夫の不倫を知った日、私は静かに母になった 〜あなたの子ですが、あなたの子ではありません〜

まさき

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第8話 いつもの夕食

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第8話 いつもの夕食

 夜九時過ぎ。
 
 玄関のドアが開く音がした。
 
「ただいまー」
 
 大輝の声が、廊下に響く。
 
 私はキッチンに立ったまま答えた。
 
「おかえり」
 
 フライパンの火を少し弱める。
 
 肉の焼ける音が、じゅうっと静かに続いていた。
 
 リビングから足音が聞こえる。
 
 スーツを脱ぐ音。
 
 ネクタイを外す気配。
 
 いつもと同じ夜。
 
 でも。
 
 昨日までとは、少しだけ違う。
 
 私は全部知っている。
 
「今日さ、疲れたー」
 
 大輝がキッチンをのぞき込んだ。
 
「お疲れさま」
 
 私は振り返らずに答える。
 
「ご飯もうすぐ?」
 
「うん、もうできるよ」
 
「助かるー」
 
 その声は、いつも通りだった。
 
 まるで昨日、誰かとレストランで食事をしていた人の声には聞こえない。
 
 私はフライパンの料理を皿に移す。
 
 湯気がふわっと上がった。
 
 食卓に並べる。
 
 味噌汁。
 焼き魚。
 サラダ。
 
 いつもの夕食。
 
「お、今日うまそう」
 
 大輝が椅子に座る。
 
 私は向かいの席に座った。
 
「いただきます」
 
「いただきます」
 
 箸が皿に触れる音。
 
 静かな食卓だった。
 
「今日さ」
 
 大輝が魚をほぐしながら言う。
 
「会社でちょっとトラブルあって」
 
「そうなんだ」
 
「会議長引いてさ」
 
 私は味噌汁を一口飲む。
 
 温かい。
 
 でも胸の奥は、少し冷たい。
 
「最近ちょっと帰り遅い日多くてさ」
 
 大輝は続ける。
 
「バタバタしてるんだよね」
 
「大変だね」
 
「ほんとだよ」
 
 私はその顔を静かに見た。
 
 胸の奥が、少しだけざわつく。
 
 嘘をついている人の顔。
 
 でも。
 
 とても自然だった。
 
 私は思う。
 
 昨日の夜。
 
 この人は、真由子とレストランにいた。
 
 午後九時。
 
 二人で食事をしていた。
 
 レシートの数字が、頭に浮かぶ。
 
「どうした?」
 
 大輝が不思議そうに言った。
 
「ぼーっとしてる」
 
「あ、ごめん」
 
 私は少し笑う。
 
「ちょっと疲れてて」
 
「体調悪い?」
 
「ううん、大丈夫」
 
 私は首を振る。
 
 本当は。
 
 私は妊娠している。
 
 でも、それは言わない。
 
 まだ。
 
 この人には。
 
「最近さ」
 
 大輝が言う。
 
「無理すんなよ」
 
「え?」
 
「ちょっと疲れてそうだし」
 
 優しい声だった。
 
 その優しさが、胸に少しだけ刺さる。
 
「そうかな」
 
「うん」
 
「仕事とか大変?」
 
「普通だよ」
 
 私は答える。
 
 本当の理由は、もちろん違う。
 
 でも。
 
 言う必要はない。
 
 まだ。
 
 そのときじゃない。
 
 食事は静かに続く。
 
 テレビの音。
 
 箸の音。
 
 日常の音。
 
 大輝が笑う。
 
 普通の顔。
 
 普通の夫。
 
 でも。
 
 私は知っている。
 
 この人は嘘をついている。
 
 そして。
 
 私は、それを知っている。
 
 食事が終わる。
 
「ごちそうさま」
 
「お粗末さま」
 
 皿を片付けながら、私は思う。
 
 怒ることもできる。
 
 問い詰めることもできる。
 
 でも。
 
 今じゃない。
 
 私はまだ、何も言わない。
 
 ただ。
 
 全部、見ている。
 
 全部、覚えている。
 
 そのとき。
 
 ソファから大輝が言った。
 
「そういえばさ」
 
「うん?」
 
「今度の日曜、会社の飲み会あるんだ」
 
 私は一瞬だけ手を止める。
 
 飲み会。
 
 たぶん。
 
 また、嘘。
 
「そっか」
 
 私は振り返る。
 
「どこの店?」
 
「たぶん駅前の居酒屋かな」
 
「そうなんだ」
 
 私はうなずく。
 
「遅くなる?」
 
「うーん、たぶん」
 
「わかった」
 
 それだけ言う。
 
 大輝は何も気づかない。
 
 私は静かに皿を洗う。
 
 水の音が流れる。
 
 その音を聞きながら、私は思う。
 
 日曜日。
 
 その日。
 
 私は少しだけ確かめてみよう。
 
 本当に飲み会なのか。
 
 それとも――
 
 違うのか。
 
 水を止める。
 
 静かなキッチンで、私は小さくつぶやいた。
 
「……いいよ」
 
 まだ。
 
 何も知らないふりで。
 
 もう少しだけ。
 
 見ていよう。
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