれなかった。怒りよりも先に、疲れがあった。
「わからない」
慧介は正直に答えた。
「本当に、わからない」
奈々が慧介の顔を見た。その目に、初めて本物の怯えがあった気がした。計算でも演技でもない、ただの怯え。
慧介はそれを見て、何も感じなかった。
感じるべき何かが、もう残っていなかった。
「行こう」
慧介は歩き出した。奈々が後をついてきた。
エレベーターを待つ間、二人は何も言わなかった。
扉が開いた。乗り込んだ。扉が閉まった。
鏡張りのエレベーターの中で、慧介は自分の顔を見た。
知らない人間の顔だった。
第12話 了
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